昭和20年4月4日。大和は日々のルーティンをこなしております。が、乗員の気持ちは、呉を出港したときから「沖縄へ」と頭にあるのでした。
「もう、みんな沖縄という気持ちがありました。中には『まってろ俺達が助けに行ってやる』という言い方をする者もおりました。大和が沈むということは考えられる訳でもなく、何千名という人の多さもこうした気持ちになった根拠かもしれません」
(どなたか存知上げませんが、懇親会でこのように話された生還者の方がおられました)
GF内。先の天皇の言葉が非常に重くなっております。GF内でも「大和は沖縄方面で使用すべき」という意見が出てまいりました。
海軍軍令部第一部長富岡定俊少将です。
「航空は、これまで特攻で死闘を続けて来た。だが、まだ水上部隊が残っているではないか。皇国存亡のこの際、これを使わぬ法があるかというような声も喧しくなってきた」
とその回想録に記しておられます。
また、連合艦隊参謀長、草鹿龍之介中将は「一部の者は激化する敵空襲に曝してついになんらなす術もなく潰え去るその末期を憂慮し、かつまた全軍特攻として敢闘している際、水上部隊のみが拱手傍観はその意を得ぬというような考えから、これの早期使用に焦慮していた。しかし私は、いずれその最期を覚悟しても、悔いなき死場所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と戦後語っておられます。
この作戦直前まで(歴史からは一週間を切った段階でも)GFは2Fをどのように使用するのか決定されいなかった事実が浮かび上がります。
たった一日二日でどのような意図で持って「大和以下二水戦の沖縄突入」が決定されたのでしょうか。この日の動きを少し見てみましょう。
鹿児島県鹿屋基地。第五航空艦隊司令部(司令長官 宇垣纏中将→お書きになられました「戦藻禄」は度々ご紹介いたしております)に航空作戦指導のため、GF参謀長草鹿龍之介中将、作戦参謀の三上作夫中佐、航空甲参謀淵田美津夫大佐が滞在しておりました。
「敵は奄美大島南方へ進出しております。これにより沖縄は連日激しい空襲に曝されており、また敵上陸後は艦砲射撃も烈火のごとくであります」
戦況報告を受けております。
「GFとしても、陸軍の作戦に口を挟むことは毛頭ないのですが、第三十二軍には飛行場を再奪取していただきたいと申し入れております。敵がこの飛行場を使うとなったら、敵艦隊への特攻がますます困難になる。本土空襲も更に激化することは明白です」
「で、陸軍は何と言って来ているのかね」と草鹿参謀長です。
「陸軍も同様の考えと聞きました。第三十二軍は4月7日を決戦日として攻勢に転じる事を決定させたようです」
三上作戦参謀の言葉を聞き草鹿中将は「GFに何ができるか」と自問するのでした。
「やはり・・・しかないのか・・」
4月1日D-Day,戦艦テキサスは沖縄本島南東部海岸を艦砲射撃。
米軍記録より。
沖縄本島に米軍が上陸した1945年4月1日だけで、米軍の8インチ以上の砲弾消費は,4万4,825発,そのうち14インチ(36センチ)以上の砲弾は1800発。4月2日から6月24日に米軍の8インチ以上の砲弾消費は51万3,650発,14インチ以上の砲弾は1万3800発。14インチ以上の大口径砲は,全て海上の戦艦による艦砲射撃。
1945年4月1日:米軍は,沖縄本島西岸の読谷村に上陸。0530に艦砲射撃開始,0745に航空攻撃。上陸前,ロケット弾搭載揚陸艦LSM-R(LANDING SHIP MEDIUM ROCKET)による支援射撃も行われた。
(東海大学鳥飼研究室資料より抜粋)
鹿屋基地には作戦に携わる隊員達への激励と基地視察、前線による戦況を把握する為の滞在でした。
「GFへ電話連絡をしてまいります。神先任参謀へです」三上中佐が基地内へ向いました。
そこで、三上は神から突然こう切り出されたのでした。
「軍令部総長及川大将が米軍沖縄攻略部隊に対して航空総攻撃(天一号作戦)を行うことを奉上した際、陛下から航空部隊だけの総攻撃かと御下問がありました。したがって、2Fの沖縄突入が計画立案されつつあります」
三上中佐は寝耳に水の感を持つのでした。確かに、「水上部隊はのうのうとしている」との批判が海軍内にあることは承知していたものの、具体的には何ら作戦の立案がなかったのでした。最近、天皇陛下より御下問があった日から「艦隊行動による沖縄突入作戦」を机上で演習した際、「沖縄へたどり着ける確率は皆無」との結論をGFは下しております。三上中佐はこの時の演習盤を思い浮かべていたのでした。
「何が決まっているのか」と電話で三上中佐は神先任参謀へ尋ねました。
「全てはこれからです」神は電話を切ったのでした。
この段階で三上中佐は「沖縄突入作戦」を知ることとなります。が、この電話のやり取りを
草鹿中将が知っていたかという事は記録にございません。
この電話の後の神重徳(つくづく・・・この名だけは・・・私情ではありますが・・)
はGF内を走り回ります。
ここで、神重徳(かみしげのり)GF先任参謀を紹介しておこうと思います。
「神がかりの神さん」と渾名されておる超過激な作戦を立案することでは有名人です。
この人優秀です。海兵四十八期出身。成績一番。優等生で卒業。ドイツ大使館付き武官としてドイツに二年。その後海軍省に入ります。同時に中佐に進級。過激な作戦行動を取ります。第八艦隊主席参謀となって「第一次ソロモン海戦」では「殴りこみ作戦」を成功させております。(作戦の詳細は割愛いたします)それが成功体験となったかは知りませんが「捷一号作戦」でも同様の作戦計画を立案します。
高木惣吉少将はこう回想しております。「サイパンへの戦艦殴りこみ作戦」での神の主張です。
「たとえ作戦が失敗しても大和、武蔵を惜しんで後に使い道がないとも限らない。サイパン島へたどり着きさえすれば、後は海岸砲台として使用する。少なくても、敵の進行作戦は、半年滞る。この手を使わないとは至極残念」と。
具体性に乏しい主張と言わざるを得ません。酔漢の乏しい知識を持っても、例えば、大和の主砲は艦が水平でなければ撃てません。その為に注排水装置があります。ですが、それ以上に航空機がなければ島へ艦隊がたどり着ける可能性が極めて低いのです。
当時はもちろんこの作戦は「現実味に乏しい」と判断されます。
神先任参謀は、この作戦を沖縄でも使うように主張するのでした。
話を戻しましょう。
4月5日午前。
GF作戦会議室内。神の主張です。
「日本海軍は今や、練習中の搭乗員や練習機まで特攻へ参加させている。なのに、大和だけが、作戦のかやの外である。是非沖縄へ突入さすべきである。連合艦隊が艦隊としての死に場所を与えてやるべきである。成功の可能性は極めて低い。断じて行えば鬼神もこれを退くというではないか。天佑は我々にある。断じて決行すべし。このままでは・・このままでは・・大和が可愛そうです」
もともとGFは沖縄戦に2Fを使わないという事を考えておったのですが、燃料問題が解決すればこれも不かとなります。
「実際の燃料はどの位あるのか」作戦乙参謀千早正隆中佐は、補給参謀関政一中佐に尋ねます。
「残量は3000トン。とても沖縄までは行けません。片道分もありません」
しかし、会議後です(時系列は少しこの部分だけ早めます)
関中佐はふとあることに気付きます。呉へ電話をいたします。
呉鎮守府です。呉へ出張中の小林儀作中佐にでした。
「大至急、徳山燃料廠にある燃料の分量を調査して頂きたい」
すぐさま返答が返ります。
「帳簿外ですが・・・約1万3000トンの燃料があります」
この情報はすぐさま神の耳にも入ります。
そして再びGF司令長官豊田武副大将へ話しを持って行きます。
「燃料は片道分。徳山にあります。長官ご判断を」
豊田司令長官は黙っております。しばし考えた後、口を開きました。
「成功の確率は五分ではあるか・・・先の御下問の事もある」
これを持ってこの作戦の承認を得た神でした。
神重徳GF主席参謀は軍令部へ直接「大和の沖縄突入作戦」を持ってまいります。
これを聞いた富岡軍令部第一部長は神にこう話します。
「九州南方に敵を陽動させ、敵空母を含む艦隊を釣り上げ、鹿屋をはじめとする航空部隊でこれを叩くというのであれば賛成もしよう。だが、護衛機もなく沖縄へ突入させるというのなら反対である。燃料の問題もある」と。
富岡少将からに拒絶された神大佐は次に軍令部次長小沢治三郎中将へ説得工作をいたします。
「海軍は、沖縄を最終決戦場としているのではないのですか。注ぎ込める兵力は一兵でも注ぎ込む、そうした覚悟であったはずです。大和以下水上部隊を沖縄へ突入させ、大和を砲台とし敵を叩く。これしか、大和を生かす法はないのです」
と熱弁を振います。
「これでは、敵の餌食になることは目に見えている。自殺行為ではないか。勝算の乏しい作戦である。燃料問題もあるが」
「この事はGF司令長官が了承されております」
これが決め台詞となりました。
小沢次長は「GF長官がそうされたいと申すのであれば・・決意されたのでしたら、いいでしょう」と最後に話すのでした。
「片道分で結構。砲台として弾丸が尽きたら、全員で陸戦隊を組織し切り込みます」
小沢次長の側には天皇陛下へ「天一号作戦」を奉上した及川大将もおられました。その話を全て聞いております。終止無言。事の決定には何も話さず黙認しておりました。
神重徳GF主席参謀は、GF参謀長草鹿龍之介中将、2F司令長官伊藤整一中将へは一言もなかったのでした。(ここでは断言いたしておきます。が草鹿中将が知らなかったという事実→記録ではそうです、が。→は今後検証するところです)
第五航空艦隊基地におりますGF参謀長草鹿龍之介中将の下に神先任参謀から電話連絡がございます。
「このことはもう既に豊田長官も決裁をされたが、参謀長のご意見は如何ですか」
「馬鹿な事を言うな!事が決まってから『ご意見』だと。決まったものはしょうがないじゃないか」
草加はこれ以上は話さず電話を切ったのでした。
4月5日1359(13時59分)大和通信室。酔漢祖父がおります。
暗号電文。GFからです。
「GF電令作 第六○三号」が届きます。
「もう、みんな沖縄という気持ちがありました。中には『まってろ俺達が助けに行ってやる』という言い方をする者もおりました。大和が沈むということは考えられる訳でもなく、何千名という人の多さもこうした気持ちになった根拠かもしれません」
(どなたか存知上げませんが、懇親会でこのように話された生還者の方がおられました)
GF内。先の天皇の言葉が非常に重くなっております。GF内でも「大和は沖縄方面で使用すべき」という意見が出てまいりました。
海軍軍令部第一部長富岡定俊少将です。
「航空は、これまで特攻で死闘を続けて来た。だが、まだ水上部隊が残っているではないか。皇国存亡のこの際、これを使わぬ法があるかというような声も喧しくなってきた」
とその回想録に記しておられます。
また、連合艦隊参謀長、草鹿龍之介中将は「一部の者は激化する敵空襲に曝してついになんらなす術もなく潰え去るその末期を憂慮し、かつまた全軍特攻として敢闘している際、水上部隊のみが拱手傍観はその意を得ぬというような考えから、これの早期使用に焦慮していた。しかし私は、いずれその最期を覚悟しても、悔いなき死場所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と戦後語っておられます。
この作戦直前まで(歴史からは一週間を切った段階でも)GFは2Fをどのように使用するのか決定されいなかった事実が浮かび上がります。
たった一日二日でどのような意図で持って「大和以下二水戦の沖縄突入」が決定されたのでしょうか。この日の動きを少し見てみましょう。
鹿児島県鹿屋基地。第五航空艦隊司令部(司令長官 宇垣纏中将→お書きになられました「戦藻禄」は度々ご紹介いたしております)に航空作戦指導のため、GF参謀長草鹿龍之介中将、作戦参謀の三上作夫中佐、航空甲参謀淵田美津夫大佐が滞在しておりました。
「敵は奄美大島南方へ進出しております。これにより沖縄は連日激しい空襲に曝されており、また敵上陸後は艦砲射撃も烈火のごとくであります」
戦況報告を受けております。
「GFとしても、陸軍の作戦に口を挟むことは毛頭ないのですが、第三十二軍には飛行場を再奪取していただきたいと申し入れております。敵がこの飛行場を使うとなったら、敵艦隊への特攻がますます困難になる。本土空襲も更に激化することは明白です」
「で、陸軍は何と言って来ているのかね」と草鹿参謀長です。
「陸軍も同様の考えと聞きました。第三十二軍は4月7日を決戦日として攻勢に転じる事を決定させたようです」
三上作戦参謀の言葉を聞き草鹿中将は「GFに何ができるか」と自問するのでした。
「やはり・・・しかないのか・・」
4月1日D-Day,戦艦テキサスは沖縄本島南東部海岸を艦砲射撃。
米軍記録より。
沖縄本島に米軍が上陸した1945年4月1日だけで、米軍の8インチ以上の砲弾消費は,4万4,825発,そのうち14インチ(36センチ)以上の砲弾は1800発。4月2日から6月24日に米軍の8インチ以上の砲弾消費は51万3,650発,14インチ以上の砲弾は1万3800発。14インチ以上の大口径砲は,全て海上の戦艦による艦砲射撃。
1945年4月1日:米軍は,沖縄本島西岸の読谷村に上陸。0530に艦砲射撃開始,0745に航空攻撃。上陸前,ロケット弾搭載揚陸艦LSM-R(LANDING SHIP MEDIUM ROCKET)による支援射撃も行われた。
(東海大学鳥飼研究室資料より抜粋)
鹿屋基地には作戦に携わる隊員達への激励と基地視察、前線による戦況を把握する為の滞在でした。
「GFへ電話連絡をしてまいります。神先任参謀へです」三上中佐が基地内へ向いました。
そこで、三上は神から突然こう切り出されたのでした。
「軍令部総長及川大将が米軍沖縄攻略部隊に対して航空総攻撃(天一号作戦)を行うことを奉上した際、陛下から航空部隊だけの総攻撃かと御下問がありました。したがって、2Fの沖縄突入が計画立案されつつあります」
三上中佐は寝耳に水の感を持つのでした。確かに、「水上部隊はのうのうとしている」との批判が海軍内にあることは承知していたものの、具体的には何ら作戦の立案がなかったのでした。最近、天皇陛下より御下問があった日から「艦隊行動による沖縄突入作戦」を机上で演習した際、「沖縄へたどり着ける確率は皆無」との結論をGFは下しております。三上中佐はこの時の演習盤を思い浮かべていたのでした。
「何が決まっているのか」と電話で三上中佐は神先任参謀へ尋ねました。
「全てはこれからです」神は電話を切ったのでした。
この段階で三上中佐は「沖縄突入作戦」を知ることとなります。が、この電話のやり取りを
草鹿中将が知っていたかという事は記録にございません。
この電話の後の神重徳(つくづく・・・この名だけは・・・私情ではありますが・・)
はGF内を走り回ります。
ここで、神重徳(かみしげのり)GF先任参謀を紹介しておこうと思います。
「神がかりの神さん」と渾名されておる超過激な作戦を立案することでは有名人です。
この人優秀です。海兵四十八期出身。成績一番。優等生で卒業。ドイツ大使館付き武官としてドイツに二年。その後海軍省に入ります。同時に中佐に進級。過激な作戦行動を取ります。第八艦隊主席参謀となって「第一次ソロモン海戦」では「殴りこみ作戦」を成功させております。(作戦の詳細は割愛いたします)それが成功体験となったかは知りませんが「捷一号作戦」でも同様の作戦計画を立案します。
高木惣吉少将はこう回想しております。「サイパンへの戦艦殴りこみ作戦」での神の主張です。
「たとえ作戦が失敗しても大和、武蔵を惜しんで後に使い道がないとも限らない。サイパン島へたどり着きさえすれば、後は海岸砲台として使用する。少なくても、敵の進行作戦は、半年滞る。この手を使わないとは至極残念」と。
具体性に乏しい主張と言わざるを得ません。酔漢の乏しい知識を持っても、例えば、大和の主砲は艦が水平でなければ撃てません。その為に注排水装置があります。ですが、それ以上に航空機がなければ島へ艦隊がたどり着ける可能性が極めて低いのです。
当時はもちろんこの作戦は「現実味に乏しい」と判断されます。
神先任参謀は、この作戦を沖縄でも使うように主張するのでした。
話を戻しましょう。
4月5日午前。
GF作戦会議室内。神の主張です。
「日本海軍は今や、練習中の搭乗員や練習機まで特攻へ参加させている。なのに、大和だけが、作戦のかやの外である。是非沖縄へ突入さすべきである。連合艦隊が艦隊としての死に場所を与えてやるべきである。成功の可能性は極めて低い。断じて行えば鬼神もこれを退くというではないか。天佑は我々にある。断じて決行すべし。このままでは・・このままでは・・大和が可愛そうです」
もともとGFは沖縄戦に2Fを使わないという事を考えておったのですが、燃料問題が解決すればこれも不かとなります。
「実際の燃料はどの位あるのか」作戦乙参謀千早正隆中佐は、補給参謀関政一中佐に尋ねます。
「残量は3000トン。とても沖縄までは行けません。片道分もありません」
しかし、会議後です(時系列は少しこの部分だけ早めます)
関中佐はふとあることに気付きます。呉へ電話をいたします。
呉鎮守府です。呉へ出張中の小林儀作中佐にでした。
「大至急、徳山燃料廠にある燃料の分量を調査して頂きたい」
すぐさま返答が返ります。
「帳簿外ですが・・・約1万3000トンの燃料があります」
この情報はすぐさま神の耳にも入ります。
そして再びGF司令長官豊田武副大将へ話しを持って行きます。
「燃料は片道分。徳山にあります。長官ご判断を」
豊田司令長官は黙っております。しばし考えた後、口を開きました。
「成功の確率は五分ではあるか・・・先の御下問の事もある」
これを持ってこの作戦の承認を得た神でした。
神重徳GF主席参謀は軍令部へ直接「大和の沖縄突入作戦」を持ってまいります。
これを聞いた富岡軍令部第一部長は神にこう話します。
「九州南方に敵を陽動させ、敵空母を含む艦隊を釣り上げ、鹿屋をはじめとする航空部隊でこれを叩くというのであれば賛成もしよう。だが、護衛機もなく沖縄へ突入させるというのなら反対である。燃料の問題もある」と。
富岡少将からに拒絶された神大佐は次に軍令部次長小沢治三郎中将へ説得工作をいたします。
「海軍は、沖縄を最終決戦場としているのではないのですか。注ぎ込める兵力は一兵でも注ぎ込む、そうした覚悟であったはずです。大和以下水上部隊を沖縄へ突入させ、大和を砲台とし敵を叩く。これしか、大和を生かす法はないのです」
と熱弁を振います。
「これでは、敵の餌食になることは目に見えている。自殺行為ではないか。勝算の乏しい作戦である。燃料問題もあるが」
「この事はGF司令長官が了承されております」
これが決め台詞となりました。
小沢次長は「GF長官がそうされたいと申すのであれば・・決意されたのでしたら、いいでしょう」と最後に話すのでした。
「片道分で結構。砲台として弾丸が尽きたら、全員で陸戦隊を組織し切り込みます」
小沢次長の側には天皇陛下へ「天一号作戦」を奉上した及川大将もおられました。その話を全て聞いております。終止無言。事の決定には何も話さず黙認しておりました。
神重徳GF主席参謀は、GF参謀長草鹿龍之介中将、2F司令長官伊藤整一中将へは一言もなかったのでした。(ここでは断言いたしておきます。が草鹿中将が知らなかったという事実→記録ではそうです、が。→は今後検証するところです)
第五航空艦隊基地におりますGF参謀長草鹿龍之介中将の下に神先任参謀から電話連絡がございます。
「このことはもう既に豊田長官も決裁をされたが、参謀長のご意見は如何ですか」
「馬鹿な事を言うな!事が決まってから『ご意見』だと。決まったものはしょうがないじゃないか」
草加はこれ以上は話さず電話を切ったのでした。
4月5日1359(13時59分)大和通信室。酔漢祖父がおります。
暗号電文。GFからです。
「GF電令作 第六○三号」が届きます。
「日本の指導者には歴史を意識した発言がない」と書いていましたが、
今回の水換算のお話を読むと
「太平洋戦争(特に後半)には明確な見通しがなく、
悪く言えば場当り的に事が運ばれているような気がしてなりません(特に現場ではなくて軍上層部で)。
あ号作戦の失敗で機動部隊が潰滅し、自ら戦場を選ぶことが出来なくなった結果かと思います。
ですから「今使わずしていつ使うのだ」とか
「それでは大和がかわいそうだ」といった
感情論が出てくるのだと思います。
沖縄戦にしても艦隊の運用も含めて
「こう戦うのだ」という明確な見通しがあれば、
「航空隊は特攻を出しているのに、水上部隊は何をしておりのだ」
などと言われても応えに詰ることはなかったでしょう。
神さんの「天佑は我にあり」ですが、
状況を見れば天佑などあるはずもないですね。
捷一号作戦も神参謀が関っていたとすれば、
栗田中将率いる第二艦隊が反転した際の
「天佑ヲ確信シ突撃セヨ」の
督戦電報もむべなるかなです。
酔漢さんの今回のお話にも
「俺が行って沖縄を救ってやると思っている方もいた」
というくだりがありますが、
「俺たちが行かないで誰が行くというのだ」
と思っていた大和乗組員も少なくはなかったようです。
この辺の話は、下士官兵が中心の大和会に出席した吉田俊雄さんの『戦艦大和・その生と死』(PHP文庫)に出てきます。
天一号作戦というと、とかく悲劇性だけが強調されがちです。
しかし作戦立案者の無定見を批判するだけで、
果して戦死した皆さんが浮ばれるでしょうか。
この辺、小生も未だにはきとした解答を持ちません。
難しい所です。
どのレベルでだったかは失念しましたが、
「沖縄に出撃する二艦隊に直掩の戦闘機を十分につけてやれ」
という意見があったと聞いたことがあります。
しかしそれも「特攻に回す飛行機が減る」という理由で日の目を見なかったそうですね。
五艦隊の宇垣長官が出したせめてもの十機(だったでしょうか)反転するや、
敵機が接触を始めています。
死が避けられぬものならば、せめて意味のある死に方をさせてやりたい・・・
その思いが叶わなかった二艦隊の伊藤長官(護衛をつけよと意見具申した方も含めて)と神雷部隊の野中隊長の胸中は察するに余りあります。
この後は読むに耐え難い思いです。
冷静な意見や慎重論は「臆病者」とのレッテルを貼られ遺棄されてしまいます。
はてさて戦後の日本社会はこの構造を払拭し切れているのでしょうか?
「頂上時代」。達成不可能と誰しも感じていた売り上げ目標が決済され、大量の在庫が経営を苦しめるほどのレベルに達してしまいました。
バイヤーの私も大きな矛盾を感じつつ、あえて在庫を抱えるための買い付けに奔走しました。
その後の大失敗の結果分析もおざなりとなり、「責任追及」の非難合戦と相成ります。
・・・「映画公開で売り上げが大幅に伸びるはずだった」これがトップの言い訳でもありました。
そういえば「沖縄戦の最中に神風(大型台風)が必ず来襲し米国海軍は全滅する」といった軍内部の声もあったように記憶しております。
それが天佑を待つということなのでしょうか?
近現代において、あの当時のままの異様な政体「国体」の護持などハイレセラシエじぁあるまいし、どだい無理な話です。
外遊までしてある程度までは欧米の政体を理解していたはずではないですか。
「自分の名のために死ぬな」この一言で良かったのです。
結局責任の追及は海軍には及びません。東京裁判でも同様です。今後これは語っていかなければならないテーマだと思うのです。
もう少しお時間を下さいな。
そして、ご助言、宜しくお願いいたします。
最初は一年が一頁。半年が一頁。一日が一頁。
これからは3時間事の一頁かもしれません。
時間の凝縮を感じております。
祖父がどのような判断をしたのか。
想像するしかないのですが、暗号班、東北人の方があれほど多かったとは改めて感じた次第です。
自身も今後語りますことにプレッシャーを相当感じております。
さて、バイヤーをご経験でしたか。そのご苦労察するにあまりあります。
自身は断り、その後の人事で多くの障害を受けました。
すみません、内輪の話でした。
古村二水戦司令長官、そして伊藤2F司令長官。どちらもアメリカでの経験がございます。
その感覚は最期に見え隠れするのでした。
神大佐ですが、終戦後に要務で搭乗した飛行機が墜落(不時着水だったか)。
戦死しています。
終戦後のことですので、事故死或いは公務死と言った方が適切でしょうか。
一説には救助を拒んだとも。
何かの本で読んだ覚えがあります。
但し書名著者名を覚えてないので、不確かな情報ではありますが・・・
「俺は最後中を点検する」と機内に残った神大佐です。
一説には手を振って機と共に沈んでいったとか。
証言する方も少なく、なんともやりきれない最期ではございます。
もう少し語って頂きたかった。
多くの作戦の経緯が解ったかも知れません。
豊田嬢さんのエッセイにあったのでした。
「父の最期については諸説ふんぷんとしていたが、平成七年九月、義兄舘豊夫が日経新聞「私の履歴書」にて数行ふれたところ、神参謀の思い出につき数通の投書があり、そのなかにこの件につき貴重な証言があった。武藤誠様といわれる方で、旧制七高卒、昭和十八年、学徒動員で海軍予備学生として飛行士となられ、当時、千歳飛行場に勤務しておられた。……昭和二十年九月十五日午前、千歳飛行場で大橋司令と二人で父が乗った練習機「白菊」を見送り、数時間後に、津軽海峡に不時着、神大佐のみ行方不明の電信が入り、いまもその電文を覚えておられる由。
当時、ソ連軍が千島より南下、北海道も危ないという時で、米軍機も千歳で警戒に当たり、米側と残留日本軍との連絡が目的であったとのこと。
大橋司令、神大佐とも大変疲れていたが、神大佐は快活に話をしており、とても自殺とは考えられぬ、疲労による水死であると判断されるとの内容であった。父の強気の性格とこのお話により、死因は確定したと考える。」(p192)とあります。
しかし同じ飛行機に乗っていた人の証言ではないので、「確定」とするにはちょっと弱い気がします。
秦郁彦著「昭和史の軍人たち」に最期の模様がやや詳しく書かれています。