〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

62年という時間

2007-08-17 | Weblog
私たち日本人にとって大切な慰霊の時期が来ました。

この時期ふつうにいわれる「終戦」という言葉からは、まるであたかも台風か何かの、自然災害が終了したかのような受動的・他動的な印象を受けないでしょうか。

これが作為的な言い換えなのかは知りません。
が、こう表現することで慰霊ということに関わる重要なことがぼやかされてしまっているのではないかと思われます。
「あれはしょうがなかったことだよ」「もう終わったことだし」「カンケーないじゃん」という感じに…。

そうではなく、私たちが過去を直視するつもりなのなら、やはりこのことは正確に「敗戦」と表現しなければならないのでないでしょうか。
微妙な言葉の違いですが、しかし言葉によって私たち人間は事実を認識しているのですから、実はそれはとても重要な違いなのではないかと思います。
そうして、何か大切なことがずっとあいまいにされ続けてきたと思うのです。

話を私たちの民族の、とくに内面的なことに限定すれば、あの決定的な敗戦による、封建的な抑圧からの解放と反面の歴史的つながりからの断絶、そしてその後の長期占領によって私たちが自由と民主主義が与えられたことと、同時に精神的に「骨抜き」にされたのかもしれないこと……

歴史的評価は視点によりさまざまにありうると思いますが、しかしそれが現在の私たちの出発点になっているということだけは間違いないと感じられます。

さて、これで敗戦から62年がたったわけです。

私たち同世代のほとんどにとって、それはなんだか関係のない他人の、モノトーンの暗い時代の、理解不能な異文化のお話でもあるかのように、断絶の彼方にあるとても遠い過去だと感じられていると思います。

一面の焼け野原と黒焦げの死体の山だとか、昭和天皇の甲高く気抜けしたようなラジオの声だとか、瓦礫のなかの闇市の雑踏だとか、明るいといわれながら妙に哀愁を帯びた「赤いリンゴに…」の歌だとか、米軍のジープに群がるこ汚い子どもの群れだとか、そういったメディアから取り入れたイメージが漠然と思い浮かびます。

きわめて貧しかった敗戦前後のあの時代、祖父母の世代の辛酸をなめる苦労はつとに聞いてきたものの、現在の生活からはどうにも実感が持てません。
たとえば私は川崎市に住んでいて、ここもまたそのように爆撃により一面焦土となったはずのところです。
…が、モノに溢れた日常の風景からは、それはにわかに信じがたいものがあります。

要するに私たちの世代にとって、あの時代は貧しく苦しかった遠い昔のお話になっていると言っていいと思います。
で、私たちはそうじゃなくてヨカッタネ、と。

…が、実のところ、果たしてそうなのでしょうか。それで済ませておいていいものなのでしょうか。

今年はいまだ謎の多い悲惨な日航123便墜落から22年になりますが、たとえばあの事故は私たちの少年時代に強烈な印象を残していて、ずいぶん最近のことのように感じられます。

敗戦は遠い過去のようですが、現実の62年とはたかだかその3倍以下の期間にすぎません。

また私はこの10月で33歳になります。ということは、気づいてみればすでに日本の戦後の半分以上をしっかり生きてきたことになるのでした。
そしてそれはずいぶん短いものだと感じられます。

つまりいいたいことは、62年前の敗戦とは、私たち日本人にとって実際の時間以上にずっと長く遠く感じられているのではないか、ということです。

純粋客観的な時間というものがあるのかどうか、そういう哲学的な議論はよくわかりませんのでさておき、しかし時間を感じるのはいうまでもなく私たちの心、私たちの内面であるには違いありません。
年をとるほど時間が過ぎる速さが加速度的になっているのを、皆さんも実感されていると思います。

つまり私たちが感じる時間的な「遠さ」とは、心理的な遠さにほかなりません。過去との断絶があるのなら、それは私たちの内なる断絶であるはずです。

この慰霊の時期、よく言われることは「犠牲者を弔う」とか「英霊に祈る」とかというような、きれいな言葉です。

が、近代主義‐物質科学主義が骨の髄までしみこんだ私たちにとって、それはどこまでリアリティをもって感じられているでしょうか?
それはそう言わなきゃ建前上まずいとか感情的に抵抗があるというに過ぎないのであって、はっきりいってリアリティはない=ウソであると、私たち(とくに若いほど)は思い・感じていないでしょうか? 

彼らはみな死んで亡くなって=無くなってしまったのだから、それを慰めることなどできるのか? そもそもいったいそれに何の意味があるのか?

そんな戦後のバラバラ個人主義が身について気づきにくくなっているだけで、慰霊とは実際ご先祖様とつながった私たちにとって、心の深いところで意味を持つ大切な行為なのだと思います。

しかし残念ながらそう感じることがますます難しくなっているのがこの社会の現状です。

つまり、この騒々しく軽々しい常識的な雰囲気のなかで、価値観的な前提なしにいきなり慰霊などと言うから、まるでこの時期小学校のときに先生に書かされた作文みたいに、きれいごとくさくうそくさく聞こえるのではないか、と。

そこで、まずアタマの先でのことではありますが、事実私たちに直接つながる歴史を知ることが、心の深いところで行なわれるべきご先祖様への慰霊の第一歩になるのではないかと思うのです。

とりわけ複雑な事情により認識が千々に乱れ、私たちにとって知ること=つながることがとても難しくなっているあの時代の歴史を解きほぐし、捉えなおし、受容することは、戦争で亡くなった方々を本質的な意味で弔うために不可欠な前提となる、重要な第一歩だと思われます。

しかし言うはやすしで実行は難しい。
それは私たちにとってどのように可能になるのでしょうか?



さて、そういう意図で、特攻隊関係のことを連載するつもりで書こうと構想していたのですが、どうにも筆が進まなくなりました。

まず安易なことはいえないということがあります。

このテーマに関わる事実関係は複雑に錯綜しており、結論を出すには知識の積み重ねと、大枠としての当時の歴史の全体像を踏まえていければなりません。
そうでないと結局テーマに仮託して「言いたいことを言っている」に過ぎないということになりかねません。
そして自分もまさにそうしているような気がしてきたのです。

また「特攻」についてはテーマがテーマだけに、日本人自身の書いた資料は賛美や批判に流れたものがほとんどで、冷静・客観的に全体像を把握できるものが少ないように感じられました。
といって米国の資料も、私の語学力の問題から当たることは難しいですし、また機密からいまだ明らかにされていない部分も多いようです。

そもそもだれがこの作戦を始めたのか、特攻隊員は果たして志願したのか強制されたのか、全体の出撃数はどれだけで、そのうちどの程度が目標に辿りつき命中することができたのか、そして彼ら隊員の念頭に第一にあったはずの戦果=与えた損害はどれだけだったのか――こういった基本的な事実が、いまだに明確に解明されていないようなのです。
(そうでないということであれば、ぜひお教えいただきたいと思います)

さらに、このテーマは知ったように書くには重過ぎます。
右翼的・独善的な、そういう意味で危険な感情に結びつきかねないところがあるし、何より死に直面した若い純真な彼らの真剣な行動を、そんな安っぽい感情から軽々しくブログで知ったように書くのは慎む必要があるように思われます。

そこで、以降は要点だけ、いちおうこういう捉え直し方も可能なのではないかという提案として、書こうと思っていたことのアウトラインを短くまとめようと思います。




2 コメント

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Unknown (mitani)
2007-08-25 04:17:50
ご返事が遅れてしまいましたが、S様にはコメントどうもありがとうございます! いつも残業お疲れさまです。

62年前の夏も暑かったでしょうが、しかし今年のはなんだか異常ですね。温暖化、おっかないです。
あ、8月24日といえば昨日ではないですか。見忘れてしまいました。古いほうは以前見た記憶があります。
現代的にどう変わったのか、ぜひ教えてくださいね。

さて、お書きになっているビルマの作戦の司令官、ずいぶん劣悪な人物だったとのこと。なぜああいう人が戦後天寿をまっとうできたのか、たしかに日本人自身による敗戦処理は結局できなかったのだなと思わされます。

そして満州でも住民を差し置いて真っ先に逃げたのが軍隊であったというのは、気の重くなる事実です。

最近山本七平氏の「一下級士官の見た帝国陸軍」という本を読んだのですが、極限の戦地で彼が体験した陸軍の組織とは、とにかくひどいものです。よくある軍隊への幻想など吹っ飛んでしまうこと請け合いです。

そしてそういう組織悪とは、たぶんわが社をはじめいまだ日本中いたるところに現にあるのではないかと。実に重い…

さて、「父親たちの星条旗」見ました! やはりイーストウッドはすごいですね。
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8月15日 (元・つけ屋)
2007-08-19 23:39:36
こんばんは、三谷様(^-^)

今月も倒れる寸前まで、働きますよ!

今年の8月15日も暑かった。
62年前も晴れて、暑かったと聞く。

8月24日に日本テレビ系で、BC級戦犯を題材にしたドラマ「私は貝になりたい」が放映されるらしい。
昭和33年に放映され、フランキー堺氏が主演したドラマとは、内容も結末も違うそうだ。

多くのBC級戦犯が絞首刑となった日本の敗戦処理は、正義とは言い難いと思っている。

ジャングルを補給もなく進軍させられ、3人の師団長が独断で退却、又は戦意不足にて罷免、免官、更迭されたビルマ戦線インパール作戦では、その無謀な作戦を発案した軍司令官は、作戦が失敗すると予備役となる。幾万もの自国将兵を餓死、病死させても戦犯にはならないようだ。

満州開拓団の引揚では、ソ連兵、満人らの暴行、略奪、引揚船集合場所への3ヶ月にもおよぶ徒歩移動中の病気、飢餓により多くの日本人が命を落とした。
徒歩移動に耐えられない乳幼児らは、満州に取り残され、現在では残留日本人孤児となった。

上記のような戦争被害者が訴訟を起こしても、司法は国家としては対策処理済との判断が下るのではないだろうか。

終戦と言う安堵感、忘れたいと言う心理、急激な経済発展が戦後処理を曖昧なまま、内地にいて生き残った政治家が無理やり締めくくってしまった為に。

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