レイテ敗戦後、井上海軍次官(仙台御出身。→クロンシュタット様いよいよ、御登場ですぞ。仙台二高OBでもございます)がこう発言しております。
現在の主人公「伊藤整一 第二艦隊司令長官」との会話です。
「レイテでの敗戦は誠に遺憾である。この海戦を見ても、お解かりかと思うが、最早軍艦一隻で敵を殲滅することなど不可能である。戦艦での作戦を経てることは不可能。戦艦は不用である。輸送船団護衛を主とし、南方からの物資が本土へ送られることに主眼を置き、その作戦が妥当であろう」
井上次官です。
これに異を唱えた伊藤です。
「水上部隊であれば現在護衛機無しでの作戦は難しいことは解る。だが、戦艦(大和を指します)には戦艦の使い道というものがある。今だ健在のものをやたらと不用というには早急である。使い方は必ず見つかる。敵に近づけさえできれば、有効に敵艦船を撃滅することは十分に可能である」と。
伊藤はその際、「第二艦隊司令長官」を拝命されるとは知らなかったのでした。
ですが、今現在、自身はその任にあります。
「はてさて、そうはあのとき言ったものの実際『大和』をどう有効活用すればよいのか・・」
伊藤自身も悩んでおります。
米内光政海軍大臣室。第二艦隊司令長官の任を受け、大臣へ直接報告する伊藤です。
「この度、第二艦隊司令長官を拝命されました」
「ご苦労。早速だが『大和』をどうするか、考えてくれまいか」
(そら来た!)咄嗟に本音が出た。と伊藤は思うのでした。
皆、名案がない。「責任の押し付け」とも思える発言が出てきております。
「だから、あの時(建艦時)に山本長官は戦艦より航空機と言っておったではないか」と、昔の話を持ち出す者までいる始末です。
「参ったな」ため息の伊藤でした。
親補式の帰り、靖国神社参拝へ向う車の中。石田恒夫少佐がおります。
「長官、どうされましたか?」
「いや、何でも無い。宮中へ入ったが何度目だろうか・・」
小磯総理大臣。同期の侍従武官中村俊久中将と一緒ではありましたが、流石の伊藤も緊張のしっぱなしではあったのでした。
宮家への挨拶もこれからでありました。
「やれやれ、時が経つのは早いものだな。たった4日前の事か」
艦橋へ上がるエレベーターの中。伊藤はこの一週間での間の事を考えておりました。
一体どこまで登るのか。艦橋の高さは極秘事項であるがゆうに40mは越えています。伊藤が森下参謀と共に第一艦橋へ入ります。
「長官。入ります。敬礼!」
士官全員が伊藤を直視し、敬礼の姿勢を取ります。第二艦隊司令部。そして有賀艦長はじめ、大和乗組員幹部が集合しております。
「皆、ご苦労」伊藤が短く言葉をかけました。
大和の艦橋内とはいえ、流石にこれだけの人数であれば狭く感じる。伊藤は場所を艦橋直下にある作戦室へ場所を替え、各参謀から現状報告を受けるのでした。
森下参謀からは第二艦隊の現状を聞きます。
「第一航空戦隊が第二艦隊の所属にあります。空母『天城』『葛城』『準鷹』『龍鳳』が編入されております。それぞれが松山航空隊隊より飛来する機によって着艦訓練を行うべく準備を進めております」
「自身の航空機がない。空母であるか」
伊藤は改めて現状を認識するのでした。
「航空機のない空母。なんであるか・・・」
その後、山本裕二専任参謀。伊藤素衛航空参謀。宮本鷹雄砲術参謀。末次信義水雷参謀。松岡茂機関参謀。小沢信彦通信参謀。寺門正文艦隊軍医長。そして古村啓蔵第二水雷戦隊司令官。有賀大和艦長。原為一矢矧艦長。からそれぞれの現状報告を受けるのでした。
そしてささやかなる夕餉。乾杯の音頭は森下参謀長。
そこで各人から本音が出ます。
「訓練するにも燃料がない!」
切実な問題でした。
「では、これにて・・・」伊藤航空参謀がそそくさ退艦いたします。
最後は有賀と伊藤。二人きりでございました。
「私は大和艦長でることを非常に名誉であると思っております」
大和を操るのは司令長官ではない艦長なのである。どんな場合でも艦長が最後の判断をせねばならぬし、自身は艦と運命を共にする定めなのである。
「『奮戦スレド徒死スルナカレ』この意味だが、先には話した通り。これは第二艦隊の訓令なのだが。最後まで善戦することが大事なのであって、死することではないと私は考えている。大和の力を存分に発揮できるよう努力してくれ。全てを君に任せる。存分に腕を振い給え」
「はッ」有賀はありったけの力を込めて敬礼するのでした。
写真です。
海軍省正門前で撮影されたものです。おそらく昭和19年初め。酔漢祖父が兵曹長時代のものです。ですから、所属は横須賀鎮守府の頃であると推察いたします。この写真。所属は明らかにされておりませんが、各々個人は特定できます。
酔漢祖父は右上から二人目に写っております。
一番最前列中央からが高級士官。溝口大佐とあります。最前列右から(写真が切れてますがその松田少佐から)三人目が小沢中佐です。最初にご紹介いたしました第二艦隊通信参謀となる人物です。
おそらく、GF通信部中枢の集合写真と推察します。
レイテ海戦前ですから、まだ海軍省も健在。ですが、情報が集中する部署ですから、この写真におられる方々は戦況をよく把握していたのではないのでしょうか。
この写真他に持たれております方がいらっしゃいますでしょうか。
もしかしたら、現存する唯一のものかもしれません。
第二艦隊は、伊藤司令長官の下、大和へ乗艦。
昭和19年も暮れを迎えるのでした。
「だれ、呉はおらほの村さぁ比べたら、あったけぇなや」
祖父が話したかどうか・・・。
葉書を書くのが苦手と見えて、多くの手紙を家族へ宛ている伊藤長官や有賀艦長と比べますと、遥かに少ない酔漢祖父でございました。
現在の主人公「伊藤整一 第二艦隊司令長官」との会話です。
「レイテでの敗戦は誠に遺憾である。この海戦を見ても、お解かりかと思うが、最早軍艦一隻で敵を殲滅することなど不可能である。戦艦での作戦を経てることは不可能。戦艦は不用である。輸送船団護衛を主とし、南方からの物資が本土へ送られることに主眼を置き、その作戦が妥当であろう」
井上次官です。
これに異を唱えた伊藤です。
「水上部隊であれば現在護衛機無しでの作戦は難しいことは解る。だが、戦艦(大和を指します)には戦艦の使い道というものがある。今だ健在のものをやたらと不用というには早急である。使い方は必ず見つかる。敵に近づけさえできれば、有効に敵艦船を撃滅することは十分に可能である」と。
伊藤はその際、「第二艦隊司令長官」を拝命されるとは知らなかったのでした。
ですが、今現在、自身はその任にあります。
「はてさて、そうはあのとき言ったものの実際『大和』をどう有効活用すればよいのか・・」
伊藤自身も悩んでおります。
米内光政海軍大臣室。第二艦隊司令長官の任を受け、大臣へ直接報告する伊藤です。
「この度、第二艦隊司令長官を拝命されました」
「ご苦労。早速だが『大和』をどうするか、考えてくれまいか」
(そら来た!)咄嗟に本音が出た。と伊藤は思うのでした。
皆、名案がない。「責任の押し付け」とも思える発言が出てきております。
「だから、あの時(建艦時)に山本長官は戦艦より航空機と言っておったではないか」と、昔の話を持ち出す者までいる始末です。
「参ったな」ため息の伊藤でした。
親補式の帰り、靖国神社参拝へ向う車の中。石田恒夫少佐がおります。
「長官、どうされましたか?」
「いや、何でも無い。宮中へ入ったが何度目だろうか・・」
小磯総理大臣。同期の侍従武官中村俊久中将と一緒ではありましたが、流石の伊藤も緊張のしっぱなしではあったのでした。
宮家への挨拶もこれからでありました。
「やれやれ、時が経つのは早いものだな。たった4日前の事か」
艦橋へ上がるエレベーターの中。伊藤はこの一週間での間の事を考えておりました。
一体どこまで登るのか。艦橋の高さは極秘事項であるがゆうに40mは越えています。伊藤が森下参謀と共に第一艦橋へ入ります。
「長官。入ります。敬礼!」
士官全員が伊藤を直視し、敬礼の姿勢を取ります。第二艦隊司令部。そして有賀艦長はじめ、大和乗組員幹部が集合しております。
「皆、ご苦労」伊藤が短く言葉をかけました。
大和の艦橋内とはいえ、流石にこれだけの人数であれば狭く感じる。伊藤は場所を艦橋直下にある作戦室へ場所を替え、各参謀から現状報告を受けるのでした。
森下参謀からは第二艦隊の現状を聞きます。
「第一航空戦隊が第二艦隊の所属にあります。空母『天城』『葛城』『準鷹』『龍鳳』が編入されております。それぞれが松山航空隊隊より飛来する機によって着艦訓練を行うべく準備を進めております」
「自身の航空機がない。空母であるか」
伊藤は改めて現状を認識するのでした。
「航空機のない空母。なんであるか・・・」
その後、山本裕二専任参謀。伊藤素衛航空参謀。宮本鷹雄砲術参謀。末次信義水雷参謀。松岡茂機関参謀。小沢信彦通信参謀。寺門正文艦隊軍医長。そして古村啓蔵第二水雷戦隊司令官。有賀大和艦長。原為一矢矧艦長。からそれぞれの現状報告を受けるのでした。
そしてささやかなる夕餉。乾杯の音頭は森下参謀長。
そこで各人から本音が出ます。
「訓練するにも燃料がない!」
切実な問題でした。
「では、これにて・・・」伊藤航空参謀がそそくさ退艦いたします。
最後は有賀と伊藤。二人きりでございました。
「私は大和艦長でることを非常に名誉であると思っております」
大和を操るのは司令長官ではない艦長なのである。どんな場合でも艦長が最後の判断をせねばならぬし、自身は艦と運命を共にする定めなのである。
「『奮戦スレド徒死スルナカレ』この意味だが、先には話した通り。これは第二艦隊の訓令なのだが。最後まで善戦することが大事なのであって、死することではないと私は考えている。大和の力を存分に発揮できるよう努力してくれ。全てを君に任せる。存分に腕を振い給え」
「はッ」有賀はありったけの力を込めて敬礼するのでした。
写真です。
海軍省正門前で撮影されたものです。おそらく昭和19年初め。酔漢祖父が兵曹長時代のものです。ですから、所属は横須賀鎮守府の頃であると推察いたします。この写真。所属は明らかにされておりませんが、各々個人は特定できます。
酔漢祖父は右上から二人目に写っております。
一番最前列中央からが高級士官。溝口大佐とあります。最前列右から(写真が切れてますがその松田少佐から)三人目が小沢中佐です。最初にご紹介いたしました第二艦隊通信参謀となる人物です。
おそらく、GF通信部中枢の集合写真と推察します。
レイテ海戦前ですから、まだ海軍省も健在。ですが、情報が集中する部署ですから、この写真におられる方々は戦況をよく把握していたのではないのでしょうか。
この写真他に持たれております方がいらっしゃいますでしょうか。
もしかしたら、現存する唯一のものかもしれません。
第二艦隊は、伊藤司令長官の下、大和へ乗艦。
昭和19年も暮れを迎えるのでした。
「だれ、呉はおらほの村さぁ比べたら、あったけぇなや」
祖父が話したかどうか・・・。
葉書を書くのが苦手と見えて、多くの手紙を家族へ宛ている伊藤長官や有賀艦長と比べますと、遥かに少ない酔漢祖父でございました。
ご実家の仏壇に安置されていた士官服姿のお爺様の遺影ですが、
ひょっとして基になったのは、この集合写真でしょうか。
酔漢さんから以前「小沢」と聞いて、
小生、何の疑いもなく「小沢治三郎提督」を連想しました。
ですから、「当時の海軍省に小沢はいない」と言ってしまったのです。
某ホームページによれば太平洋戦争海戦から
小沢治三郎は艦隊長官を歴任していますが、
「軍令部出仕」で中央に戻っていた時期もあったのですね。
しかも戦争中の海軍省に佐官の「小沢さん」がいたとは、知りませんでした。
とんだ「小沢違い」もあったものです。
「自前の飛行機がない」といえば、
昭和十九年になって、海軍航空隊は空地分離方式を採用しました。
つまり飛行科と整備科を中心とする航空隊(甲航空隊)と基地の保守と後方支援を任務とする航空隊(乙航空隊)に分け、
甲航空隊は乙航空隊の支援を受けつつ転戦する・・・
飛行機の運用を効率よく行なおうというのがその趣旨だったようです。
とはいえ海軍は「一艦一家」「一隊一家」の意識が強い社会です。
内部における退院同士の「人の和」となると、中央の構想どおりにいったかどうか、些か疑問が残ります。
マリアナ沖海戦は、空地分離方式で戦われました。
一航戦に乗る航空隊の司令は入佐俊家中佐は、旗艦「大鳳」の飛行長を兼ねております。
この時期から、母艦固有の飛行隊は存在しなかったのですね。
もっとも今回のお話の頃には、空地分離云々という制度上の問題よりは
そもそも飛行機がなくなっていたのかもしれません。
母艦に載せる飛行隊が練成半ばで基地航空隊の兵力として抽出される・・・
そんな事態が続いておりました。
またうまく言えませんが、
そもそも飛行機が「物理的に」不足していたのかもしれません。
母艦に載せようにも飛行機がない。
訓練しようにも、飛行機や艦(フネ)を動かす油がない・・・
それでも戦いは続けなくてはならない。
存在する軍艦は活用する方法を考えなくてはならない・・・
伊藤長官や森下参謀長、古村司令官、有賀艦長や原艦長・・・
二艦隊幹部の苦衷は察するに余りあります。
「船団護衛を主とし・・・」という井上次官の発言ですが、
海上護衛総司令部参謀だった大井篤大佐(海兵51期・山形縣出身)も、同じ意見だったと聞いています。
追伸
海軍将官の経歴ですが、次のサイトでかなり詳しいことが分ります。
The page 31. (ヒト- )
大井篤大佐には『海上護衛戦』の著作があります。
それを命中率や精神論で補えって、現代の人間から観れば、茶番ではあります。
でもですね、長いサラリーマン時代、似たようなばかばかしさは幾度も経験してきました。
日本人には冷静な理論的な思考は根本的に無理なのかもしれません。
井上次官の思考こそが、本来は至極当然であったのですが、結局は「変わり者」「異端」との烙印を押される風潮。
21世紀になっても、何も変わっていないような気すらしてしまいます。
英国海軍は戦艦も商船団の護衛を担っていましたね。航空機生産担当の大臣もいました。
米国海軍は船団護衛用の簡易的な駆逐艦を、これでもかと大量建艦しています。
日本海軍は、艦艇の燃料は南方の現地で補給しろ、本国の資源確保は知らん!
いやはや・・・
以前ご紹介した「西島亮一」です。この時期、呉海軍工廠では特攻兵器開発中です。艦政部にいながら、死を前提とした兵器開発をしております。西島は苦悩しております。
「回天」「桜花」など。嘗て「世界の技術」を凌駕した同じ工場です。
さて、この記事で登場いたしました「第二艦隊水雷参謀 末次信義 大佐」です。昭和52年の慰霊祭で、奥様とご子息様と同じ席でした。
とても印象に残っております。
授業を休んだかいがありました。
本来、もう少し先に語ろうと考えておった事を本日語った次第です。
仕事をしていて、末期状態であれば「そう言った指示」がメールされて来る場合があります。
「できっこない」と冷静な自身と「やらなければ」という感情的な自身が葛藤を続けます。
ですが、後々「あれは無謀な策」と気づきます。現場でジャッジできなかった自身を悔みます。ですが、ですがですよ。「やはり上官の出した指示」は部下として「達成しなければ」とやっきになります。これも精神論が先行する日本人の発想と・・・少し悲しくもなります。
もう全部がそうです。(自身の会社でも)外資になっても何も変わっておりません。表現方法だけです。
(クロンシュタット様、裏が見えておられますようですネ)でも、それが少し安心もする酔漢でした。
酔漢さんは、似ているのかなぁと想像を・・・
手紙は、筆不精なのか?照れくさいのか?
その人の性格によるのかな?と思います。
最近あんな記事を書いているので時間がなくて・・・
戦争のビデオを再度見てみようかなと思いました。
映像と酔漢さんの記事や思いが重なれば、また違った角度で見れるのではと・・