昭和19年も暮れ、昭和20年新年。戦局悪化の極みではあったが、大和ではそれでも新年を迎える雰囲気はあったのでした。
先に「大和最後の艦上写真」を掲載いたしましたが、私服の「謎の人物」が写っていることからも、そこそこ新年を迎えての行事はあったのかなと推察いたします。
「年賀状」のやり取りは確認いたしておりません。
少なくても、酔漢祖父からの昭和20年年賀状は残されておりませんでした。
その頃の大和での生活です。
これは、昭和51年慰霊祭の出席した酔漢父が生存された方から聞いたお話です。(父はこの時「徳之島」まで出かけております)
「訓練とは言っても、燃料がないから、船を動かすことは出来ません。もっぱら模擬戦闘訓練とでもいうのでしょうか。例えば、弾薬庫から弾を運び、砲身に弾を込める。その早さを磨く。そんな感じでした。レイテ直前、森下艦長は厳しくて、よく機銃座事の成績を班長に報告させるのでした。へまをやったら『精神注入棒』でしたから訓練とはいえ、本気そのものでした。起床は午前6時。そして『煙草盆だせ』まで本当に息つくしまもないほどでした。まぁ士官の人達はそうでもなかったと思いますが」
おそらく、第五分隊坪井さんの証言ではなかったかと推察いたしております。
(坪井平次氏著「戦艦大和の最後」光人社 にその詳細が記載されております)
「長官、新年おめでとうございます」
「おめでとう。艦の中での新年は久しぶりだよ」
「自分は開戦以来、艦の中でしか新年を迎えておりません」
「ははは・・そうか。そうだな」
司令長官公室内。二艦隊、大和。幹部が集合して会食です。
「今年は、よい年になってもらいたいものだ」
艦長の有賀がそう話すのを誰もが頷いて聞いておりました。
「敵さんも正月であろうか・・」
「敵は、クリスマスの方が賑やかだがな」
「クリスマスですか?長官?」
「ああ、キリスト生誕を祝ってのまぁ祭りだ」
「そういえば、長官は米国へ・・」
「まぁ、敵国への留学であるからあまり大きな声では言えんがな」
伊藤は普段あまり個人的なことは話さないのでした。
ですが、家族への書簡は多数残されております。
面白いのは、そのアメリカからの絵葉書。伊藤長官が自ら絵筆を取り、今で言えば「絵手紙」をしたためております。
その葉書には、公園の木陰で寝転ぶ本人の姿。扇子で扇ぎながらまるで「漫画」のようです。この司令長官、「絵心があったんだな」と思わざるをえません。
1927年から29年までの二年間。アメリカ海軍にお世話になっていたのでした。
ですから伊藤は海軍内では「親米派」と見られた時期もございます。
開戦時はどちらかと言えば反対の立場を貫きます。
その時期、お世話になったのが「スプールアンス」でした。
この人下戸です。ですが、我が家で催すパーティー大好き。人に酒を振舞うことが本人にとっても喜びなのでした。
「セイイチ?モットノミナサイ」的な言葉があったかどうか・・・(ここまでフィクションにしてもよかったかな?)
逆にスプールアンスは「親日派」なのです。
「アドミラルトーゴー」(東郷平八郎元帥)を事の他尊敬していたとされる記録が残されております。
スプールアンス41歳。伊藤27歳。若い二人の酒の席。
いったいどんな会話が交わされていたのか、今となっては非常に興味深いことです。
「その米国軍人はどんな方だったのですか」
「とにかく、明るい人だった。だが、米国海軍は英国海軍とはまたちがった雰囲気がある。兵が直立不動ができないんだ。いやさせるという事もしない。もちろん『精神注入棒』たる道具はない」
一同笑い。
このスプールアンスがミッドウェー海戦での功労者であることは日本海軍でも把握はしていたはずです。ですが、米国軍人事についての情報は、あまり興味がなかったのか、詳細を把握してはおりません。
これも情報戦略に疎かった軍令部だったのでした。
「アメリカの巨大な産業を相手に戦争をしても勝ち目はない」
これは伊藤の本音です。
山本五十六ほか、アメリカを肌で知っている人間なら誰でも思うことなのでした。
伊藤も例外ではありません。
「この顛末は一体どうなるのか・・」
伊藤は酒の席でありながら、ふとそう思うのでした。
大和二次士官室内。酔漢祖父他、新年の酒宴。
「千福」あたり飲んでたかな?
「おめぇなぁちょっくら荷物ばぁ送ってくっからっしゃ」
「酔漢(祖父)少尉殿。この荷物の中は?」
「まぁ、こんなもんだべ」
「キャラメルにビスケット・・・これ全部ですか?」
「あぁ、おらほのやろっこさぁ送ってけっかって思ってっしゃ。お年玉だべ」
「疎開先へ?」
「おらいの村だっちゃ」
「少尉殿はどちら?東北ですか?」
「あぁ、宮城は七ヶ浜ってとこっしゃ」
年明け。疎開先。七ヶ浜花渕。酔漢祖父実家です。小包が届きます。箱1つのお菓子。当時では珍しかった菓子が一杯詰まっておりました。
呉からです。
甘いものが不足していた時代。なによりのご馳走だったのでした。
この正月明けに届いた荷物が最後から二度目となります。
次に届きますのは、昭和20年4月も10日を過ぎた頃となるのでした。
「イトウという若い士官が印象的であった」
最前線でのニューイヤーをスプールアンスは迎えます。
アメリカは台湾より沖縄を選んでの攻撃準備をしております。
「彼もジャパンのアドミラルになるに相応しい人物であることは間違いない」
「司令、またジャップの話ですか?」
「あぁ、私はニッポンから学んだことはたくさんある」
「またトーゴーの話をするんじゃないでしょうね」
明治40年。アナポリスで横須賀へ入港した日本の風景は、少尉候補生としての若きスプールアンスにとって貴重な経験となるのでした。
昭和20年。これから4ケ月後。この二人が司令長官として、運命の決戦を迎えるとはまだ誰も知らなかったのでした。
「士官以上。右舷甲板」
「何でしょうね?」
「正月の写真撮影でねぇか」
「酔漢さんもこれから?」
「あぁおらいもだおん」
また登場させました。以前、謎の人物をご紹介いたしました写真です。
この写真が大和最後の写真。そして、祖父最後の写真となったのでした。
先に「大和最後の艦上写真」を掲載いたしましたが、私服の「謎の人物」が写っていることからも、そこそこ新年を迎えての行事はあったのかなと推察いたします。
「年賀状」のやり取りは確認いたしておりません。
少なくても、酔漢祖父からの昭和20年年賀状は残されておりませんでした。
その頃の大和での生活です。
これは、昭和51年慰霊祭の出席した酔漢父が生存された方から聞いたお話です。(父はこの時「徳之島」まで出かけております)
「訓練とは言っても、燃料がないから、船を動かすことは出来ません。もっぱら模擬戦闘訓練とでもいうのでしょうか。例えば、弾薬庫から弾を運び、砲身に弾を込める。その早さを磨く。そんな感じでした。レイテ直前、森下艦長は厳しくて、よく機銃座事の成績を班長に報告させるのでした。へまをやったら『精神注入棒』でしたから訓練とはいえ、本気そのものでした。起床は午前6時。そして『煙草盆だせ』まで本当に息つくしまもないほどでした。まぁ士官の人達はそうでもなかったと思いますが」
おそらく、第五分隊坪井さんの証言ではなかったかと推察いたしております。
(坪井平次氏著「戦艦大和の最後」光人社 にその詳細が記載されております)
「長官、新年おめでとうございます」
「おめでとう。艦の中での新年は久しぶりだよ」
「自分は開戦以来、艦の中でしか新年を迎えておりません」
「ははは・・そうか。そうだな」
司令長官公室内。二艦隊、大和。幹部が集合して会食です。
「今年は、よい年になってもらいたいものだ」
艦長の有賀がそう話すのを誰もが頷いて聞いておりました。
「敵さんも正月であろうか・・」
「敵は、クリスマスの方が賑やかだがな」
「クリスマスですか?長官?」
「ああ、キリスト生誕を祝ってのまぁ祭りだ」
「そういえば、長官は米国へ・・」
「まぁ、敵国への留学であるからあまり大きな声では言えんがな」
伊藤は普段あまり個人的なことは話さないのでした。
ですが、家族への書簡は多数残されております。
面白いのは、そのアメリカからの絵葉書。伊藤長官が自ら絵筆を取り、今で言えば「絵手紙」をしたためております。
その葉書には、公園の木陰で寝転ぶ本人の姿。扇子で扇ぎながらまるで「漫画」のようです。この司令長官、「絵心があったんだな」と思わざるをえません。
1927年から29年までの二年間。アメリカ海軍にお世話になっていたのでした。
ですから伊藤は海軍内では「親米派」と見られた時期もございます。
開戦時はどちらかと言えば反対の立場を貫きます。
その時期、お世話になったのが「スプールアンス」でした。
この人下戸です。ですが、我が家で催すパーティー大好き。人に酒を振舞うことが本人にとっても喜びなのでした。
「セイイチ?モットノミナサイ」的な言葉があったかどうか・・・(ここまでフィクションにしてもよかったかな?)
逆にスプールアンスは「親日派」なのです。
「アドミラルトーゴー」(東郷平八郎元帥)を事の他尊敬していたとされる記録が残されております。
スプールアンス41歳。伊藤27歳。若い二人の酒の席。
いったいどんな会話が交わされていたのか、今となっては非常に興味深いことです。
「その米国軍人はどんな方だったのですか」
「とにかく、明るい人だった。だが、米国海軍は英国海軍とはまたちがった雰囲気がある。兵が直立不動ができないんだ。いやさせるという事もしない。もちろん『精神注入棒』たる道具はない」
一同笑い。
このスプールアンスがミッドウェー海戦での功労者であることは日本海軍でも把握はしていたはずです。ですが、米国軍人事についての情報は、あまり興味がなかったのか、詳細を把握してはおりません。
これも情報戦略に疎かった軍令部だったのでした。
「アメリカの巨大な産業を相手に戦争をしても勝ち目はない」
これは伊藤の本音です。
山本五十六ほか、アメリカを肌で知っている人間なら誰でも思うことなのでした。
伊藤も例外ではありません。
「この顛末は一体どうなるのか・・」
伊藤は酒の席でありながら、ふとそう思うのでした。
大和二次士官室内。酔漢祖父他、新年の酒宴。
「千福」あたり飲んでたかな?
「おめぇなぁちょっくら荷物ばぁ送ってくっからっしゃ」
「酔漢(祖父)少尉殿。この荷物の中は?」
「まぁ、こんなもんだべ」
「キャラメルにビスケット・・・これ全部ですか?」
「あぁ、おらほのやろっこさぁ送ってけっかって思ってっしゃ。お年玉だべ」
「疎開先へ?」
「おらいの村だっちゃ」
「少尉殿はどちら?東北ですか?」
「あぁ、宮城は七ヶ浜ってとこっしゃ」
年明け。疎開先。七ヶ浜花渕。酔漢祖父実家です。小包が届きます。箱1つのお菓子。当時では珍しかった菓子が一杯詰まっておりました。
呉からです。
甘いものが不足していた時代。なによりのご馳走だったのでした。
この正月明けに届いた荷物が最後から二度目となります。
次に届きますのは、昭和20年4月も10日を過ぎた頃となるのでした。
「イトウという若い士官が印象的であった」
最前線でのニューイヤーをスプールアンスは迎えます。
アメリカは台湾より沖縄を選んでの攻撃準備をしております。
「彼もジャパンのアドミラルになるに相応しい人物であることは間違いない」
「司令、またジャップの話ですか?」
「あぁ、私はニッポンから学んだことはたくさんある」
「またトーゴーの話をするんじゃないでしょうね」
明治40年。アナポリスで横須賀へ入港した日本の風景は、少尉候補生としての若きスプールアンスにとって貴重な経験となるのでした。
昭和20年。これから4ケ月後。この二人が司令長官として、運命の決戦を迎えるとはまだ誰も知らなかったのでした。
「士官以上。右舷甲板」
「何でしょうね?」
「正月の写真撮影でねぇか」
「酔漢さんもこれから?」
「あぁおらいもだおん」
また登場させました。以前、謎の人物をご紹介いたしました写真です。
この写真が大和最後の写真。そして、祖父最後の写真となったのでした。
硫黄島守備隊の司令官だった栗林中将にも米国駐在武官の経歴があります。
奇しき偶然ですね。
陸軍にしても海軍にしても、
米国の実情を知っている人物の意見が軽んじられた所に
太平洋戦争の悲劇の小さからぬ原因があるように思えてなりません。
山本さんにも米国駐在の経験がありますが、
この人については評価が分れるようです。
沖縄出撃時の二艦隊選任参謀・山本祐二大佐が山本英輔対象の子息だということを聞いたことがあります。
末次信義・水雷参謀ですが、もしかして末次信正提督の息子に当るのではないでしょうか。
沖縄出撃前の模擬戦闘訓練ですが、機銃分隊が「弾倉の素振り」というのをやったそうです。
一列に並んだ給弾員が機銃に弾倉を装填するのを待つ間、頭上に構えた弾倉を上下させるものだそうです。
吉田俊雄さんの『戦艦大和・その生と死』(PHP文庫)に出ているエピソードです。
吉田さんは終戦時は軍令部参謀でしたが、
大和の生存者に取材してこの本を書いています。
You take them(君がやれ)ですが・・・
スプルーアンスは最初は戦艦部隊に大和を迎撃させるつもりだったそうですね。
それがミッチャー提督から「機動部隊の方が大和に近い」と言われて出したのがこの命令だったでしょうか。
東郷提督を尊敬する者としての情を抑えて、確実に日本艦隊を討取れる命令を下す。
アメリカ人の合理性を見る思いがします。
ビシビシやられたのでしょうね。
当時アメリカは、皇居をつぶせばすぐ終わることを知っていたと聞きます。
又白河の関から北をロシア/南をアメリカに分断の話も・・今の朝鮮半島のようにですね。
しかし、反対したアメリカ人がいました。
それは、日本に駐留していた大使館などに勤務をしていた人達です。
日本人の友人も多く、貴重な財産を守るべきだと主張したのでしょう。
ともすれば、ここは共産圏の国になっていたかも知れませんね。
お菓子の小包とは豪勢だったのでしょうね。
お袋の実家に行くとおやつに貰ったのは、氷砂糖でした。
田んぼ仕事をしながら秋田市土崎港に向かうB29を見上げていたのでした。
もともと贅沢品?など見かけたことのない暮らし。
戦前も戦時中も戦後も、それほどの生活の変化はありませんでした。
「七人の侍」の舞台の農民みたいです。
スプルーアンスを始め、米国海軍の提督は、能力優先で抜擢された人物が多いですよね。
日本側の提督たちの、人間性の研究も実施してますし。
山本五十六には、確か海軍工廠を見学させています。
ハード面はもちろん、ソフト面でも、かないっこないや!
その前列に末次さんの奥様がいらした記憶がございます。
定かではございませんが。
名簿には「中谷さん」(アメリカからいらしておりました)後家族。(海軍一英語が堪能でいらっしゃった方です)そして酔漢家族。そして末次さんご家族とございます。
後に詳細は語ろうかと存じます。
さて、伊藤さんもそうですが、硫黄島の西さん。栗林中将にしても単に「親米派」と見られただけだったのはやはり軍の懐の狭さではなかったのではないのでしょうか。
いつの間にか外国から学ぶ余裕をなくし、それを否定に走る。「敵を知らず」戦争をする事の愚かさを感じます。
しかしながら、その運命を受け入れる伊藤整一司令長官です。
そのあたりが「総員退艦」へ繫がったかと推察しております。今後語ります。
最後の到着が20年4月。
最早、自身の父がこの世にいない時でございます。そうとは知らず。お菓子の包みで酔漢祖父が元気でいることを信じておった父でした。
最後の中身は、今まで以上に豪勢だったと聞きました。
未来のシュミレーションが出来上がっていたということでしょうか。この余裕です。
スプールアンスですが書類作成が嫌いで「あいつは怠け者だ」と言われてもいたそうです。
ひらめき優先の軍人だったのかもしれません。