「大和を生みし者達」で、その進水式の様子を西島亮二氏の視点から語りました。
進水式では、庭田元呉海軍工廠造船部長の証言ならびに手記が残されており、その顛末をしることができます。
「くだまき」では「祖父・海軍そして大和 大和を生みし者達 命名 『軍艦大和』」で語りました。
昭和十五年八月八日朝七時半、五万の工廠従業員がようやく正門内にすい込まれ、呉市四ツ道路から眼鏡橋にいたる大通りは、人影もまばらになったころ、けたたましい防空警報がなりひびいた。(上記 庭田氏 手記より抜粋)
上記のような書き出しで始まるその日の出来事は以下のように進んでまいります。
秘匿中の秘匿。「壱號艦」の建造は、その機密保持に大きなエネルギーを使っておりました。
このようなわけで、当日式場には進水に必要な人員と、前日まで艦内現場に働いていた最少限度の従業員にのみ見学を許可した。(中略)もしこれが、従来のような公開の進水式であったなら、立錐の余地もないほどの大拝観者で埋もれた中を、軍楽隊の演奏する勇壮な軍歌「マーチ」に送られて、歓呼声裡に誕生すべきものをと、ふと私の心の隅をあわれさがよぎった。(中略)司令長官島田繁太郎中将は「命名書 軍艦大和 昭和十二年十一月四日その工を起こし今やその成るを告げ茲に命名す 昭和十五年八月八日 海軍大臣 及川古志郎」と低声で朗読して、型のごとく工廠長、砂川中将に下げ渡し、工廠長は造船部長の私に進水命令を下された。私は進水主任の芳井造船大佐に命令を伝達し、進水主任は左記の順序で進水作業を指揮した。
第一 用意
第二 張纜索合わせ
第三 曳き方始め
第四 支綱切断
工廠長が「銀斧」一閃支綱を切断すれば、(手記には「」はございません)思いギロッチング・シャーは艦首の太い紅白の纜索をいっきょに切断し、巨艦「大和」はしずしずと渠外に曳き出された。
(庭尚三氏 手記より抜粋)
大和が命名された日、その進水式の様子です。
この「くだまき」を語りまして、しばらくして後。一通のメッセージが届いていることに気づきました。
その内容は現在削除しております。
内容は酔漢しか分からないようにはなっておりますが、個人を特定できる情報でしたので、そのようにいたしました。
本名、携帯番号、等を掲載してのメッセージでした。
一部ご紹介いたします。
「くだまきを拝読いたしました。私は現在(東北の某都市)に住んでおります。砂川の曾孫でございます」と。
本来ならば「○○市」としたいところですが、砂川元工廠長は、その任を離れた際の歴史的解釈がもたらす社会的な出来事に数多く携わっており、それが、現在でも問題にされる方々が多いことに気づきました。御本人のご希望もございまして、このようにいたしました。ご理解下さいませ。
さて、酔漢、記載されておりました電話番号に連絡いたしました。
「酔漢です、メッセージを拝読いたしました」
「はじめまして、砂川の曾孫です。母方ですので苗字は違っております」
「ご遺族の方、それも元工廠長と御縁のある方からの連絡は初めてです」
「実は、ひとつお話いたしたいことがありまして・・」
「なんでしょうか?」
「大和進水式に使われました『斧』ですが、私はその斧がどのようになったか、知っているんです」
「本当ですか!お話頂けるのでしょうか」
「実は・・・・・」
酔漢、数奇な運命をたどりましたその「銀斧」の運命に言葉が出ませんでした。
「酔漢さんには知って頂きたかった史実なのです。今だ、これは公表されてませんし、公言するつもりもまったくありません」
「では、くだまきで語ることは、やめますね・・」
「そうして頂ければ幸いです」
電話での会話は以上です。
銀斧は今、現存しておりません。この部分だけは語ります。しかし、彼との約束もありまして、これは酔漢の胸の内に秘めて置きます。
「ここまで話したら知りたくなるだろう!」
お怒りの御仁多々いらっしゃる。それは承知です。何せ「大和ミュージアム」が欲しがる事は目に見えております。
「そうだよな、あれば展示してもらいたいよな」これは酔漢とて同様の思いです。
ですが、今回の「くだまき」はこれを皆様にお知らせすることが主旨ではないのです。
「くだまき」で大和を語り始めて二年近くが過ぎようとしておりますが、ここに登場された方々のご遺族等と連絡が取れたという事をお知らせしたかったのです。
「大和」に関する雑誌、新聞、書等。数多くございます。
これらには登場することのない、戦没戦死者名を解り得る範囲で記載いたしました。
アクセス状況を見ますと、これらのお名前で検索されておられる方が大勢おられます。
「祖父が叔父が親戚が、どのような状況で戦死したのか」
少しでも、分かることができますれば、「くだまき」の意味もあろうかと考えます。
「仙台は近くです。お会いしたいですね」
「では、また何かありましたらご連絡を差し上げます」
くだまきで「大和」を語りましたことから、繋がった糸もあったのでした。
進水式では、庭田元呉海軍工廠造船部長の証言ならびに手記が残されており、その顛末をしることができます。
「くだまき」では「祖父・海軍そして大和 大和を生みし者達 命名 『軍艦大和』」で語りました。
昭和十五年八月八日朝七時半、五万の工廠従業員がようやく正門内にすい込まれ、呉市四ツ道路から眼鏡橋にいたる大通りは、人影もまばらになったころ、けたたましい防空警報がなりひびいた。(上記 庭田氏 手記より抜粋)
上記のような書き出しで始まるその日の出来事は以下のように進んでまいります。
秘匿中の秘匿。「壱號艦」の建造は、その機密保持に大きなエネルギーを使っておりました。
このようなわけで、当日式場には進水に必要な人員と、前日まで艦内現場に働いていた最少限度の従業員にのみ見学を許可した。(中略)もしこれが、従来のような公開の進水式であったなら、立錐の余地もないほどの大拝観者で埋もれた中を、軍楽隊の演奏する勇壮な軍歌「マーチ」に送られて、歓呼声裡に誕生すべきものをと、ふと私の心の隅をあわれさがよぎった。(中略)司令長官島田繁太郎中将は「命名書 軍艦大和 昭和十二年十一月四日その工を起こし今やその成るを告げ茲に命名す 昭和十五年八月八日 海軍大臣 及川古志郎」と低声で朗読して、型のごとく工廠長、砂川中将に下げ渡し、工廠長は造船部長の私に進水命令を下された。私は進水主任の芳井造船大佐に命令を伝達し、進水主任は左記の順序で進水作業を指揮した。
第一 用意
第二 張纜索合わせ
第三 曳き方始め
第四 支綱切断
工廠長が「銀斧」一閃支綱を切断すれば、(手記には「」はございません)思いギロッチング・シャーは艦首の太い紅白の纜索をいっきょに切断し、巨艦「大和」はしずしずと渠外に曳き出された。
(庭尚三氏 手記より抜粋)
大和が命名された日、その進水式の様子です。
この「くだまき」を語りまして、しばらくして後。一通のメッセージが届いていることに気づきました。
その内容は現在削除しております。
内容は酔漢しか分からないようにはなっておりますが、個人を特定できる情報でしたので、そのようにいたしました。
本名、携帯番号、等を掲載してのメッセージでした。
一部ご紹介いたします。
「くだまきを拝読いたしました。私は現在(東北の某都市)に住んでおります。砂川の曾孫でございます」と。
本来ならば「○○市」としたいところですが、砂川元工廠長は、その任を離れた際の歴史的解釈がもたらす社会的な出来事に数多く携わっており、それが、現在でも問題にされる方々が多いことに気づきました。御本人のご希望もございまして、このようにいたしました。ご理解下さいませ。
さて、酔漢、記載されておりました電話番号に連絡いたしました。
「酔漢です、メッセージを拝読いたしました」
「はじめまして、砂川の曾孫です。母方ですので苗字は違っております」
「ご遺族の方、それも元工廠長と御縁のある方からの連絡は初めてです」
「実は、ひとつお話いたしたいことがありまして・・」
「なんでしょうか?」
「大和進水式に使われました『斧』ですが、私はその斧がどのようになったか、知っているんです」
「本当ですか!お話頂けるのでしょうか」
「実は・・・・・」
酔漢、数奇な運命をたどりましたその「銀斧」の運命に言葉が出ませんでした。
「酔漢さんには知って頂きたかった史実なのです。今だ、これは公表されてませんし、公言するつもりもまったくありません」
「では、くだまきで語ることは、やめますね・・」
「そうして頂ければ幸いです」
電話での会話は以上です。
銀斧は今、現存しておりません。この部分だけは語ります。しかし、彼との約束もありまして、これは酔漢の胸の内に秘めて置きます。
「ここまで話したら知りたくなるだろう!」
お怒りの御仁多々いらっしゃる。それは承知です。何せ「大和ミュージアム」が欲しがる事は目に見えております。
「そうだよな、あれば展示してもらいたいよな」これは酔漢とて同様の思いです。
ですが、今回の「くだまき」はこれを皆様にお知らせすることが主旨ではないのです。
「くだまき」で大和を語り始めて二年近くが過ぎようとしておりますが、ここに登場された方々のご遺族等と連絡が取れたという事をお知らせしたかったのです。
「大和」に関する雑誌、新聞、書等。数多くございます。
これらには登場することのない、戦没戦死者名を解り得る範囲で記載いたしました。
アクセス状況を見ますと、これらのお名前で検索されておられる方が大勢おられます。
「祖父が叔父が親戚が、どのような状況で戦死したのか」
少しでも、分かることができますれば、「くだまき」の意味もあろうかと考えます。
「仙台は近くです。お会いしたいですね」
「では、また何かありましたらご連絡を差し上げます」
くだまきで「大和」を語りましたことから、繋がった糸もあったのでした。
ある意味同じような境遇の酔漢さんへ。
そして、大和の歴史に携わった一員の子孫として
同級生に○霞の息子がいたといいます。
と言うことは、酔漢さんと同期と言うことですね。
自分でもどこで語ったか忘れておる人の名前での検索が多いのでした。
これは先にも申し上げましたが、「くだまき 大和編」の目的の一つです。
そうそう、間違いなく、同期です。
昨年9月の同期会には彼は参加していたのでしょうか。佐○君と同級生だったら、合唱コンクール(校内の)で優勝しているのかな。
何せ佐○君は優勝請負人でしたので。
音楽のセンスは抜群なんですよ。
酔漢さんは、今頃故郷ですかね。