4月26日、花のじゅうたんを散策したときの続きです。
時計と反対まわりに1周してきました。
一番上のほうから眺めるとよりきれいに見えました。この付近のベンチに座って芝桜を眺めながら作って来たお弁当をいただきました。
お猿さんの曲芸の準備をされていました。
出口のところでチューリップ
約1時間くらい散策してきました。
4月26日、花のじゅうたんを散策したときの続きです。
時計と反対まわりに1周してきました。
一番上のほうから眺めるとよりきれいに見えました。この付近のベンチに座って芝桜を眺めながら作って来たお弁当をいただきました。
お猿さんの曲芸の準備をされていました。
出口のところでチューリップ
約1時間くらい散策してきました。
4月25日、フェスティバルホールで開催された中島みゆきコンサート「歌会 VOL.1」に行ってきました。中島みゆきさんのコンサートはだいぶん昔若かりし頃に一度だけ大阪城ホールに見に行ったことがあったのでそれ以来でしたので何十年ぶりかのコンサートでした。午後6時半から約2時間半くらい中島みゆきさんの生歌をじっくりと聴いてきました。
セトリ
聴いたことがあった曲は「はじめまして」、「店の名はライフ」、「地上の星」は知ってたけれど、他の曲はあまり聴いたことがありませんでした。その中でもインパクトがあったのが「百九番目の除夜の鐘」でした。またアニソンに初めて楽曲を提供された「心音」の何度も歌われていた歌詞「未来へ」という言葉が心に響きました。2020年にフェスティバルホールでコンサートをされていた途中でコロナ禍になり、それ以来、コンサートをされていなかったと言われていた中島みゆきさんのMCや生歌に耳を傾けながら中島みゆきさんの迫力ある歌声に少し元気をもらえた気がします。終始、眼鏡を掛けたまま歌われていました。何が起こるかわからないのでこの一瞬を大切にされたいとも言われており、病院関連の歌を3曲歌われたり、なんとなく切なく感じてしまった一瞬もありましたが、いろいろな歌を聴くことができて来てよかったと思いました。
席は2階でした。一番前だったので舞台がよく見えました。
中島みゆきさんの歌を聴くといつもすべての人を受け入れてみんなに優しい言葉を惜しみなく注いでおられるということに気が付きます。落ち込んでどうしようもないときにも次のステップに行けるよと優しく寄り添ってくれるかのような歌詞が多く、今回も生歌を何曲か聴くことでなんとなく次のステップに行けそうな後押しをしてくれていたかのような気になったから不思議でした。歌はいいですね。歌はいろいろな思いを届けてくれましたね。
コンサートで聴いてきた曲から2曲の動画を貼り付けました。
銀の龍の背に乗って
中島みゆき「心音(しんおん)」Music Video(フルver.)【公式】
朝早くから亡き父の関連の数日後に提出する書類を書きました。父がこの世にいなくなってからもうすぐ1か月が経ちますが、日が経つに連れて寂しさが増してくるのでしょうか。今はまだやらないといけないことが多過ぎてその手続きなどに翻弄されていますが、時が経つに連れてじわじわ実感してくるのかもわかりませんね。母が亡くなったときに免疫ができたので父が亡くなったときはその免疫のお陰で少し楽に乗り越えることができたかもしれません。春に咲く桜やチューリップなどの花々を今年もたくさん訪れてみました。各地で写真を撮ってきてもこんなところに行ってきたんだよと写真を見せたり話をしていたことができなくなったことや一緒に出掛けた場所に一人で再訪問するとふとした瞬間にいろいろなことを思い出しました。その度に切なくなったり寂しさで圧倒される瞬間がやはり少しありました。それとどこかに出掛けてもお土産を買うことも買う元気が消え伏せたことが寂しいです。
あっけなく逝ってしまった父ですが、近所のスーパーをはしごして帰るのが少し遅くなるといつも私の携帯に電話してきていました。父からの最後の電話は3月11日で途絶えました。この履歴を消すことがまだできていません。父からもう掛かってくることがないと思うと入院してしまった前の1週間の履歴は父が生きていた証でもあるからでした。しかし、いつまでも残しておくわけはいかないものあり、少しずつ片付けをしています。母と父の衣服や父と母が一番大切にしていたと思われる旅行に行ったときのパンフレットやちらしやいつも私が作成して渡していた手書きの旅行の日程表など、引き出しや箪笥などにまだ残っていたものを少しずつ捨てていくために整理を続けています。
買い物から帰ってきたときに父が「たくさん買ってきてくれたんだね。重たかったやろ。」と2階から1階まで降りてきて買ってきた食材をいつも持って上がってくれたことや何気なく父が話してくれていた言葉の数々をふとした瞬間に思い出すときがあります。一言一言が優しい言葉だったのを父がいなくなってから気が付きました。
3月末に父が入院していた病室に面会に行ったときに寝入っていた父がふと目を開けて「○〇子、来てくれたんだね。」とニコッと満面な笑顔で迎えてくれたのが私に向かって父が投げ掛けてくれた最期の言葉になりました。この言葉が最後でよかったと思いました。
父は母のお通夜のときに棺桶の中の母に向かって「よくやってくれたな。」と声掛けしていたのを見ました。もし母が亡き父に声掛けするなら「よく頑張ったね。」ときっと言うのだろうと思ったので母の代わりに亡き父に声掛けしました。母のときと同じように、どこかに旅に行くときの装いとリュック、ポーチ、帽子、眼鏡などを見に着けて旅立って行った父の人生は幸せだったと信じたいと思います。母もおなじようにそうだったと信じたいです。
父も母も亡くなるときに立ち会えませんでした。けれど、それまでに多くの言葉を私に投げ掛けてくれていました。その言葉や大切な思いや行動が自分自身をいつもこれからも支えてくれているかと思います。もう言葉を掛けてくれることはないのですが、その言葉を時々思い出しながら暮らして行きたいですね。
幸せな人生が何かということは、それは人に寄って違うのだろうけれど、父と母はきっと幸せな人生を送れたのではないのだろうかと私は信じ続けたいです。それが自分にとっての幸せでもあると思います。いつか自分自身の命が枯れる日までそのことも信じ続けて毎日を暮らして行こうと思います。