今年最後の「くだまき」になろうかと思います。
「今年を振り返る」などという台詞の似合わない「くだまき」ですが、今年は別でございます。
「思い出したくないこと」が多いのは事実なのですが、例えば仕事をしていても「気持ちの切り替え」「気持ちの持ちよう」がこれほど難しいと感じたことはございませんでした。
根が能天気で出来ておりますので、物事をポジティブに考えることが出来るのが、自身の長所と信じておりました。
希望する学校に試験で落ちても。大怪我をして、長期の入院を余儀なくされていても、案外そこから得る物の方が多くて、これらの経験から「人間万事塞翁が馬」的発想がその元となっているような気がしておりました。
ですが、今年は違っておりました。
昨年九月。中学校の同窓会、そして同期会が催されました。
くだまきにもいたしました。
その場で出会った友人達。昨年は単に「懐かしさ」だけが、心の中を占めておりました。
「ナカムラハルコ」さんの死去を知ったことは、多大なショックではございましたが、青春時代を一緒に過ごした友人達との再会は、自身の糧となりました。
三月十一日。
実は、その日、帰省する予定を立てておりました。
年度末直前になって自分の休暇日数が少しばかり足りないことがわかり、「9日から13日までの休暇申請」を行っておったのです。
いつもの事なのですが、帰省初日は実家他、丹治さんのご自宅を訪問することが恒例です。後は親父の墓参りを兼ねて七ヶ浜を回ります。従兄と呑んで、名取の叔母宅を訪問する。
丁度十一日は、叔母の家へ行こうかと考えておりました。
いつも、御昼過ぎの訪問です。
塩竈から叔母宅へは、東部道路を使わず、海側の道を通ります。
仙台新港を通り、キリンの工場を左手に見て、荒浜近くから田圃の中の道を名取川まで向かいます。
夏ですと海風が心地よい。晴れていれば、蔵王の山並みも見ることが出来る。
自転車で走ることが多かった道でした。
ここまでお読みになられた方はもうすでにお気づきかと思いますが、三月十一日の津波のあった時刻。
自分が津波にのまれていたかもしれなかった。
これが、本当の事なのでした。
ですが、この休みが無くなります。
部下が怪我をしましたので、休みが返上。
当日からの事は「くだまき」で語ったところでございます。
母はその日の午前中。塩竈市内、丁度本塩釜駅側の郵便局にて、「父法要の案内状」を投函しております。
いつもは、午後に出かける母でしたが、その日に限って午前中に。
「お父さんの法要だから出来たらすぐに出そうかと思って・・・」
午後であれば。
塩釜局消印三月十一日。藤沢着が十九日でございました。
五月に七ヶ浜を徒歩で半周。
涙が出て止まらなかった。
「父が生きていて、この光景を見たら・・」
父の気持ちを考えると、また、当日父がもし元気だったら「どんな行動を取っていただろう」これは、想像したくはございません。
「ある友人」君とこれほど連絡を取り合ったことも、ありませんでした。
「おめぇの手記さぁ『くだまき』さぁ掲載すっと!」
半ば強引な提案に彼も承諾してくれました。
「猫写真家」君は今だに塩竈への帰省が叶いません。
ご両親を心配する彼の心中やいかばかりか。
「演劇部の頃」に登場する「みずま」君は、石巻がご実家です。お父様が仮設住宅へ移りました。
「父の体を一番心配している」
一通のはがきには、こう認めてございました。ご親戚が今だ行方不明のまま。
彼は都内で働いておりますが、やはり気持ちは、いかばかりか。
中学の同期会が仙台で開催されたのは九月。
全国から集まりました。
「それぞれの思いがあっての集まり」でした。
考えますれば、「うの」君、「愛すべき生徒会長」君とは、学生時代に親しく話した事はありませんでした。
「うの」君からは「晴子の思い出」を。「生徒会長」君とは、未明まで一緒に呑んでおりました。
こんなに話が出来るのだったら「中学時代にもっと親しくなれた・・・」
今年を取ったから出来る事もあるんだ。こう思っております。
三十数年経ってから、連絡を取り合う。
同郷でありながら「さうら」君と話をすることも少なかった自身です。
塩竈復興のニュースを見るたび、彼の顔を思い出します。
今いる事業所の側に住んでいる「同期生の女の子」(現主婦)がいたのにも、また、自宅側の公園(藤沢)で「よく子供を遊ばせていた」と話す「うらの」君。
世の中狭い。
身近に、同郷の同輩がいることには、勇気づけられます。
中学時代、「何かしてそうで、何かできそうで、かと言って『何もできなかった』」そんな思いを引きずっておりましたので、そんな思いは、自分の中だけだったと気づきます。
多くの、「同期の友人達が一番の財産であった」
五十近くになって分かることもありました。
「大和を語る」では、多くのご遺族の方と繋がりました。
「第三世代が見る大和」「第三世代が感じる大和」第二艦隊の顛末は皆様、感じることは違っております。
ですが、これを、どうやって知ることができるのか。
知識がなく、言葉も足りない「くだまき」が少しはお役に立てたかな。斯様に思うことが出来ました。
「そろそろ自分たちの言葉で『大和・第二艦隊』を語ってもいい時期ではないか。また必要なのではないか」
こういった思いも強く致しました。
「くだまき」コメントを下さいます皆様へは、改めてご高覧感謝いたします。
一度限りのコメントですが、例えば「中学校の頃 サッカー編」にコメントをくださった「ハラダ」氏は、おそらく中学同期生。
「みんな会いたがってたよ」と、この場ではございますが、申し上げます。
コメントを通じて新たな出会いも多かった。
「ひー」さん、「ばるえ」さんのブログからは故郷の様子を逐一知ることが出来ましたし、「丹治」さんの件では、その安否を心配する声が多く寄せられました。
それがきっかけで「クリス」さんとも知り合え、まして、「ゴエモン」さんからは故郷の味覚を頂戴いたしました。
そればかりではございません。
感謝。感謝でございます。
「酔漢君、ハルコの写真集預かってくれないかな」
「おらいすか?なして?」
「ハルコの思いを残しておきたくて・・酔漢君が持っているのが一番だと思った・・」
「なん」ちゃんが渡してくれた一冊の写真集。
「Hruko Nkamura 光の音」
「晴子の記憶・記録」は自身の宿題。
「何かに使って・・」
と彼女が言い残した言葉の重さに僕はどう答えようか。
でも、ハルコの想い、なんちゃんの想い、うの君の思い出。
共有している自分がここにいて、多くの友人達がいる事。
何にもまして「故郷、塩竈」への想い。
「くだまき」を終える時は、まだ遠い。
まだまだ「語らなければならないこと」「語りたい事」が多いと感じます。
「りょーた」君。君の一言が、案外大きかったんだよ。
今年一年のご高覧感謝。
来年も「酔漢(よっぱらい→でもいいです・・)のくだまき」何卒宜しくお願い申し上げます。
そうなんですヨ!小売りに身を置く立場なもので、これから先が一年で最も忙しくなるわけです。
あれや、これや・・・・・・・デス。
晴子の写真集を紐解き、笹蒲鉾を頬張りながら、浦霞を一献。
遠きにありて思うものは・・・。
「今年を振り返る」などという台詞の似合わない「くだまき」ですが、今年は別でございます。
「思い出したくないこと」が多いのは事実なのですが、例えば仕事をしていても「気持ちの切り替え」「気持ちの持ちよう」がこれほど難しいと感じたことはございませんでした。
根が能天気で出来ておりますので、物事をポジティブに考えることが出来るのが、自身の長所と信じておりました。
希望する学校に試験で落ちても。大怪我をして、長期の入院を余儀なくされていても、案外そこから得る物の方が多くて、これらの経験から「人間万事塞翁が馬」的発想がその元となっているような気がしておりました。
ですが、今年は違っておりました。
昨年九月。中学校の同窓会、そして同期会が催されました。
くだまきにもいたしました。
その場で出会った友人達。昨年は単に「懐かしさ」だけが、心の中を占めておりました。
「ナカムラハルコ」さんの死去を知ったことは、多大なショックではございましたが、青春時代を一緒に過ごした友人達との再会は、自身の糧となりました。
三月十一日。
実は、その日、帰省する予定を立てておりました。
年度末直前になって自分の休暇日数が少しばかり足りないことがわかり、「9日から13日までの休暇申請」を行っておったのです。
いつもの事なのですが、帰省初日は実家他、丹治さんのご自宅を訪問することが恒例です。後は親父の墓参りを兼ねて七ヶ浜を回ります。従兄と呑んで、名取の叔母宅を訪問する。
丁度十一日は、叔母の家へ行こうかと考えておりました。
いつも、御昼過ぎの訪問です。
塩竈から叔母宅へは、東部道路を使わず、海側の道を通ります。
仙台新港を通り、キリンの工場を左手に見て、荒浜近くから田圃の中の道を名取川まで向かいます。
夏ですと海風が心地よい。晴れていれば、蔵王の山並みも見ることが出来る。
自転車で走ることが多かった道でした。
ここまでお読みになられた方はもうすでにお気づきかと思いますが、三月十一日の津波のあった時刻。
自分が津波にのまれていたかもしれなかった。
これが、本当の事なのでした。
ですが、この休みが無くなります。
部下が怪我をしましたので、休みが返上。
当日からの事は「くだまき」で語ったところでございます。
母はその日の午前中。塩竈市内、丁度本塩釜駅側の郵便局にて、「父法要の案内状」を投函しております。
いつもは、午後に出かける母でしたが、その日に限って午前中に。
「お父さんの法要だから出来たらすぐに出そうかと思って・・・」
午後であれば。
塩釜局消印三月十一日。藤沢着が十九日でございました。
五月に七ヶ浜を徒歩で半周。
涙が出て止まらなかった。
「父が生きていて、この光景を見たら・・」
父の気持ちを考えると、また、当日父がもし元気だったら「どんな行動を取っていただろう」これは、想像したくはございません。
「ある友人」君とこれほど連絡を取り合ったことも、ありませんでした。
「おめぇの手記さぁ『くだまき』さぁ掲載すっと!」
半ば強引な提案に彼も承諾してくれました。
「猫写真家」君は今だに塩竈への帰省が叶いません。
ご両親を心配する彼の心中やいかばかりか。
「演劇部の頃」に登場する「みずま」君は、石巻がご実家です。お父様が仮設住宅へ移りました。
「父の体を一番心配している」
一通のはがきには、こう認めてございました。ご親戚が今だ行方不明のまま。
彼は都内で働いておりますが、やはり気持ちは、いかばかりか。
中学の同期会が仙台で開催されたのは九月。
全国から集まりました。
「それぞれの思いがあっての集まり」でした。
考えますれば、「うの」君、「愛すべき生徒会長」君とは、学生時代に親しく話した事はありませんでした。
「うの」君からは「晴子の思い出」を。「生徒会長」君とは、未明まで一緒に呑んでおりました。
こんなに話が出来るのだったら「中学時代にもっと親しくなれた・・・」
今年を取ったから出来る事もあるんだ。こう思っております。
三十数年経ってから、連絡を取り合う。
同郷でありながら「さうら」君と話をすることも少なかった自身です。
塩竈復興のニュースを見るたび、彼の顔を思い出します。
今いる事業所の側に住んでいる「同期生の女の子」(現主婦)がいたのにも、また、自宅側の公園(藤沢)で「よく子供を遊ばせていた」と話す「うらの」君。
世の中狭い。
身近に、同郷の同輩がいることには、勇気づけられます。
中学時代、「何かしてそうで、何かできそうで、かと言って『何もできなかった』」そんな思いを引きずっておりましたので、そんな思いは、自分の中だけだったと気づきます。
多くの、「同期の友人達が一番の財産であった」
五十近くになって分かることもありました。
「大和を語る」では、多くのご遺族の方と繋がりました。
「第三世代が見る大和」「第三世代が感じる大和」第二艦隊の顛末は皆様、感じることは違っております。
ですが、これを、どうやって知ることができるのか。
知識がなく、言葉も足りない「くだまき」が少しはお役に立てたかな。斯様に思うことが出来ました。
「そろそろ自分たちの言葉で『大和・第二艦隊』を語ってもいい時期ではないか。また必要なのではないか」
こういった思いも強く致しました。
「くだまき」コメントを下さいます皆様へは、改めてご高覧感謝いたします。
一度限りのコメントですが、例えば「中学校の頃 サッカー編」にコメントをくださった「ハラダ」氏は、おそらく中学同期生。
「みんな会いたがってたよ」と、この場ではございますが、申し上げます。
コメントを通じて新たな出会いも多かった。
「ひー」さん、「ばるえ」さんのブログからは故郷の様子を逐一知ることが出来ましたし、「丹治」さんの件では、その安否を心配する声が多く寄せられました。
それがきっかけで「クリス」さんとも知り合え、まして、「ゴエモン」さんからは故郷の味覚を頂戴いたしました。
そればかりではございません。
感謝。感謝でございます。
「酔漢君、ハルコの写真集預かってくれないかな」
「おらいすか?なして?」
「ハルコの思いを残しておきたくて・・酔漢君が持っているのが一番だと思った・・」
「なん」ちゃんが渡してくれた一冊の写真集。
「Hruko Nkamura 光の音」
「晴子の記憶・記録」は自身の宿題。
「何かに使って・・」
と彼女が言い残した言葉の重さに僕はどう答えようか。
でも、ハルコの想い、なんちゃんの想い、うの君の思い出。
共有している自分がここにいて、多くの友人達がいる事。
何にもまして「故郷、塩竈」への想い。
「くだまき」を終える時は、まだ遠い。
まだまだ「語らなければならないこと」「語りたい事」が多いと感じます。
「りょーた」君。君の一言が、案外大きかったんだよ。
今年一年のご高覧感謝。
来年も「酔漢(よっぱらい→でもいいです・・)のくだまき」何卒宜しくお願い申し上げます。
そうなんですヨ!小売りに身を置く立場なもので、これから先が一年で最も忙しくなるわけです。
あれや、これや・・・・・・・デス。
晴子の写真集を紐解き、笹蒲鉾を頬張りながら、浦霞を一献。
遠きにありて思うものは・・・。
>こんなに話が出来るのだったら・・
>中学時代、「何かしてそうで・・
本当にその通りだよね。全く同感です。こうして酔漢殿と知り合えたのもご縁でしょうから、今後ともよろしくね。
塩竈、雪は降りましたか?
寒くないですか?
何時もですと、この時期生牡蠣が我が家に届きます。故郷の味覚を楽しみにいたしておりますが、今年は叶いません。
復興も道半ばと言ったところでしょうか。
さうら君が「塩竈もだいぶ落ち着いてきた」と話しており、少しは安心した次第です。
年明け、母が貴殿を訪ねるかもしれません。
その際は何卒宜しくお願い申し上げます。
「小松崎から藤倉まで歩いて行けるよ」と気丈に申しておりますが、いささか心配でもあります。来年は是非、旬の肴と地酒(もちろんさうら君とこの)で一献。
帰省の際には連絡致しますね。
ご母堂の件、お役に立てることあれば全力を尽くします。
帰省の連絡お待ちしてますね。
こちら、連合艦隊の拠点であった呉軍港に近い岩国市は、戦後は米軍基地の町としてあるのですが、2014年までに空母艦載機59機が新たに移転する予定で、沖縄の嘉手納基地を抜いて「極東最大」の基地になる見込みです。
連合艦隊の拠点が見る影もない。
また、岩国市の愛宕山の住宅開発計画の失敗で、多額の借金を返済すべく市が国に当該地を売りわたし、米軍住宅の転用案が着々と進んでおります。今から岩国市はアメリカの町になるのではないかと心配されています。
米国や中国の軍事行動を見ても、力がすべて。かつて日本が世界最強の連合艦隊をつくったのは間違いではなかったと思います。
岩国市、「連合艦隊のお膝元」が極東最大の米軍基地というのも癪に障りますね。
ホントに今年は
激動の1年でした。
かく言う私も
11月30日に寮が閉鎖になり
引っ越しをしました。
神奈川にお世話になってます。
10月に会社から
通達があり、
ドタバタの2ヶ月でした。
荒浜の寮生は
実家に帰りましたよ。
元々、東北支社からの
応援でしたので、
異動となりました。
私も、
突然の契約解除の辞令が
出まして、今は職探しの
真っ最中です。
年末年始、
お忙しいと思いますが
酔漢さん、
どうか無理をなさらず
お仕事、blog、
頑張って下さいね。
吹雪で視界が利かず、多大の積雪がありました。
アノラック着用で、登山靴にはアイゼンを装着。
ピッケルを持って何とか無事に下山しました。
もちろん大ウソです。
ちゃんとバスも動いており、帰宅には何ら支障ありませんでした。
でも朝は車輌が凍結したとかで、
上り電車が三十何分だか遅れておりました。
「寒さで転轍機が凍結・・・」
中学校に通っていた頃のことを思い出しました。
本塩釜から酔漢さん、
西塩釜から小生、
四人組+1・・・
懐かしいです。
繰返しますが、八木山の天候は大ウソです。
でも蔵王や泉ヶ岳、
スキー場が分るぐらいには積りましたよ。
でも不思議とそれが良い方向へと導かれているように感じます?
不幸中の幸いとも云えるのかも知れません。
これからも大変ではありますが、心機一転頑張るつもりです。
今年は当たり年でした。最後に宝くじが当たらないかと買ってみました。
小さな夢を見させていただきます。