突然失礼いたします。 (野津)
2011-09-22 21:23:03
酔漢様
はじめまして。私の叔父(父の兄にあたります)も大和の搭乗員で、坊ヶ岬で艦と運命を共にいたしました。写真は残っていませんが、名前は「野津 実(實)」といいます。なぜか先日より「實叔父のことをちゃんと記録しておかねば」と思いたち、大和関連の本など読み、ネット検索などしているうちにこちらのサイトにたどり着きました。『大和を語る』、一気に読ませていただきました。驚きました。子供の時から父より「實叔父は大和の通信兵だった」と聞かされていたからです。暗号を取り扱っていたかどうかは定かではありませんが、もしかしたら、酔漢祖父様とご一緒の事がやったやも知れません。自分も酔漢様と年齢がかなり近いと思われますが、酔漢様の用に中学生位の時からもっとしっかり記録しておけば良かった、と悔やまれます。「中国にいた」「レイテ戦に参加した」「砲兵志望だった」という、断片的な話しか覚えておりませんので・・・間違いもありましょうし、明日にでも父より年長の叔母に話を聞いてこようと思っていたところです。そして今日、辺見じゅん氏の訃報を聞きました。語るべき人はどんどん少なくなっていきます。私は叔父のことを分かる範囲でいいから系統だって残しておきたい。突然でぶしつけとは存じますが、今後お力を貸していただけませんでしょうか。なお、實叔父の階級は戦死時二等兵曹だったと思います(明日確認します)。
野津様よりコメントを頂戴いたしました。
早速、戦没者名簿を紐解きました。
厚生労働省(旧、厚生省)援護局名簿よりでございます。
「野津 実 兵曹長 島根県 呉鎮守府」とございます。
二等兵曹より一階級特進されておられます。
(読売新聞社編 能村次郎 元大和副長著 慟哭の海では 209頁巻末戦没者名簿 上段 6人目 にお名前が記載されておられました)
ご遺族からのご連絡は、これで三人目。戦没者ご遺族の方では初めてのコメントでございました。
「大和」を語ってよかった。
心底、こう思いました。
呉鎮守府、大和通信であれば、大和通信の要であったのかと思います。「第十二分隊」(昭和十八年以降の組織)に所属されておられます。
「暗号室」と「通信室」は部屋が独自の区画で区切られ、また、大和と司令部との違いはありますが、そこは、広いとはいえ、近い部署。
もしかしたら、祖父とお会いしている。
考えられなくはございません。
ご連絡ありがとうございます。
上記、野津様からのコメントにもございますように、昨日「辺見じゅん」氏が、お亡くなりなられるという新聞記事を拝読いたしました。
「辺見」氏は、大和沈没地点探査、並びに「大和引き揚げ」にご尽力されておられました。
大和引き揚げにつきましては、多くの問題を引き起こしており、この件につきましては「くだまき」で語る用意はございませんが、これは、大和会、遺族会でも話題になったのは当然至極のことでございました。
当時の「戦艦大和会会長」でいらっしゃいました「石田恒夫」さん(元第二艦隊副官)は、「戦艦大和探索会実行委員長」でもございました。
その探索会に必要な募金を、遺族宛書簡にてお知らせいたしております。
当然、父のところへもまいりました。
ご紹介いたします。
拝啓 時々益々ご清祥大慶至極に存じます。
さて、去日昭和五十五年八月十五日NHK特集「戦艦大和探索 悲劇の航跡を追って」を放映以来、引き続き第二次探索航海の実施、それにひきつづき、戦艦大和探索会の色々にと努力をつづけてまいりましたが、暫らく、大和沈没の日に、別紙第一のとおり探索会代表世話人、永末英一先生、有馬元治先生から発起人の国会議員各位のご承諾を得て頂き、募金活動を開始することになりました、就きましては、何卒、私共の念願成就に対しまして、一層のご協力を賜りたく、下記応募者のご質問にお答え頂くための諸参考事項として保記致し、茲に謹んでご協力方伏して差し上げます。敬具
父宛書簡を抜粋いたしました。
石田恒夫さんは、この活動に奔走された晩年でございました。
父も、募金をし、領収書と共に一通の葉書が届きました。
この活動には一生懸命取り組みました「石田元2F副官」ですが、週刊誌の記事にはこう記載されております。
記事掲載日不明。大和会「かわら版」昭和60年12月号 付録新聞記事コピーより抜粋。「THIS WEEK」より
「戦艦大和の引き上げにロマンを感じてやってるんです」
このたび設立された「海の墓標委員会」の事務局長になった角川春樹サンは、こうきっぱりと語った。
(中略)
ならば、と、戦艦大和会(大阪)の石田恒夫会長に訊くと、
「英霊は鎮めたままにして欲しいね。何をいまさら、です」
ロマンも結構だが、遺族たちの心情をどうする。角川サン?
親父に尋ねたことがございます。
「大和引き揚げなんだけんどっしゃ?」
「だれ、引き揚げられるわけねぇべさ!おめぇ、よく考えろよ。タイタニックよりでけぇんだど。無理に決まってっちゃ。んだども、貴重な資料は何点か採れたら、これは歴史の証言になるんだべ。やったらいいんでねぇか」
父は前向きでございました。
我が家には、それらの新聞記事の切り抜きが残されており(大和会会報も含めて)、父がこの活動を注視していた証拠でもあるのです。
ですが、石田恒夫さんは、最後にこう申しておられます。
「鎮魂 戦艦大和」と題しました遺族へ宛てた書簡でございます。
抜粋してご紹介いたします。
(前部略)
吉田満氏の「戦艦大和の最後」にも徳之島西方20浬とあるが、どうしても納得できなかった、こうしたことが戦艦大和探索の動機となり、昭和55年、56年そして3回目57年5月25、6、7の3日間で戦艦大和の海底の姿を把えて発表し、NHK特集も放映されたが大和らしき物体という表現であったので、これをはっきり大和と表現したくその念にかられて発足したのが「海の墓標委員会」であると私は推定していた、辺見じゅん委員長のこの委員会の顧問に就任の依頼があったが私は固辞した。というのは、私の第3回探索のNHK特集放映で遺族の多くから「帝国海軍の象徴とは言え大和ばかりでは他の艦船の水漬く屍となられた方々に申し訳ない」と聞いていた。また、旧海軍の方々からも「海軍に身を投じたときから水漬く屍を覚悟していた」等々かなり墓標委員会に対する反対の声は強く響いてきた。しかし、英霊の鎮魂の問題を他人まかせでは大和会として申し訳ないということで、鎮魂委員長として7月29日から8月4日まで東支那海へ墓標の言葉を借りると私は墓参ができた。角川事務局長の「報道の過熱を望まない、鎮魂第一である」という出港時の宣言通り「鎮魂第一」の海底の戦艦大和確認の大任を果たされたことに対して私は戦艦大和会を代表して深厚なる感謝を表し、「エンペラーズ・シンボル」「ジィス イズ ヤマト」と絶叫した英国のオールドネイビーのジュリー艦長やシレット整備員にも心から感謝する。
昭和60年8月15日 石田恒夫
「角川は大和で食べていこうとしている」
こう申されるご遺族もおられますことは酔漢も承知いたしております。
「男たちの大和」出版をはじめ、後に、これは「映画化」されております。
映画を石田さんがご覧になられたら(ご自身も出演⇒役者さんですが)どのような「かわら版」を遺族に送ってくださいましたでしょうか。
おそらく、自筆のはがきを認めこう結んでおられることと推察いたします。
「是非、ご覧ください」と。
実際、大和会からは、「男たちの大和」の案内が届いております。
散り果てし 華一ひらと おもえども
拾うすべなき 洋(うみ)のただ中
上記、句は、故前田利裕上曹の尊父前田熊太郎様がお読みになられたものです。
また、宮城県栗原市在住の木田ちどり様のお話された事も石田さんはお書きになられておられました。
遺族として、祖父が、父が、兄が、弟が、叔父が・・・・一体どのような顛末を迎えたのか。
これは、知りたい。
酔漢自身もそうした思いで「くだまき」にいたしました。
遺族それぞれ、思いは違う部分は多々ございます。
ですが、そうした思いは共有していてよかろう。
斯様に考えております。
数々の思いをどのように受け止めておられたのか、辺見じゅん氏にはもう少し、ご自身を語って頂きたかった。
その思いも叶わない事となりました。
野津様よりコメントを頂戴した昨日。
そして今日、父が存命ならば、七十九歳の誕生日を迎えているところでした。
「大和を語る」九十九話となりました。
2011-09-22 21:23:03
酔漢様
はじめまして。私の叔父(父の兄にあたります)も大和の搭乗員で、坊ヶ岬で艦と運命を共にいたしました。写真は残っていませんが、名前は「野津 実(實)」といいます。なぜか先日より「實叔父のことをちゃんと記録しておかねば」と思いたち、大和関連の本など読み、ネット検索などしているうちにこちらのサイトにたどり着きました。『大和を語る』、一気に読ませていただきました。驚きました。子供の時から父より「實叔父は大和の通信兵だった」と聞かされていたからです。暗号を取り扱っていたかどうかは定かではありませんが、もしかしたら、酔漢祖父様とご一緒の事がやったやも知れません。自分も酔漢様と年齢がかなり近いと思われますが、酔漢様の用に中学生位の時からもっとしっかり記録しておけば良かった、と悔やまれます。「中国にいた」「レイテ戦に参加した」「砲兵志望だった」という、断片的な話しか覚えておりませんので・・・間違いもありましょうし、明日にでも父より年長の叔母に話を聞いてこようと思っていたところです。そして今日、辺見じゅん氏の訃報を聞きました。語るべき人はどんどん少なくなっていきます。私は叔父のことを分かる範囲でいいから系統だって残しておきたい。突然でぶしつけとは存じますが、今後お力を貸していただけませんでしょうか。なお、實叔父の階級は戦死時二等兵曹だったと思います(明日確認します)。
野津様よりコメントを頂戴いたしました。
早速、戦没者名簿を紐解きました。
厚生労働省(旧、厚生省)援護局名簿よりでございます。
「野津 実 兵曹長 島根県 呉鎮守府」とございます。
二等兵曹より一階級特進されておられます。
(読売新聞社編 能村次郎 元大和副長著 慟哭の海では 209頁巻末戦没者名簿 上段 6人目 にお名前が記載されておられました)
ご遺族からのご連絡は、これで三人目。戦没者ご遺族の方では初めてのコメントでございました。
「大和」を語ってよかった。
心底、こう思いました。
呉鎮守府、大和通信であれば、大和通信の要であったのかと思います。「第十二分隊」(昭和十八年以降の組織)に所属されておられます。
「暗号室」と「通信室」は部屋が独自の区画で区切られ、また、大和と司令部との違いはありますが、そこは、広いとはいえ、近い部署。
もしかしたら、祖父とお会いしている。
考えられなくはございません。
ご連絡ありがとうございます。
上記、野津様からのコメントにもございますように、昨日「辺見じゅん」氏が、お亡くなりなられるという新聞記事を拝読いたしました。
「辺見」氏は、大和沈没地点探査、並びに「大和引き揚げ」にご尽力されておられました。
大和引き揚げにつきましては、多くの問題を引き起こしており、この件につきましては「くだまき」で語る用意はございませんが、これは、大和会、遺族会でも話題になったのは当然至極のことでございました。
当時の「戦艦大和会会長」でいらっしゃいました「石田恒夫」さん(元第二艦隊副官)は、「戦艦大和探索会実行委員長」でもございました。
その探索会に必要な募金を、遺族宛書簡にてお知らせいたしております。
当然、父のところへもまいりました。
ご紹介いたします。
拝啓 時々益々ご清祥大慶至極に存じます。
さて、去日昭和五十五年八月十五日NHK特集「戦艦大和探索 悲劇の航跡を追って」を放映以来、引き続き第二次探索航海の実施、それにひきつづき、戦艦大和探索会の色々にと努力をつづけてまいりましたが、暫らく、大和沈没の日に、別紙第一のとおり探索会代表世話人、永末英一先生、有馬元治先生から発起人の国会議員各位のご承諾を得て頂き、募金活動を開始することになりました、就きましては、何卒、私共の念願成就に対しまして、一層のご協力を賜りたく、下記応募者のご質問にお答え頂くための諸参考事項として保記致し、茲に謹んでご協力方伏して差し上げます。敬具
父宛書簡を抜粋いたしました。
石田恒夫さんは、この活動に奔走された晩年でございました。
父も、募金をし、領収書と共に一通の葉書が届きました。
この活動には一生懸命取り組みました「石田元2F副官」ですが、週刊誌の記事にはこう記載されております。
記事掲載日不明。大和会「かわら版」昭和60年12月号 付録新聞記事コピーより抜粋。「THIS WEEK」より
「戦艦大和の引き上げにロマンを感じてやってるんです」
このたび設立された「海の墓標委員会」の事務局長になった角川春樹サンは、こうきっぱりと語った。
(中略)
ならば、と、戦艦大和会(大阪)の石田恒夫会長に訊くと、
「英霊は鎮めたままにして欲しいね。何をいまさら、です」
ロマンも結構だが、遺族たちの心情をどうする。角川サン?
親父に尋ねたことがございます。
「大和引き揚げなんだけんどっしゃ?」
「だれ、引き揚げられるわけねぇべさ!おめぇ、よく考えろよ。タイタニックよりでけぇんだど。無理に決まってっちゃ。んだども、貴重な資料は何点か採れたら、これは歴史の証言になるんだべ。やったらいいんでねぇか」
父は前向きでございました。
我が家には、それらの新聞記事の切り抜きが残されており(大和会会報も含めて)、父がこの活動を注視していた証拠でもあるのです。
ですが、石田恒夫さんは、最後にこう申しておられます。
「鎮魂 戦艦大和」と題しました遺族へ宛てた書簡でございます。
抜粋してご紹介いたします。
(前部略)
吉田満氏の「戦艦大和の最後」にも徳之島西方20浬とあるが、どうしても納得できなかった、こうしたことが戦艦大和探索の動機となり、昭和55年、56年そして3回目57年5月25、6、7の3日間で戦艦大和の海底の姿を把えて発表し、NHK特集も放映されたが大和らしき物体という表現であったので、これをはっきり大和と表現したくその念にかられて発足したのが「海の墓標委員会」であると私は推定していた、辺見じゅん委員長のこの委員会の顧問に就任の依頼があったが私は固辞した。というのは、私の第3回探索のNHK特集放映で遺族の多くから「帝国海軍の象徴とは言え大和ばかりでは他の艦船の水漬く屍となられた方々に申し訳ない」と聞いていた。また、旧海軍の方々からも「海軍に身を投じたときから水漬く屍を覚悟していた」等々かなり墓標委員会に対する反対の声は強く響いてきた。しかし、英霊の鎮魂の問題を他人まかせでは大和会として申し訳ないということで、鎮魂委員長として7月29日から8月4日まで東支那海へ墓標の言葉を借りると私は墓参ができた。角川事務局長の「報道の過熱を望まない、鎮魂第一である」という出港時の宣言通り「鎮魂第一」の海底の戦艦大和確認の大任を果たされたことに対して私は戦艦大和会を代表して深厚なる感謝を表し、「エンペラーズ・シンボル」「ジィス イズ ヤマト」と絶叫した英国のオールドネイビーのジュリー艦長やシレット整備員にも心から感謝する。
昭和60年8月15日 石田恒夫
「角川は大和で食べていこうとしている」
こう申されるご遺族もおられますことは酔漢も承知いたしております。
「男たちの大和」出版をはじめ、後に、これは「映画化」されております。
映画を石田さんがご覧になられたら(ご自身も出演⇒役者さんですが)どのような「かわら版」を遺族に送ってくださいましたでしょうか。
おそらく、自筆のはがきを認めこう結んでおられることと推察いたします。
「是非、ご覧ください」と。
実際、大和会からは、「男たちの大和」の案内が届いております。
散り果てし 華一ひらと おもえども
拾うすべなき 洋(うみ)のただ中
上記、句は、故前田利裕上曹の尊父前田熊太郎様がお読みになられたものです。
また、宮城県栗原市在住の木田ちどり様のお話された事も石田さんはお書きになられておられました。
遺族として、祖父が、父が、兄が、弟が、叔父が・・・・一体どのような顛末を迎えたのか。
これは、知りたい。
酔漢自身もそうした思いで「くだまき」にいたしました。
遺族それぞれ、思いは違う部分は多々ございます。
ですが、そうした思いは共有していてよかろう。
斯様に考えております。
数々の思いをどのように受け止めておられたのか、辺見じゅん氏にはもう少し、ご自身を語って頂きたかった。
その思いも叶わない事となりました。
野津様よりコメントを頂戴した昨日。
そして今日、父が存命ならば、七十九歳の誕生日を迎えているところでした。
「大和を語る」九十九話となりました。
早速、ありがとうございます。書き損ねましたが確かに実叔父以下私、島根県在住です(なお、HPのアドレスのスペルを一部間違えておりました。訂正いたしましたのでよろしければ私の現住所が載っております、ご確認ください)。また、近年移設しましたが以前の墓誌には「享年二十八才 兵曹長」と記されておりました。
本日叔母方を訪問したところ、かねてより依頼していた写真はありませんでしたが、手紙を3通見せてくれました。その手紙の差出署名より、叔父の所属が「紀伊防衛隊十五分隊」であったことと、手紙に「信号長が~」との記載が有ったことから、叔父が正確には信号手であった(かねてよりの父の話+叔母の証言とも合致)ことも判明いたしました。また、真偽はともかく戦闘開始ほどなく爆死ということが一族間では伝わっております。
他には今日、
・叔父は志願ではなく一般徴兵であった(海軍には『行かされた』)
・徴兵は昭和11年
・昭和二十年の戦死まで予備役になること無く、現役であった
ことがはっきりいたしました。
前述の手紙のうち、後期と思われます2通については文面より昭和15~16年頃と思われます。最後の手紙にははっきりと「生きて帰れるとは思っていない」と書いてありました。太平洋戦争前夜の緊迫があったということでしょうか・・・
10年にわたり現役であったというのは何かの事情、術科学校に行ったことも考えられますが、今生きている者で事情を知っている者は居りません。このあたりも知識が乏しく、更なる調査が必要と思っております。何分、事が事だけに最後まで叔父が兄弟に語った言葉も少なく、困難なことも多いですが、当面大和の搭乗時期を目標に、実叔父が生きた痕跡のトレースを続けたいと思います。
※これだけの期間軍隊に居れば、仲間と一緒の写真の1枚ぐらいは残っていてもいいと思いますが、実叔父は写真を実家に郵送するということをしませんでした。最後の手紙の前、私の祖父が呉に面会に行ってトランクを託されるのですが、呉の駅で盗まれてしまいました。最後の手紙でそれに触れ中身を残念がっていまして、しかし理由についてはお前(叔母)たちは知らなくていい、と書いてありまして。写真が沢山入っていたのではないかということです。そしてただ1枚の写真は近年、実家(私の本家筋です)改築の際に従兄弟に捨ててしまわれました。
IT社会といいますか、ネットがあったからこそ繋がった絆ですね 。
昔だったら、マスコミしか手段がありませんでしたからね 。
もっと、ネットワークが広まればいいのですが、それもまた時間と共に難しくなって行くのでしょうね。
メールいたしました通りでございます。
ここで、補足いたしますれば、一般徴兵で海軍へ入ったとされておられますが、一般徴兵で信号など技術を習得するというのは、並大抵の努力ではなかったと考えます。しかも、士官でいらっしゃる。
ここあたり、(術科習得)に叔父様の手がかりがあるやもしれません。
「良きにつけ、悪しきにつけ、今の時代ネットが先に来る・・」
ですから、くだまきにて、知りうる名簿を掲載いたしました。
当初は「戦没者名簿全て」を掲載しようと思いましたが、これは無理でした。
ですが、父が慰霊祭等で御縁のあった方々は全て掲載いたしました。
こうした、縁がもてるのも、ITのおかげかもしれません。そして、その恩恵を自身が一番受けているのかもしれません。
他の方もおっしゃっていますが本当にネットのご縁のお陰で、うっすらとながら叔父の足跡の一部が見えてきたような気がいたします。
その後、『紀伊防備隊』は昭和12年に呉鎮守府が新設した部隊であること、叔父の最後の手紙は昭和16年4月25日付、大和は当時艤装工事中であったことがわかりました。最後の手紙の覚悟は近い将来前線へ投入されるにあたってのものと推察出来、艦名は明かされずとも軍艦乗組みは指定されたのではないかと思います。
仰せの通り『術科』にヒントがありそうですので、重点的に調べてみます。
関連して、どなたかもしご存知であれば教えていただきたいのですが、昭和15年8月8日の進水式以降、大和の乗組員はどの段階から乗船したのでしょうか。やはり昭和16年12月16日の引渡・軍旗掲揚の連合艦隊編入時でしょうか。引き渡しまでに艤装工事と並行して公試運転と主砲試射を行なっていますので、機関員と通信関係の乗組員は最初期から乗っている可能性があると思いますがいかがでしょうか。
詳細はこちらをご覧くださいませ。
信号員であれば「航海科」をお出になられていると推察いたします。
航海は信号を含めて「11分隊」に所属しております。
おっしゃる通り、その可能性はありますね。
私も公試時の乗組員がどう召集されいたのか、知りません。
その事を含めまして、調べてみようと思います。
お陰さまで叔父の辿ったと思われる大体の進路、当時の水兵の取り組みといったようなものが見えて参りました。しばらくこの線を追ってみようと思っています。
大和就航時の乗組員の経緯を中心に調べております。