酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和

2009-07-01 19:27:51 | 大和を語る
青葉神社。展示館。
今「戦艦大和」の模型が展示されております。この模型、呉市大和ミュージアムからの寄贈です。
その脇に祖父の遺影ならびに遺品が展示されております。


この話題を語りますと、酔漢の本名他知られてしまいますが、これも覚悟で語っております。

祖父が着ていた「海軍服」そして祖父の写真。大和右舷甲板(兵は立ち入り禁止。士官のみ立ちいる事が許された場所です)で撮影された集合写真が展示されております。

沖縄へ向かった大和には18名の宮城県出身者がおられます。

ですが、酔漢が昭和53年靖国神社で行われました「遺族会、慰霊祭」には他の宮城県出身者の方は出席されておられませんでした。

祖父を知っていらっしゃる方が一名。
「酔漢さん(祖父)にはずいぶん世話になりました。大和の中で、ずうずう弁で(東北訛り)で平気で話す人なんて珍しかったものですから、大和の中では有名人だったのですよ。佐々木更三代議士(社会党)が国会で答弁しているのを聞くと当時の酔漢さん(祖父)を思い出します」と。
祖父は大和の中で平気で「宮城語」を語っていたのでした。
宮城県出身はその殆どが「横須賀鎮守府」所属と推察します。
大和本体は「呉鎮守府」所属ですから、18名の方々は「第二艦隊司令部」付ではなかったかと、これも推察いたします。
関西弁が主流の大和です。が、祖父は平気で(それしかはなせねぇんだおんなや・・・)宮城語で話していたのでした。
後からの記録には海軍省でも有名だったとか・・・。

そんな祖父が「七ヶ浜村」から海軍を志、大和と運命を共にしました。

これまでの酔漢流とはいきませんし、笑いも少ないかもしれません。
が、自身の史観を含めて語ろうと決心いたしました。

取材はもう20数年続けております。
もうこれ以上自身で新しい史実を掴む事は難しい時期にまいりました。そして昨今
「戦艦大和」を語る人たちも多くおられますし、「男たちの大和」として映画にもなりました。これに異を唱える気は毛頭ございません。
また、酔漢自身、国粋主義者でもその手のマニアでもございません。
これは先に申し上げておきます。

ただ単に祖父の生き様と死に様を自身の史観を持って語ろうかと考えました。

ですから、こう話のプロローグといたします。こうです。

仙台青葉神社。⇒酔漢流の解釈です。
「なんだや、戦後『護国神社』って名乗れねぇから『青葉神社』ってしたんだべ。
鼻節神社は延喜式だっちゃ。神社の格式は鼻節神社の方が上だべさ」
と、言いつつも、父の薦めで出かけました。
展示ブースです。スピーカーからこんな、案内が・・。
「・・・超ど級戦艦大和の模型をはじめ・・お国の為に尽くされた・・・英霊の・・」
遺族ということで館内はただで入館です。
祖父の遺影。
確かに、祖父でございました。
周りにいた人がこう言っているのを耳にしました。
「この人七ヶ浜だって、出身が・・こんな人いたんだねぇ・・偉かったんんだ」
と。
内心「祖父は偉くない!」
「結果がこうだっただけでねぇすか!」
酔漢心の叫び・・・

祖父は軍神でもなんでもない。
祖父の魂は空のまんま、でも七ヶ浜花淵は同性寺にある。故郷に帰りたくて帰れない魂があるんだ。靖国でも一緒だ。祖父の魂は・・・・。
きっと、今の同性寺前の田んぼの風景と花淵浜の海が祖父が帰りたかった場所なんだと。信じております。

ですが、祖父は海軍を志、そしてその運命を・・・・。

マクロ的な史実を元に、ミクロ的な史観を添えて、「祖父の面白さ?」(よくよく考えたらやっぱしぃ少しはおもせぇんだおん!)を伝えていきます。

こんな奴(で、いいです。)も宮城さぁいたのっしゃ!
祖父をご紹介いたします。

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7 コメント

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出陣 (トムくん)
2009-07-01 21:34:36
おじいさまの乗られた戦艦大和は、昭和20年4月6日山口県徳山沖から沖縄に向け出撃されたのですね。徳山で燃料を補給、片道の燃料だったとか、往復の燃料だったとか言われてますね。
私は小学校を3つ行ってますが、そのうちのひとつが徳山小学校です。
先日、ドキュメンタリー番組「ディスカバリーチャンネル」をDVD化した、「生存者が語る 戦艦大和最期の一日」を見ました。内容は期待していたほどではなかったですが、沈没した大和の様子が映し出されていました。
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海行かば (クロンシュタット)
2009-07-02 05:20:48
私の父は志願して海軍に入隊し、横須賀の海兵団時代に敗戦を迎えました。
海軍士官には紳士や人間味のある方が多く、陸軍の持つ陰惨な印象が少なかったのは、ありがたいことです。

大和轟沈時のあの巨大なキノコ雲を思うたびに、生存者のあまりの少なさに思いをはせます。
沈没海面に寄り添う軽巡矢矧と駆逐艦数隻の姿が、無謀な沖縄特攻作戦、国家そのもののの特攻作戦の象徴のように感じます。

沖縄の反戦新聞記者、反戦学者を経て、知事や参議院議員を務めた太田昌秀元氏は、私の親戚です。

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紙一重で (丹治)
2009-07-02 09:12:47
酔漢さんのおっしゃるとおり、大和の艦籍は呉ですね。
乗組員は中京、関西、中国、四国の方が殆どだったと思います。
下士官兵と准士官、特務士官の人事権は各鎮守府にあったですから、呉に籍のある艦(ふね)の場合、共通語は関西弁ということになるでしょうか。
東北出身者が大和に乗っていたとすれば、酔漢さんのお爺様のように艦隊司令部附。固有乗組員ならば兵学校、機関学校、経理学校出身の士官か、予備学生出身の士官ということになると思います。

ところで私の母方の祖父は陸軍でした。
古川の山の中の出身ですが、「家業を継ぐのはイヤだ!」と言って一兵卒で陸軍に入隊。部内選抜で陸士に進みました(県職員の従兄があの近辺に勤務した時、「○×中隊長殿のお孫さんでありますか。中隊長殿には大変御世話になりました」と言われて仰天したそうです)。

原隊は歩兵四連隊。大尉で中隊長までやりました。
満州事変に出征して負傷。その後は後方勤務で(参謀本部で戦史編纂の仕事をしていたと聞きます)、太平洋戦争中は台湾におりました。

第二師団、歩兵四連隊といえば、激戦地を転戦した部隊です。
満州で負傷していなければ、まず間違いなく太平洋開戦後も部隊勤務。どこかで戦死していたことでしょう。

戦争に行かれた方のお話を聞くと、「紙一重の差で生死が分れる」との感を強くします。
あの戦争で命を落された皆さんの冥福を改めて祈りたいと思います。

軍艦の右舷左舷といえば、艦への乗り降りで右舷のタラップを利用できるのは士官室士官以上(大尉または分隊長職の中尉以上)の者のみ。次室士官(乗組中尉以下)は左舷を利用することと定められていました。これは厠やバスなどの排水口が左舷に開いていたことによるものだそうです。

沖縄に出撃した第二艦隊各艦の燃料ですが、こんな話を聞いたことがあります。
徳山にある燃料廠の責任者が「片道分」と聞いて腹を立て、タンクの底にある帳簿外の重油をありったけ補給。駆逐艦八隻は満タン。大和と矢矧は満タンでこそないものの、呉と沖縄を往復してお釣がでるほどには積んでいたそうです。

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トム様へ (酔漢です)
2009-07-02 18:16:12
この話を始めるのには度胸が要りました。
自身で調べた事を祖父を通して語っていきたいと思います。
史実に誤りがございましたら、忌憚無くご意見を拝聴したく存じます。
宜しくお願いいたします。
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クロンシュタット様へ (酔漢です)
2009-07-02 18:19:52
コメントにご訂正をさせていただきたく存じます。
矢矧は大和より先に航行不能となっております。第一波攻撃時ですから、時間にして13時10分頃と推察されております。
ですが、艦長原為一さんを始め多くの方が救出されました。
矢矧は奇跡的な被害で済んだのでした。
ですが涼月はもっと奇跡的な生還をなしえております。
今後語ります。
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丹治様へ (酔漢です)
2009-07-02 18:21:50
何卒ご指導を。
宜しくお願いいたします。
今後、この話がどこまで続くのか。自身でも判りません。
結論はでない話ですので。
史実の間違い等ございましたら忌憚なくお聞かせ下さい。
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遅くなりました。 (ひー)
2009-07-06 19:32:16
あの模型は2~3年前に見ました。
さらっと流す程度でしたが・・・

そうでしたか、酔漢さんの強い思いを感じます。
東北人は、関西弁に対して違和感を感じるものです。
宮城人としての誇りは捨てたく無かったのでしょう。
次を見ます。
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