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書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著) 1

2017-08-17 | 書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著)
(以下、サングラハ教育・心理研究所会報『サングラハ』148~150号より転載)

はじめに

 本書は経済史・歴史人口学を専門とする歴史学者の、江戸時代の経済社会的な達成を主題に学術的な研究成果を俯瞰した緻密な著作であり、戦後長く主流を占めた史観から自由になった歴史学の到達水準を示しているものと思われる(初版刊行は二〇〇二年)。ここには初期的な近代化というべき市場経済化と経済発展を通じて、農業社会という条件のもとで可能な限りの豊かな社会を実現し、同時にエコロジカルな均衡をも達成していた「持続可能な緑の文明」の姿が、客観的な根拠をもって描き出されている。注目すべきは、本書にはそれまで江戸時代を語る際常に付き物であった「飢え虐げられる民衆」が登場しないことである。それどころか、そうしたドグマチックな貧農史観を実際上完全に過去のものとしていると言っても過言ではない。
 前号までに紹介した渡辺京二氏の著作は、幕末・明治初期に来日した外国人の体験記録を材料にして、内面的・共感的理解によって旧文明の実像に文化人類学的にアプローチしていた。一方本書は、膨大な史料と研究成果をもとに、客観的・数量的な証拠を積み上げるという全く別の手法によって、同じ文明の経済社会という側面を詳細に明らかにしている。そうして、異邦人が文化的ショックを禁じ得なかった旧文明について、「江戸システム」という高度に成熟した一個の文明として捉え直そうと試みているのである。四象限の枠組みで言えば、社会システムである右下象限に焦点を当て、旧文明の実像を精緻に彫り出したのが本書だと言えよう。以下、各章の構成に沿って、まずその描き出された文明の実像を見ていきたい。


日本文明史における近世

 本書は冒頭で、渡辺京二氏の『逝きし世の面影』における文明の定義を概括した一文(本号三〇頁、高世仁氏の記事を参照)を、いわば本書のテーマの核心に関わるものとして象徴的に引用し、そこから文明を「歴史的個性としての生活総体のありよう」であると規定している。
 そしてその観点から、近世の日本社会を「江戸システム」として把握し直し、それは独自の高度な発展を遂げた一つの文明システムであったと、まず結論を提示する。「・・・現代社会や当時の西欧社会に比べると、むしろ進んでいるとさえいえる資源、エネルギーの循環体系が存在し、サステイナブルな社会を実現した。そこに出現したのは、貧窮した農民社会という従来の史観ではとらえられない、意外に豊かな社会の姿である。そこには、合理的な態度によって出生をコントロールすることで、『少子化』を実現し、豊かさの維持を図るといった側面も見られた」(一五頁、傍点評者)。そして以降各章を通じてその結論に至る根拠を詳細に提示しており、読後に強い説得力を感じさせるのである。
 江戸時代はそれに先立つ時代とセットで「近世」と呼ばれてきたが、これは西洋の歴史叙述にはない区分であり、従来歴史学でこの時期が中世でも近代でもない過渡期として捉えられてきたことを表しているという。そしてこの点について「近世」の英語訳が「近代前期」ないし「工業化以前の近代」に他ならないとあえて強調して説明していることに、江戸時代を「工業化以前の近代」と捉え直す試みが本書の実際上のテーマであることが端的に見て取れる。
 またさらに進んで、「近世・近代」「江戸時代」といった旧来の時代区分は、文明システムの展開として歴史を見たときに不適切であるとして、日本の歴史を経済様式やエネルギー源、人口の長期波動といった指標に即して、「縄文システム」から「工業化システム」までの四つの文明システムの展開と捉え直すことを提案している。その中で、概ね十五世紀前後に始まった「経済社会化システム」の最終的な発展形態として結実したのが江戸時代中後期の文明=「江戸システム」であり、「市場経済のもとで生物的エネルギー資源に依存する高度な土地利用をおこなった『高度有機エネルギー経済』のみごとなまでに展開した例」(三四頁)であると、これを積極的に評価する。このように、日本の歴史全体を創発し進化する文明システムの展開の流れと見て、その一つの到達点として、新しい江戸時代像を具体的な根拠をもって提示しているのである。本書と同様に本稿でも便宜上この時代を「江戸時代」と呼ぶが、今後は旧来の貧農史観のイメージを色濃く負った言葉に代えて、文明としての実態に即した何らかの用語により呼び直されてしかるべきだと思われる。

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