世界価値観調査(World Values Survey)について、主題に即して若干表題を変えてみた。
本日は前回の「神を信じるか」と世界観という意味で対になる、「地獄を信じるか」である。
天国と地獄への問いとは、価値観の背後にある、というよりも価値観そのものである内なるコスモロジーをあぶり出す、価値観調査の最も本質的でコアな質問項目といえる。
伝統的コスモロジーには、洋の東西を問わず「地獄」が存在するようだ(あくまで素人として知る限りだが)。
光があれば影があるのと同じように、価値の最も上には天上の光の世界があれば、最も下には地下の暗闇の世界があるのはごく自然である。価値体系とは良い/悪い・上/下のヒエラルキーなのだから。
しかし「神」の場合には、地域ごと・宗教ごとにその表れは実にさまざまである。同じ質問項目である「神を信じるか」という言葉に対して、例えば「父なる神」を信じている世界の人々と、「仏」や「八百万の神」を信じている世界の人々とでは、受け取り方は相当に異なるはずだ。
一方「地獄」については、表面上の違いはともあれ、「悪いことをして死後に落ちる、暗い地下世界」といった基本的構造は、不思議なほどどの文化でも似かよっているように見える(もちろんこれも狭い知識の範囲での判断でしかない。そうでない事例があればご教示願いたい)。
国宝『地獄草子』より
ヒエロニムス・ボス「悦楽の園」
このブログで取り上げているコスモロジーの心理学では、過去の日本人の真面目さを支えていたのは神仏儒習合のコスモロジーであると見ているが、きわめて妥当だと見える。
世界観・コスモロジーなどというと難しいようだが、簡単に言えば先祖たちは「自分の行いはご先祖さま・仏さま・神さま・お天道さまが見ている」ことを信じていたのだと思う。そしてそれはと同時に、「悪いことをしたら地獄に落ちる」ということでもあった。
これは何かアタマの上の観念論ではなく、実際にコスモロジー心理学を創始した岡野守也先生が、多くの高年齢の方々から聞き取って確かめたことでもあるという。当然のようだが、日本には西欧とは別種の、はっきりしたコスモロジーが存在したのだ。
たしかにそういわれてみると、私の狭い経験の範囲でも、明治生まれの祖父母たちははっきりと「神・仏・天」や「地獄」を信じていたことを思い出す。
改めて重要なことは、こうしたコスモロジーの中に生きていた過去の人々は、それを相対化するような近代以降の科学的コスモロジーを知らなかったということである。
つまり、コスモロジーとは主体的に対象化した価値体系を信じる・信じないなどといった問題ではなく、生来の絶対的な価値観だったのだ。
彼らにとって「地獄」もまた選択の余地なく、否応ない迫真のリアリティをもっていた。「死んだら終わり」と思い込んでいる私たちにとっては死後があればオーケーじゃないかと思うが、そういうものではない。死後に永遠の「地獄」が定められてしまうというのは、どうしようもない恐怖だったことだろう。
地獄に落ちたくなければ、今生は真面目に生きざるを得ない。過去の歴史上の人物には、おそらく全てそうした束縛があったはずだ。「束縛」といえばネガティブなようだが、言い換えればそれは彼ら先祖たちの心の中にあった「骨」でもある。
もちろん、これは過去の歴史に倫理からの逸脱というものが存在しなかったなどという単純な話ではない。いうまでもなく、歴史は悪にまみれている。
確かにいつの時代にも逸脱は存在した。しかしそれはあくまで「原則」があっての「逸脱」であった。
伝統世界ではいかなる悪人でも、というよりも悪人であればあるほど、倫理上の罪の意識から自由でありえないということである。「いわんや悪人をや」という言葉は、当時の人々にとって現代の私たちが平坦に受け取るのとは全く違う迫力があったはずだ。
そうした近代以前の倫理的逸脱=悪とは、一見同じ「悪」という言葉で語られながら、現代に特有の倫理的束縛の希薄さ・断絶からくる「脱倫理的な悪」とは遠く離れた位置にある。
現代の私たちがどっぷりはまって絶対化している近代主義的コスモロジーでは、要するにモノとシステムだけが存在し、人の心は脳が見せる幻影にすぎないことになっている。そこには神もなければ地獄もない。つまり絶対的な価値のヒエラルキーは存在しないのである。
現在の歴史の叙述は、歴史学から歴史ドラマまですべてがそんな感じで、歴史上の人物たちに対し、近代人のような権力的・経済的な動因を、そうでなければせいぜいヒューマニズム的動因のみを、もっぱら読み込むようなものが主流となっている。
コスモロジーの観点から、そうした近代主義的価値観から歴史上の人物の動因を理解しようとする、現行主流の歴史の読み込み方には強い疑問を禁じ得ない。
戻れば、この「地獄を信じるか」という質問は、「神」の場合と同じく、近代化に伴う伝統的コスモロジー崩壊の様子の世界比較ができる重要な調査項目であると思う。
とりわけ「地獄」に対する観念が、表現上のバリエーションこそ違え、各宗教的伝統を通じて基本的に同じようなものなのだとすれば、「神」の場合よりも公平な尺度で、コスモロジーの崩壊という内的現象を国際的に比較できる可能性が高い。
前置きが長くなってしまった。国際比較データについては次回ご紹介したい。
本日は前回の「神を信じるか」と世界観という意味で対になる、「地獄を信じるか」である。
天国と地獄への問いとは、価値観の背後にある、というよりも価値観そのものである内なるコスモロジーをあぶり出す、価値観調査の最も本質的でコアな質問項目といえる。
伝統的コスモロジーには、洋の東西を問わず「地獄」が存在するようだ(あくまで素人として知る限りだが)。
光があれば影があるのと同じように、価値の最も上には天上の光の世界があれば、最も下には地下の暗闇の世界があるのはごく自然である。価値体系とは良い/悪い・上/下のヒエラルキーなのだから。
しかし「神」の場合には、地域ごと・宗教ごとにその表れは実にさまざまである。同じ質問項目である「神を信じるか」という言葉に対して、例えば「父なる神」を信じている世界の人々と、「仏」や「八百万の神」を信じている世界の人々とでは、受け取り方は相当に異なるはずだ。
一方「地獄」については、表面上の違いはともあれ、「悪いことをして死後に落ちる、暗い地下世界」といった基本的構造は、不思議なほどどの文化でも似かよっているように見える(もちろんこれも狭い知識の範囲での判断でしかない。そうでない事例があればご教示願いたい)。
国宝『地獄草子』より
ヒエロニムス・ボス「悦楽の園」
このブログで取り上げているコスモロジーの心理学では、過去の日本人の真面目さを支えていたのは神仏儒習合のコスモロジーであると見ているが、きわめて妥当だと見える。
世界観・コスモロジーなどというと難しいようだが、簡単に言えば先祖たちは「自分の行いはご先祖さま・仏さま・神さま・お天道さまが見ている」ことを信じていたのだと思う。そしてそれはと同時に、「悪いことをしたら地獄に落ちる」ということでもあった。
これは何かアタマの上の観念論ではなく、実際にコスモロジー心理学を創始した岡野守也先生が、多くの高年齢の方々から聞き取って確かめたことでもあるという。当然のようだが、日本には西欧とは別種の、はっきりしたコスモロジーが存在したのだ。
たしかにそういわれてみると、私の狭い経験の範囲でも、明治生まれの祖父母たちははっきりと「神・仏・天」や「地獄」を信じていたことを思い出す。
改めて重要なことは、こうしたコスモロジーの中に生きていた過去の人々は、それを相対化するような近代以降の科学的コスモロジーを知らなかったということである。
つまり、コスモロジーとは主体的に対象化した価値体系を信じる・信じないなどといった問題ではなく、生来の絶対的な価値観だったのだ。
彼らにとって「地獄」もまた選択の余地なく、否応ない迫真のリアリティをもっていた。「死んだら終わり」と思い込んでいる私たちにとっては死後があればオーケーじゃないかと思うが、そういうものではない。死後に永遠の「地獄」が定められてしまうというのは、どうしようもない恐怖だったことだろう。
地獄に落ちたくなければ、今生は真面目に生きざるを得ない。過去の歴史上の人物には、おそらく全てそうした束縛があったはずだ。「束縛」といえばネガティブなようだが、言い換えればそれは彼ら先祖たちの心の中にあった「骨」でもある。
もちろん、これは過去の歴史に倫理からの逸脱というものが存在しなかったなどという単純な話ではない。いうまでもなく、歴史は悪にまみれている。
確かにいつの時代にも逸脱は存在した。しかしそれはあくまで「原則」があっての「逸脱」であった。
伝統世界ではいかなる悪人でも、というよりも悪人であればあるほど、倫理上の罪の意識から自由でありえないということである。「いわんや悪人をや」という言葉は、当時の人々にとって現代の私たちが平坦に受け取るのとは全く違う迫力があったはずだ。
そうした近代以前の倫理的逸脱=悪とは、一見同じ「悪」という言葉で語られながら、現代に特有の倫理的束縛の希薄さ・断絶からくる「脱倫理的な悪」とは遠く離れた位置にある。
現代の私たちがどっぷりはまって絶対化している近代主義的コスモロジーでは、要するにモノとシステムだけが存在し、人の心は脳が見せる幻影にすぎないことになっている。そこには神もなければ地獄もない。つまり絶対的な価値のヒエラルキーは存在しないのである。
現在の歴史の叙述は、歴史学から歴史ドラマまですべてがそんな感じで、歴史上の人物たちに対し、近代人のような権力的・経済的な動因を、そうでなければせいぜいヒューマニズム的動因のみを、もっぱら読み込むようなものが主流となっている。
コスモロジーの観点から、そうした近代主義的価値観から歴史上の人物の動因を理解しようとする、現行主流の歴史の読み込み方には強い疑問を禁じ得ない。
戻れば、この「地獄を信じるか」という質問は、「神」の場合と同じく、近代化に伴う伝統的コスモロジー崩壊の様子の世界比較ができる重要な調査項目であると思う。
とりわけ「地獄」に対する観念が、表現上のバリエーションこそ違え、各宗教的伝統を通じて基本的に同じようなものなのだとすれば、「神」の場合よりも公平な尺度で、コスモロジーの崩壊という内的現象を国際的に比較できる可能性が高い。
前置きが長くなってしまった。国際比較データについては次回ご紹介したい。
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