「もうどうにもなりません!」
傾いた艦橋では2F(第二艦隊)参謀達があちこちにしがみついて立っております。能村副長も必死の思いで、ラッタルを駆け上がって第一艦橋までたどり着いたのでした。
伊藤整一司令長官はじっと目を据えて、能村副長を見ているのでした。
艦の速力は六ノット。傾斜は三○度を有に超えております。
石田恒夫少佐は伊藤司令長官を支えるように立っております。
「艦の傾斜復旧なりません。傾斜は直りません!」
能村副長は、第一艦橋に有賀幸作艦長の姿がないことに気づきました。
「まだ、防空指揮所におられるのか。艦長に知らさなければ」
この一図な責任感が、更に上、露天の防空指揮所へ足を向かわせるのでした。
副長は、伊藤司令長官へ短く敬礼をし、ラッタルを駆け上がります。
大和、防空指揮所へたどり着きます。
上記のような記述といたしました。石田恒夫少佐の戦後の証言をもとに語っております。
この証言は石田少佐と能村副長証言が違っております。
「乗員は皆、最後の肚を決めているから、だれ一人あわて騒ぐこともなく落ち着いて、なお各自の配置を守り続けている。
命令の下、必死の結末を百も承知して出撃し、従容として、職務に最善を尽くして来たのであるが、艦は、これ以上、任務の遂行不可能である。
命脈尽きた艦に踏みとどまって共に沈むか、生き延びて、危急の祖国に再びご奉仕するか、いまは一人でも多くの人が必要なときではないか。
『大和』は沈んでも、各個人は命のある限り、今後幾らでも国家のお役に立ちうる。まして、本艦の乗員は素質優良な上に、長年の間、海軍軍人として最高度の訓練を身につけた、人物技倆抜群の得がたい人々である。
このままの状態で時間がたてば、総員が、艦と運命を共にする。
艦長からは、いまだなんの指示もない。
いや、対空戦闘と操艦に熱中しておられる艦長には、他を顧みる余裕がないのであろう。生き延び得る得ないは別として、乗員は、沈む艦からできる限り救い出さねばならない。その鍵を握るのは私だ。躊躇すると時機を失う」と。
判断の適否を、繰り返して考えて見る時間の余裕はない。(中略)
司令塔内の防禦指揮所から、傾いて足場の悪い檣楼内の狭い階段を駆け上がって、第二艦橋に出た。
見れば。
平素なら水面上七、八メートルは最上甲板全部の左半分は海中にあり、艦首が半島のように海上に取り残されている、第二砲塔左舷の単装機銃や応急弾薬筐は波に洗われ、外側の第八三連装塔のごときは、水の中である。
(中略)第九分隊長服部信六郎海軍大尉は、お写真が艦の沈没とともに流出することをおそれ、奉持して自分の私室にはいり、中から鍵をかえ、身をもってお写真の殉じたのである。
傾斜はさらにひどくなる。私は、ついに決心して第二艦橋伝令所の電話をとりあげ、防空指揮所の有賀艦長へ
「注排水指揮所も破壊し、傾斜復元の手段は尽きました。傾斜が刻々とふえております。最期の時刻も近いと思うので、総員を最上甲板に上げてください」と申し述べた。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
副長は第二艦橋伝令所より電話にて防空指揮所にいる有賀艦長と連絡「総員最上甲板」の意見具申を行ったと証言しておられます。
酔漢は、これは、本人の証言であり、おそらくそうでななかろうかと推察しておりましたが、石田恒夫少佐ははっきりと「副長がラタッルを登り切り、第一艦橋、そして防空指揮所へ『総員上甲板』を意見した」と証言されておられます。一説には「伝令兵と間違ったのではないか」と推察されておられる方もいらっしゃいますが、本件、石田証言をもとにお話しを語ることといたしております。
防空指揮所内有賀艦長と能村副長の会話です。ここからが前回の続きとなります。
羅針儀に掴まり鬼の形相で、鉄兜を捨てております。たばこをふかしながら、敵機がまだ見える方向へ目を向けているのでした。
「傾斜復旧の見込みは、最早、ありません!」
有賀艦長は、副長の声が聞こえなかったのか、そのまま黙って海を見ているのでした。
「艦は、大和は沈みます。艦長!総員最上甲板を、最上甲板を・・・!!」
有賀艦長は一瞬目を閉じます。そして閉じたまま、口を開きました。
「よろしい・・・・・副長、よろしく頼む」
いつもと同じ、物静かな口調でした。最後の言葉は機銃の音でかき消されました。
「艦長、『よろしい』と」
副長は念を押すように聞き返します。
そして力強い声で。
「総員最上甲板だ。副長、司令長官へは、私が言う。副長も最上甲板だ!副長は副長の務めを最後までまっとうするんだ!いいな」
「艦長、艦長は・・・・・」
「副長は、副長はその任務を遂行するのだ!」
これが、能村副長と有賀艦長と交わした最後の会話となるのでした。
最後に白い歯を見せた有賀艦長でした。
第一艦橋、各参謀、そして伊藤司令長官は、この二人のジャッジの後に総員最上甲板を聞きます。伊藤司令長官は着任してから「艦のすべては有賀艦長に任せてある」と話しております。これは、司令部座乗という異常事態に対処すべく、命令系統を統一させようとした伊藤整一司令長官はじめ第二艦隊司令部乗員が取った行動規範です。
ですから、祖父もどちらかと言いますとオブザーバー的な役割だったのではないかと推察しております。副長証言にありますように、通信室、暗号室では、艦の運行にかかわる通信を大和が。艦隊司令部他の通信を2Fが受け持ったとしております。しかし、例えば、艦の操艦、戦闘指令等、すべて大和に任せております。伝説の操艦で「レイテ」を乗り切った前大和艦長、森下信衛第二艦隊参謀長も第一艦橋にいながら、その操艦指示は有賀艦長に任せ、一切下令しておりません。石田恒夫少佐(前大和主計長→経二十四期)も能村副長へその任を任せております。ですから、その「総員上甲板」(「総員退去」「総員退艦」という命令はございません。「総員最上甲板」がその意味でございます。ですから「総員退艦」という言葉と書かれておる書がございますが、それは違っていると考えます)にしましても、大和の長である「有賀幸作艦長の判断に任せてた」とするのでございます。
しかし、作戦の下令はあくまで海軍であり、その長は伊藤整一司令長官です。作戦自体の中止判断は、司令長官自らが判断、下令しなくてはなりません。
第一艦橋へ伝声管ごしに(有賀艦長は最期まで防空指揮所におられました。第一艦橋へは降りてこなかったとするのが史実であろうと考えております)司令長官へ意見具申をする有賀艦長です。
「傾斜復旧の見込みはありません。総員上甲板を下令します」
「します!」という言葉には重く、そして並々ならぬ決意をみる、各参謀達でした。
そして、防空指揮所のマイクを握った能村次郎副長はありったけの声で叫びます。
「総員、最上甲板!総員最上甲板!」
壊れていない拡声器はわずか。艦全部へ行き届くのか定かではありません。伝令が一斉に走ります。「喉から血が出るのではないか」と思わんばかりの声を上げます。
「そういぃぃんんじょうぅぅぅぅ・・カンパァァァンんんんn!」
「艦内各所は閉鎖されている、中に残っている乗員も多かろう、どれだけに伝わるか」
副長は、そう考えているのでした。
艦内の電気装置はいまだ健在、照明も通信装置もほとんど故障のなかったのは幸いであった。(→一部証言には、この時点艦橋の照明がついてなかったと話される方もおられます)
艦長命令を復誦する伝令の声が全艦になり響いた。
艦長はさらに言葉を続けて長官に、
「長官はかけがいのないおからだです。どうか、無事退艦して下さい。私があとに残ります」と長官には退艦をすすめた。
(能村次郎大和副長 証言手記 より抜粋)
そして有賀艦長より茂木(史郎)航海長(大佐)へ指令です。
「艦を北向きに」
「艦長は操舵不能を知っておられての下令なのか・・・・」
「艦長・・・艦は大和は動きません!」
「そうか・・・・」
有賀艦長のしわがれ声が小さく聞こえたような気がしました。
伝声管ごしにこれを知ってなお「艦首北」を下令した「ゴリラ」の顔を思うのでした。
伊藤司令長官は森下参謀長の目を見ました。最早、二人の判断が一緒なのを感じる森下参謀長なのです。
「長官、このあたりで・・・・よいかと・・」
「残念であった・・・・な」
これだけ言い残すと、伊藤司令長官は階下の長官休憩室へ足を運ぼうとするのでした。
(下記、渡辺光男少尉証言、他、多くの書が伊藤整一司令長官は「長官公室」へ足を運ぶと記述されております。これは不自然な事に気づきます。長官公室には御真影が安置されており、→この時間では上記能村副長手記にありますように、移動させております。図面では右舷上甲板に位置しております。あの状況で第一艦橋から上甲板まで行きつけるはずはありません。第一艦橋下にございます「長官休憩室」とするのが正確だと考えます。各証言はおそらく記憶違い、またそれをもとにした多くの書がそのまま記述したため、「伊藤司令長官は長官公室に向かった」となったかと推察します。ここの補足訂正いたします。21時50分。11月8日)
石田恒夫少佐(副官)は自然と長官の後を追うように歩き始めます。
その足音に気づいたのか、伊藤司令長官は後を振り向きました。
「お前は残れ(生き残れ)いいな。これは命令だ」(←石田恒夫少佐の伊藤司令長官からの最期の言葉として記憶されておるところをそのまま語りました)
そして、森下参謀長が石田副官の肩を強く握ります。
「貴様は行かんでもよい」
伊藤司令長官は足を止めることなく、そのまま長官公室へ向かったのでした。
その後ろ姿に敬礼をする、石田少佐だったのでした。
塚本高夫二曹は艦長付伝令として、艦長と運命を共にする覚悟でおります。
足が滑る(床の血で)ので靴を脱ごうとします。
それを見た有賀艦長は、塚本二曹が艦と運命を共にするのかと考えたのでしょうか。
「貴様は、靴を脱がんでもいい」と一喝されます。
羅針儀を抱くように体を押し付けたままの艦長です。
塚本二曹は、「艦長の体を羅針儀にしばりつけた」と記されている書が多いことに戦後知るのです。
「いや、艦長は羅針儀にはしがみついておりましたが、縛っておりません」と証言されております。
「第一艦橋で、茂木航海長と花田掌航海長がロープで羅針儀に体を縛っているのは防空指揮所から少し見えました」と証言されておられます。
しかしながら、川瀬寅雄水長は「艦長は羅針儀に体をしばりつけた」と証言されておられます。どちらなのか、ただし、防空指揮所であったことは確かなのです。
能村副長より艦長へ「傾斜復元の見込みなし」と報告されたが、やがて「総員最上甲板」を要請すると、そのまま伊藤長官へ伝達された。
艦長は奮戦苦闘のためか声もかすれており、その悲壮の中に「総員最上甲板」の命令がだされた。
伊藤長官は参謀長以下、幕僚と決別の答礼をされ、長身の体を悠然と階下の長官公室へはこばれ、ドアの鍵をしめられた。艦と運命を共にする覚悟なのであろう。
私も、最後まで部下としてついてくれた伝令と握手してから、互いに体伝声管にしばりあっていると、とつぜん参謀長の声がとんでくると同時に背中をいやというほど殴られた。参謀長は、
「まだ働かなければならないことがたくさんある。いま死んでどうする」と一人一人を叱咤していた。
(渡辺光男少尉 証言 手記より抜粋)
「男たちの大和」映画では、そのシーンを上甲板にいる兵を視点としております。
慰霊祭での三笠逸男さんの証言です。
一番副砲内におられました。
「総員最上甲板の下令には驚きましたが、命令なので体と声が反応するんですよね。すかさず『退去だ』と叫んでおりました。各砲員も命令ですから、退去の準備をするんです。そして弾薬給室へ退去を伝えなければとも思ったのです。他、砲員を傾いた砲塔(副砲)の登らせて通風孔の上に上がりました。水は砲塔へ迫っております。右舷の甲板が絶壁のように見えました。バンザーイの声があちこちで聞こえました」
このとき突然、あたりの静寂をやぶって意外な号令が流れとんだ。
「総員、退避、上甲板」
生きているもの、動ける者はすべて上甲板へ集まれ、そして退避せよと命令だったのである。この命令がでるまでは、どんな事があっても自分の配置を離れることはゆるされなかったのだが、ついに、来るべきものがきてしまったのだ。大和をすてて、逃げる用意をせよというのだ。(中略)
私は一寸の躊躇のあと、こう叫んでいた。
「総員、退避、上甲板」
どうか、なんとかして一人でも多く上甲板まではいあがってきてほしいと強く、強く願いながら、そして、そのまま外へ飛び出していった。(中略)和足が指揮所の外へ出たとき、午後二時をすこしまわったころだったか。戦闘開始からわずかな時間であったが、大和はもう六○~七○度に傾いていた。
(小林健水長 大和主砲射撃指揮所内 証言手記より抜粋)
上空にはまだ、敵機が天を覆うばかりに群舞していた。カタパルトの台が大音響と左舷に落ちた。「スクリューがとまるまで海へ入るな、オレは三回目だ」と変なところで威張っている岸本(輝夫)兵曹の声がする。総員退去の命令がすでに出ていたのだが、拡声器の故障で、気づかなかったのだ。
右舷の艦腹に立つ人が増えてきた。私もはい上がる、もうひとりとして大声を出す者もいなかった。
そして私も人影を追って右舷から海中に飛込んだ。
(木村邦夫二曹 運用科応急員 証言 手記より抜粋)
副長はそばにいる乗員に努めて平静を装いながら接しております。
「おい、たばこだ、落ち着け」
と恩赦のたばこを配ります。
「これから、闘いが始まる。しょうべん・・・しておけよ!」
副長が真顔で排水口に小便をしているのを、兵たちが見ております。
「作戦中止命令は出ていない。が、これは二艦隊の判断である。草鹿中将もそう話している」森下参謀長はやはり自問を繰り返しております。
これは、「最早作戦遂行不可能」二水戦にはどう伝えるのか。
わずかに残った信号員がそばにいるはずの「初霜」と「冬月」に発光信号を送ろうとするが、信号灯が故障しております。
「大和がこうなっていることを知らせる手段がない」
「おい、何が起こった!どうした!」
「ビッグバン!ビッグバン!」
デカイ奴の腹が見えたと思った。そしてそれを確認してから直ぐに旋回をし、デカイ奴に背を向けたトム・ステットソン中尉でした。僚機、ハーバート・フークのヘルキャットはその翼にカメラを取り付けておりました。
その右側を飛行中です。自身の機が熱線を浴びたようになったのです。
その直後、機体が大きく震動し、操縦不能に。
「なんだ!!爆発だ!」
遠隔操作のカメラのシャッターを押します。
「巨大な火の玉。そして1000フィートの煙」
そのきのこ雲の下。
最早、デカイ奴の姿がありません。
「突如として一条の赤い火焔が上がり、消えたときには『大和』の姿はなかった」
戦後、彼はそう証言しました。
「Big One」の名前が「YAMATO」と知ったのは、戦後になってからのことだったのでした。
傾いた艦橋では2F(第二艦隊)参謀達があちこちにしがみついて立っております。能村副長も必死の思いで、ラッタルを駆け上がって第一艦橋までたどり着いたのでした。
伊藤整一司令長官はじっと目を据えて、能村副長を見ているのでした。
艦の速力は六ノット。傾斜は三○度を有に超えております。
石田恒夫少佐は伊藤司令長官を支えるように立っております。
「艦の傾斜復旧なりません。傾斜は直りません!」
能村副長は、第一艦橋に有賀幸作艦長の姿がないことに気づきました。
「まだ、防空指揮所におられるのか。艦長に知らさなければ」
この一図な責任感が、更に上、露天の防空指揮所へ足を向かわせるのでした。
副長は、伊藤司令長官へ短く敬礼をし、ラッタルを駆け上がります。
大和、防空指揮所へたどり着きます。
上記のような記述といたしました。石田恒夫少佐の戦後の証言をもとに語っております。
この証言は石田少佐と能村副長証言が違っております。
「乗員は皆、最後の肚を決めているから、だれ一人あわて騒ぐこともなく落ち着いて、なお各自の配置を守り続けている。
命令の下、必死の結末を百も承知して出撃し、従容として、職務に最善を尽くして来たのであるが、艦は、これ以上、任務の遂行不可能である。
命脈尽きた艦に踏みとどまって共に沈むか、生き延びて、危急の祖国に再びご奉仕するか、いまは一人でも多くの人が必要なときではないか。
『大和』は沈んでも、各個人は命のある限り、今後幾らでも国家のお役に立ちうる。まして、本艦の乗員は素質優良な上に、長年の間、海軍軍人として最高度の訓練を身につけた、人物技倆抜群の得がたい人々である。
このままの状態で時間がたてば、総員が、艦と運命を共にする。
艦長からは、いまだなんの指示もない。
いや、対空戦闘と操艦に熱中しておられる艦長には、他を顧みる余裕がないのであろう。生き延び得る得ないは別として、乗員は、沈む艦からできる限り救い出さねばならない。その鍵を握るのは私だ。躊躇すると時機を失う」と。
判断の適否を、繰り返して考えて見る時間の余裕はない。(中略)
司令塔内の防禦指揮所から、傾いて足場の悪い檣楼内の狭い階段を駆け上がって、第二艦橋に出た。
見れば。
平素なら水面上七、八メートルは最上甲板全部の左半分は海中にあり、艦首が半島のように海上に取り残されている、第二砲塔左舷の単装機銃や応急弾薬筐は波に洗われ、外側の第八三連装塔のごときは、水の中である。
(中略)第九分隊長服部信六郎海軍大尉は、お写真が艦の沈没とともに流出することをおそれ、奉持して自分の私室にはいり、中から鍵をかえ、身をもってお写真の殉じたのである。
傾斜はさらにひどくなる。私は、ついに決心して第二艦橋伝令所の電話をとりあげ、防空指揮所の有賀艦長へ
「注排水指揮所も破壊し、傾斜復元の手段は尽きました。傾斜が刻々とふえております。最期の時刻も近いと思うので、総員を最上甲板に上げてください」と申し述べた。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
副長は第二艦橋伝令所より電話にて防空指揮所にいる有賀艦長と連絡「総員最上甲板」の意見具申を行ったと証言しておられます。
酔漢は、これは、本人の証言であり、おそらくそうでななかろうかと推察しておりましたが、石田恒夫少佐ははっきりと「副長がラタッルを登り切り、第一艦橋、そして防空指揮所へ『総員上甲板』を意見した」と証言されておられます。一説には「伝令兵と間違ったのではないか」と推察されておられる方もいらっしゃいますが、本件、石田証言をもとにお話しを語ることといたしております。
防空指揮所内有賀艦長と能村副長の会話です。ここからが前回の続きとなります。
羅針儀に掴まり鬼の形相で、鉄兜を捨てております。たばこをふかしながら、敵機がまだ見える方向へ目を向けているのでした。
「傾斜復旧の見込みは、最早、ありません!」
有賀艦長は、副長の声が聞こえなかったのか、そのまま黙って海を見ているのでした。
「艦は、大和は沈みます。艦長!総員最上甲板を、最上甲板を・・・!!」
有賀艦長は一瞬目を閉じます。そして閉じたまま、口を開きました。
「よろしい・・・・・副長、よろしく頼む」
いつもと同じ、物静かな口調でした。最後の言葉は機銃の音でかき消されました。
「艦長、『よろしい』と」
副長は念を押すように聞き返します。
そして力強い声で。
「総員最上甲板だ。副長、司令長官へは、私が言う。副長も最上甲板だ!副長は副長の務めを最後までまっとうするんだ!いいな」
「艦長、艦長は・・・・・」
「副長は、副長はその任務を遂行するのだ!」
これが、能村副長と有賀艦長と交わした最後の会話となるのでした。
最後に白い歯を見せた有賀艦長でした。
第一艦橋、各参謀、そして伊藤司令長官は、この二人のジャッジの後に総員最上甲板を聞きます。伊藤司令長官は着任してから「艦のすべては有賀艦長に任せてある」と話しております。これは、司令部座乗という異常事態に対処すべく、命令系統を統一させようとした伊藤整一司令長官はじめ第二艦隊司令部乗員が取った行動規範です。
ですから、祖父もどちらかと言いますとオブザーバー的な役割だったのではないかと推察しております。副長証言にありますように、通信室、暗号室では、艦の運行にかかわる通信を大和が。艦隊司令部他の通信を2Fが受け持ったとしております。しかし、例えば、艦の操艦、戦闘指令等、すべて大和に任せております。伝説の操艦で「レイテ」を乗り切った前大和艦長、森下信衛第二艦隊参謀長も第一艦橋にいながら、その操艦指示は有賀艦長に任せ、一切下令しておりません。石田恒夫少佐(前大和主計長→経二十四期)も能村副長へその任を任せております。ですから、その「総員上甲板」(「総員退去」「総員退艦」という命令はございません。「総員最上甲板」がその意味でございます。ですから「総員退艦」という言葉と書かれておる書がございますが、それは違っていると考えます)にしましても、大和の長である「有賀幸作艦長の判断に任せてた」とするのでございます。
しかし、作戦の下令はあくまで海軍であり、その長は伊藤整一司令長官です。作戦自体の中止判断は、司令長官自らが判断、下令しなくてはなりません。
第一艦橋へ伝声管ごしに(有賀艦長は最期まで防空指揮所におられました。第一艦橋へは降りてこなかったとするのが史実であろうと考えております)司令長官へ意見具申をする有賀艦長です。
「傾斜復旧の見込みはありません。総員上甲板を下令します」
「します!」という言葉には重く、そして並々ならぬ決意をみる、各参謀達でした。
そして、防空指揮所のマイクを握った能村次郎副長はありったけの声で叫びます。
「総員、最上甲板!総員最上甲板!」
壊れていない拡声器はわずか。艦全部へ行き届くのか定かではありません。伝令が一斉に走ります。「喉から血が出るのではないか」と思わんばかりの声を上げます。
「そういぃぃんんじょうぅぅぅぅ・・カンパァァァンんんんn!」
「艦内各所は閉鎖されている、中に残っている乗員も多かろう、どれだけに伝わるか」
副長は、そう考えているのでした。
艦内の電気装置はいまだ健在、照明も通信装置もほとんど故障のなかったのは幸いであった。(→一部証言には、この時点艦橋の照明がついてなかったと話される方もおられます)
艦長命令を復誦する伝令の声が全艦になり響いた。
艦長はさらに言葉を続けて長官に、
「長官はかけがいのないおからだです。どうか、無事退艦して下さい。私があとに残ります」と長官には退艦をすすめた。
(能村次郎大和副長 証言手記 より抜粋)
そして有賀艦長より茂木(史郎)航海長(大佐)へ指令です。
「艦を北向きに」
「艦長は操舵不能を知っておられての下令なのか・・・・」
「艦長・・・艦は大和は動きません!」
「そうか・・・・」
有賀艦長のしわがれ声が小さく聞こえたような気がしました。
伝声管ごしにこれを知ってなお「艦首北」を下令した「ゴリラ」の顔を思うのでした。
伊藤司令長官は森下参謀長の目を見ました。最早、二人の判断が一緒なのを感じる森下参謀長なのです。
「長官、このあたりで・・・・よいかと・・」
「残念であった・・・・な」
これだけ言い残すと、伊藤司令長官は階下の長官休憩室へ足を運ぼうとするのでした。
(下記、渡辺光男少尉証言、他、多くの書が伊藤整一司令長官は「長官公室」へ足を運ぶと記述されております。これは不自然な事に気づきます。長官公室には御真影が安置されており、→この時間では上記能村副長手記にありますように、移動させております。図面では右舷上甲板に位置しております。あの状況で第一艦橋から上甲板まで行きつけるはずはありません。第一艦橋下にございます「長官休憩室」とするのが正確だと考えます。各証言はおそらく記憶違い、またそれをもとにした多くの書がそのまま記述したため、「伊藤司令長官は長官公室に向かった」となったかと推察します。ここの補足訂正いたします。21時50分。11月8日)
石田恒夫少佐(副官)は自然と長官の後を追うように歩き始めます。
その足音に気づいたのか、伊藤司令長官は後を振り向きました。
「お前は残れ(生き残れ)いいな。これは命令だ」(←石田恒夫少佐の伊藤司令長官からの最期の言葉として記憶されておるところをそのまま語りました)
そして、森下参謀長が石田副官の肩を強く握ります。
「貴様は行かんでもよい」
伊藤司令長官は足を止めることなく、そのまま長官公室へ向かったのでした。
その後ろ姿に敬礼をする、石田少佐だったのでした。
塚本高夫二曹は艦長付伝令として、艦長と運命を共にする覚悟でおります。
足が滑る(床の血で)ので靴を脱ごうとします。
それを見た有賀艦長は、塚本二曹が艦と運命を共にするのかと考えたのでしょうか。
「貴様は、靴を脱がんでもいい」と一喝されます。
羅針儀を抱くように体を押し付けたままの艦長です。
塚本二曹は、「艦長の体を羅針儀にしばりつけた」と記されている書が多いことに戦後知るのです。
「いや、艦長は羅針儀にはしがみついておりましたが、縛っておりません」と証言されております。
「第一艦橋で、茂木航海長と花田掌航海長がロープで羅針儀に体を縛っているのは防空指揮所から少し見えました」と証言されておられます。
しかしながら、川瀬寅雄水長は「艦長は羅針儀に体をしばりつけた」と証言されておられます。どちらなのか、ただし、防空指揮所であったことは確かなのです。
能村副長より艦長へ「傾斜復元の見込みなし」と報告されたが、やがて「総員最上甲板」を要請すると、そのまま伊藤長官へ伝達された。
艦長は奮戦苦闘のためか声もかすれており、その悲壮の中に「総員最上甲板」の命令がだされた。
伊藤長官は参謀長以下、幕僚と決別の答礼をされ、長身の体を悠然と階下の長官公室へはこばれ、ドアの鍵をしめられた。艦と運命を共にする覚悟なのであろう。
私も、最後まで部下としてついてくれた伝令と握手してから、互いに体伝声管にしばりあっていると、とつぜん参謀長の声がとんでくると同時に背中をいやというほど殴られた。参謀長は、
「まだ働かなければならないことがたくさんある。いま死んでどうする」と一人一人を叱咤していた。
(渡辺光男少尉 証言 手記より抜粋)
「男たちの大和」映画では、そのシーンを上甲板にいる兵を視点としております。
慰霊祭での三笠逸男さんの証言です。
一番副砲内におられました。
「総員最上甲板の下令には驚きましたが、命令なので体と声が反応するんですよね。すかさず『退去だ』と叫んでおりました。各砲員も命令ですから、退去の準備をするんです。そして弾薬給室へ退去を伝えなければとも思ったのです。他、砲員を傾いた砲塔(副砲)の登らせて通風孔の上に上がりました。水は砲塔へ迫っております。右舷の甲板が絶壁のように見えました。バンザーイの声があちこちで聞こえました」
このとき突然、あたりの静寂をやぶって意外な号令が流れとんだ。
「総員、退避、上甲板」
生きているもの、動ける者はすべて上甲板へ集まれ、そして退避せよと命令だったのである。この命令がでるまでは、どんな事があっても自分の配置を離れることはゆるされなかったのだが、ついに、来るべきものがきてしまったのだ。大和をすてて、逃げる用意をせよというのだ。(中略)
私は一寸の躊躇のあと、こう叫んでいた。
「総員、退避、上甲板」
どうか、なんとかして一人でも多く上甲板まではいあがってきてほしいと強く、強く願いながら、そして、そのまま外へ飛び出していった。(中略)和足が指揮所の外へ出たとき、午後二時をすこしまわったころだったか。戦闘開始からわずかな時間であったが、大和はもう六○~七○度に傾いていた。
(小林健水長 大和主砲射撃指揮所内 証言手記より抜粋)
上空にはまだ、敵機が天を覆うばかりに群舞していた。カタパルトの台が大音響と左舷に落ちた。「スクリューがとまるまで海へ入るな、オレは三回目だ」と変なところで威張っている岸本(輝夫)兵曹の声がする。総員退去の命令がすでに出ていたのだが、拡声器の故障で、気づかなかったのだ。
右舷の艦腹に立つ人が増えてきた。私もはい上がる、もうひとりとして大声を出す者もいなかった。
そして私も人影を追って右舷から海中に飛込んだ。
(木村邦夫二曹 運用科応急員 証言 手記より抜粋)
副長はそばにいる乗員に努めて平静を装いながら接しております。
「おい、たばこだ、落ち着け」
と恩赦のたばこを配ります。
「これから、闘いが始まる。しょうべん・・・しておけよ!」
副長が真顔で排水口に小便をしているのを、兵たちが見ております。
「作戦中止命令は出ていない。が、これは二艦隊の判断である。草鹿中将もそう話している」森下参謀長はやはり自問を繰り返しております。
これは、「最早作戦遂行不可能」二水戦にはどう伝えるのか。
わずかに残った信号員がそばにいるはずの「初霜」と「冬月」に発光信号を送ろうとするが、信号灯が故障しております。
「大和がこうなっていることを知らせる手段がない」
「おい、何が起こった!どうした!」
「ビッグバン!ビッグバン!」
デカイ奴の腹が見えたと思った。そしてそれを確認してから直ぐに旋回をし、デカイ奴に背を向けたトム・ステットソン中尉でした。僚機、ハーバート・フークのヘルキャットはその翼にカメラを取り付けておりました。
その右側を飛行中です。自身の機が熱線を浴びたようになったのです。
その直後、機体が大きく震動し、操縦不能に。
「なんだ!!爆発だ!」
遠隔操作のカメラのシャッターを押します。
「巨大な火の玉。そして1000フィートの煙」
そのきのこ雲の下。
最早、デカイ奴の姿がありません。
「突如として一条の赤い火焔が上がり、消えたときには『大和』の姿はなかった」
戦後、彼はそう証言しました。
「Big One」の名前が「YAMATO」と知ったのは、戦後になってからのことだったのでした。
生き延びてくれた人がいてこそその真実がわかり、その裏側では、祖国に家族を残して亡くなった兵士がいて 、また生きて帰っても家族が空爆で亡くなっていたり・・・
また、遺骨さえ戦地に眠ったまま…
戦争はまだ終わっていないのですね 。
舵輪を回してから舵が効き出すまでの時間が長い代りに、
一旦効き出すと急角度で回るとか。
有賀さんの前の大和艦長だった森下さんも
「この特性を飲み込むまでは薄氷を踏む思いだった」という証言を残していたと思います。
捷一号作戦のシブヤン海海戦で武蔵に被害が集中したのは、
艦長の猪口さんが着任して日が浅く、この特性をよく飲み込んでいなかったからだ
という説を読んだことがあります。
天一号作戦の場合、
有賀さんが森下さんから艦長職を引継いで三箇月しか経っていませんでしたね。
しかも航海長の茂木さんが着任したのは、出撃を目前にした時期だったと思います。
しかも捷一号作戦から内海西部に帰還した大和は、
ほとんど航海する機会がなかったのではないでしょうか。
それを承知の上で、二艦隊司令部は大和の操艦を
有賀さんと茂木さんに任せ切ったのですね。
阿川弘之さんの『軍艦長門の生涯』を読むと、
連合艦隊の参謀が時として旗艦の操艦に口を出すようなことが書いてあるだけに
考えさせるものがあります。
正に天皇陛下の御分身です。
ですから兵営の外に出る時は先導将校(中尉)が先に立ち、二名の軍旗衛兵が護衛します。
連隊旗手を務める少尉は連隊最優秀の少尉だったと聞きます。
部隊が玉砕する際には奉焼するか細かく刻んで処分したとも聞きます。
これに較べて軍艦旗は備品で、汚れれば取替えました。
戦時歌謡にある「仰ぐ誉の軍艦旗」というような文句には違和感を覚えるという意味のことを、
阿川弘之さんがどこかで言っています。
海軍で何物にもまして大切に守らなければならないものは、
御真影でした。
戦闘時には司令塔の下の主砲発令所(軍艦の中で一番安全な所と聞きました)に安置します。
軍艦がいよいよ沈没する時、
厳重に防水を施した御真影を木綿のさらしで襷がけに背負って脱出したという話を読んだことがあります。
御真影を処置する際の責任者は主砲発令所長だったと思います。
大和沈没に際して服部大尉が御真影を抱いて資質に閉じこもったのは、そのためなのですね。
「勝手に海軍なんかに行きやがって・・」
そう話すのを何度も聞きました。ですが、大和会と最後まで連絡を取ろうとしていたのも父です。この思いをどう表現させていくか。これも自身が背負った課題だと考えました。
服部大尉は伝説の人でした。
部下にしたわれた大酒呑み。
前日の「酒保開け」では何処で呑まれましたでしょう。
部下を退避させ、自身のみ主砲発令所へ施錠。
五体満足のまま壮烈な戦死をされておられます。あまり語られる事のない人ですが、多くの人の記憶に残っている人なのでした。
私は双子で、弟は和志といいます。大志と和志。いやでも大和を背負わされた思いで、今まで生きてきました。そんな私も46歳となり、祖父の人生をとうに超えてます。祖父のその生き様は、今も色あせる事なく私のプライドでもあります。決してブレないその生き方は、融通が利かないとか、不器用だとかとは次元の違うものだから。でも母は言います。死して孫のプライドになるよりも、恥を晒してでも、大好きだった父親に生きて帰って欲しかったと。
初めまして。酔漢氏の友人の丹治と申します。
私のコメントを御覧になって投稿されたとのこと、恐縮の至りです。
「操舵のこと」は有賀艦長の視点にしての投稿でした。
大和乗組みを命ぜられたのは、
どれぞれの術科や階級で優秀な技量を認められた人ばかりだったと聴いております。
これは艦長からい一水兵に至るまで変りません。
定期異動なのか臨時の移動なのかは詳らかにしませんが、
茂木さんのお爺様が大和航海長になられたのも、
優秀な航海術の技量を認められたからこそだと思います。
また有賀艦長が茂木航海長に操艦を任せたのも理由も、
正にそこにあったはずです。
大和乗組みを命ぜられた時、
お爺様は喜びと責任感で身も引締る思いだったのではないでしょうか。
そしてまたそれだけに、
着任して日が浅く乗艦の操舵特性を十分に体感できなかったことが
無念だったに違いありません。
大和がいよいよ沈む時、
沖縄に行き着けなかった航海長としての責任を
一層強く感じたに違いありません。
「花田掌航海長と羅針儀に身を縛りつけている時、
それが傍目にも痛いほどよく分り、
声などかけられる状況ではなかったのではないか」
とは、
このことを電話で話し合った折の酔漢さんの言葉です。
実を申しますと、私の母方の祖父は歩兵四連隊の中隊長でした。
満州事変に出征して負傷し、後方勤務に変りました。
しかしこの負傷がなかったら、
蘭印かガダルカナル、あるいはビルマで
間違いなく戦死していたでしょう。
終戦時には台湾におりましたが、
転勤したのは開戦後のことです。
場合によっては船を潜水艦に沈められたかもしれません。
(祖父に遅れて台湾に行く母や伯父、伯母が乗った高千穂丸は、
その後潜水艦の魚雷攻撃で沈んでおります)。
幸いにも祖父は生還しました。
しかし戦争に行かれた方の話を聞くだに、
紙一重の差で生死が分れることを痛感します。
それだけに戦死された方々の話が他人事とは思えないのです。
祖父は私が三歳の時に他界しました。
「もっと長生きしてくれれば色々な話を聞くこともできたのに」
と、今にして思います。
茂木航海長の出処進退にけじめをつける生き方は、
武蔵の越野砲術長とも共通します。
お二人の人柄の足下には遥か及ばぬ私ですが、
出処進退は潔くありたいと思っております。
茂木さん、立派なお爺様を持たれましたね。
私も六十四歳の父を病気で亡くしました。
十年以上も前のことですが、
「もっと長生きしてほしかった」との思いは
捨てることができません。
大好きなお父様、立派なお父様と、
お母様は小さいうちに別れなくてはならなかったのです。
「恥を晒しても生きて帰ってほしかった」
との思いは、
大きくなるにつれてますます強くなったことと思います。
茂木さんのお母様のお気持ちも、
今にしてよく分ります。
茂木航海長の御冥福を改めて御祈り申し上げます。
おっしゃいます通り、「茂木史郎航海長は、日本海軍一の航海長」でした。
遺族会でも、そのお姿を語る方が大勢おられました。
私自身も、茂木航海長のお名前は、小学生時代から知っております。
その最期のお姿は、書物に多く記載されておるところですが、崇高な責任感には感動すら覚えます。
父も茂木様お母様と同じ事を話しておりました。「どんな格好でも生きて帰って来てもらいたかった」と。
お名前をネット上にも関わらず実名での投稿。
そのお名前を拝読し、このコメントの重さと、茂木様のお志の高さにただひたすら脱帽です。
茂木航海長。
くだまき本編で語りたく思いました。
また、丹治さんからコメントを頂戴しておりますが、彼は私の敬愛する先輩です。
海軍の事情に詳しいドイツ語の准教授。
彼の思いは、上記の通りです。
是非、是非、またご意見等お寄せ下さいませ。
私の中で「茂木史郎大佐」は、大変重みのある方なのです。
遅れました。
改めて、茂木航海長のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
「茂木航海長のお孫様よりコメントを頂戴した」と叔父(父弟)に話しました。
大変驚くと同時に、この繋がりを大事になさいと言葉を頂きました。
ありがとうございました。