〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

反・ロストジェネレーション論8

2007-02-10 | ロストジェネレーション論
【「ロストジェネレーション」の名づけ親・新年の朝日新聞記事を題材に書き進めるつもりが長くなりそうで、加えて朝日連載からずいぶん時間が経ちいわば「旬」を逸してしまっているので、同記事批判は断念することにしました。以下、今後載せようと思っていたものですが、それにしてもわれながら他人を批判するのは大好きなようで、もちっと心の広いヒトになりたいものだと思いました。同世代論は時間があれば書き進めたいのですが、その前にいろんな意味で勉強不足だなと。出直して参りたいと思います。同世代諸君、がんばりましょう!】


さらに、それら一連のエピソードでとりわけ重点が置かれているのが、競争社会の入り口にすら立てない「負け組」の惨状であることに注目する必要があると思う。
上記のように連載の半分までが「負け」テーマであることからたぶんそのことは明らかだと思うが、いかがだろうか?

とりあえずここでは、記事中いわば同世代の「望ましい人間像」とされている、「勝ち組」「脱組」はどうでもいい。ほうっておいても目先、彼らはよろしくやっていくだろう。それが世間に迷惑をかけない範囲で、であることを願うだけだ。

それでも、中長期で人生を捉えたなら、そういう生き方はいずれ赤信号に突き当たらざるを得ないように思う。
何より、個人的にいくらカネを稼ごうが「自己実現」しようが、一人残らず(そういう価値基準でいえば)見苦しく年をとり、最後は死んでしまうのがこの人生なのだから。

しかも皆がそんなライフスタイルを目指していた日には、家族から企業から行政そして国家までの各レベルの社会集団・組織がすぐに維持できなくなるのは、たぶん中学生にもシミュレート‐理解できることだと思う。
そしてそれは、ぼくらが不安感をもって現にこの日本社会の中で目にしつつあるとおりなのではないだろうか?

「負け組」に話を戻すと、文字どおり「人材」としてモノ扱いされる、荒涼たる「ロストジェネレーション・負け組」の人生の風景、ここではとりわけ就労環境には、読む限り相当厳しいものがあるといわざるを得ない。
それらは出口なしの泥沼といった形で描写されており、まさに夢も希望もあったものではない、といった印象を与える。

これこそ(ちょっと古いが)「終わりなき日常」「意味もクソもない」というミもフタもないセリフが、迫真のリアリティをもって感じられる人生の現場だろう。
記事の描写は、この社会でいったん「負け組」に陥ったらあとは絶望のみ、と思わせるに足るものがある。
人間社会は恐ろしいむき出しの弱肉強食の掟に再び支配されたかのようだ。

さらに特徴的なことは、「自由に・個性的に・主体的に」生きる「勝ち組」「脱組」と対照的に、「負け組」は外面の厳しい環境や労働条件やストレスにただひたすら翻弄されるのみであると描写されていることである。
そして問題は、そこに希望も解決策もなんら用意されていないことだ。そうではないだろうか?

【ここで、なぜ「勝ち組」「負け組」が問題なのかを書く必要があると思うのですが、一口に書けずタイムアウトとなりました。一言でいえば「結局だれも幸せにならない」ということかと思います。それは長い目で見ていずれ社会を崩壊させ、われわれが目にしているように人類自体の生存を駄目にしていく経済社会の方向性だと思われます。】


そんなふうな、正月早々配られた新聞の第一面を堂々と飾った記事に、焦燥感ないし絶望感を煽られた「負け組」の同世代も多かったことだろうと思う。
「負け組」の墓穴を掘るだけ掘って、結局この特集がやりたかったことは何だったのか?
それが問題だ。

これら一連の記事は、一部が同世代の年齢入りの署名記事だったことに示されているように、われら「ロストジェネレーション」内部の人間がそれに共感し寄り添って書いている、というスタイルをとっているのは、読みとしても間違いないところと思われる。

問題は、あたかも「内部から」「同世代に寄り添って」という立場で書かれているように見えて、しかし前述の「勝ち‐負け/脱」の単純すぎる価値軸から少しも自由になっていないことにある。
それは次のように語っている。

「人生とどのつまり『勝ち組』になるのがもっとも良く=正しい。それができないなら奴隷労働下で生きているのか死んでいるのかわかならないような正社員の安定に生きるしかない。そこから落ちると非正規雇用=『負け組』の安い使い捨て人生に甘んじざるをえず、底辺には未来なき絶望そのものである、無職-ニートの底なし地獄が待っている。それが嫌なら、そんな絶望社会から離脱してまったりと『終わりなき日常』を生きよう――」



さて、そんなふうないつもどこかで見かける閉鎖系の単調なストーリーに、意図したものかどうかにかかわらず、一連の記事が最初から最後まで陥っているのは、記者たち自身が「勝ち組-負け組」の競争主義的な価値軸にとらわれているからこそであると読めるのであった。

以下は独断(もしかしたら偏見)としてお読みいただければと思う。

ここで注意すべきは、これを書いた人間がすべて「勝ち組」の側にいる、ということだと思われる。
それは「朝日新聞記者」という書き手の競争主義社会のヒエラルキーにおける立場はもちろんであるが、それを離れて、連載のテキストの解釈としてもそうだというほかにないと思うのだが、いかがだろうか?

むろんこの記事もまた、可能な限り観察対象を客観的に見つめるという、報道によくある姿勢をとっているにすぎない、とはいえるかもしれない。

問題意識を持って、主観のもたらす偏見を排除し、客観的な「眼」に徹して社会の事実を観察し、それをクールにあるがままに描写する。そこにこそ真実があるという信念――
しかし厳密には、そんな「客観的な社会的事実」なるものはどこにも存在しないのではなかったか。

人間の意識は突き詰めれば、そういう「問題意識」、つまり主観の枠から、現実の中に読み込めるものを読み取っているだけだ。
そういうふうに人はどこまでも、心の深くからとらわれている一定の価値観の枠組みに従って世界から何かを読み込み、その枠組みの中でしか“現実”を語ることのできない存在なのではなかっただろうか。
結局限界ある人間にできるのは、その枠組みを自覚し、広げ深めようと意志し努力することだと思う。

その内面の自覚と努力が残念ながら欠如しているためか、この記事は書き手たちの内に根深く横たわる「勝ち組-負け組」という荒涼たる二極の単純図式を、はからずも露呈してしまっていると見えてしまう。

部数競争の中で、記事としてウケを狙える事例を挙げる必要があるというよんどころなき事情は考慮したとしよう。
しかしそれにしても、その「勝ち-負け」二極の間のグラデーションで、しかし属する社会集団から離脱することなく踏みとどまり、普通に社会適応してがんばっている大多数のわが同世代の声が、一連の記事にほとんど現われてこないのはどうしたことだろう?

加えて言うならば、重要な年始特集となったこの記事全体の編集方針は、おそらく間違いなく、決定権のある上司、つまり大企業幹部である団塊世代あたりの人間の意向によるものである。

ようするにこの企画特集の、「負け組」の生き様に絶望だけを読み取るステロタイプの読みは、じつはわれら「ロストジェネレーション」内部からのものではなく、「勝ち組」による上からの、さらに冷たく批判的な産業主義‐競争主義の外からの視線によるものであったと思われるのだ。

そうして、この社会のいわば自意識であるところの大報道機関の「勝ち組」エリートたちは、無自覚に(それどころかたぶん自分たちこそ社会正義の側にいると意識して)、社会の大多数の、とくにわれらロストジェネレーションの「負け組」に、ダメな弱者はこの先もどうしようもなくダメな弱者であり続けるほかないという、絶望のメッセージを垂れ流しているように見えるのである。

そういうわけで、「絶望を絶望として直視し、引き続きますます悪くなる解決のない現実を、皆でともにまじめに考えましょう」というような、学校的「よい子」の自己規制の枠から少しも外れることのない、歴史の教科書の最後の頁みたいな、どこか居心地の悪い予定調和的な結論に落ち着く。
けっして解決を見出すことのない、自己目的化した問題意識……



が、こういうふうな論調それ自体は、他の各紙の似たような記事と選ぶところはなく、とりたてて目くじらを立てるほどのことではないのかもしれない。
だいたい現状では、どの新聞を読んでもいずれ似たような金太郎飴みたいなもので、表題を隠して読んでそれがどこの新聞の記事だか判別するのは、たぶんとても困難だ。

文字通り「世の中カネがすべて」というふうな方向に加速する中で、結局のところ報道機関もその例外でなくなってしまっているとすれば、一定の社会的規制に抵触しない範囲内でとにかくいかに人目を引く「売れる」記事を作るかの競争になるのは、単に水が低いところに流れるのと同じように、きわめて自然なことに思われる。

そしてこの特集もまた、常識化し自明となった市場原理主義の際限のない横行が生活を脅かしている、そんな昨今の事情を単によく反映しているだけとも言えるだろう。
――単なる社会の「鏡」にすぎないのが報道なのだとすれば。

ようするにいいたいことは、こういう報道姿勢そのものが、急増する社会問題の背景に広く深く潜在してはたらいている、一面的できわめて問題があるとしか言いようがない価値観を、それ自体無自覚に内包しているのみならず、さらに社会の・ぼくらの絶望感を、拡大再生産し続けているということである。

あえていえば、仮にも「良識派」と呼ばれ、「社会の木鐸」(よく新聞について言われる言葉だが、いったいどういう意味なのだろう?)を自称する大新聞であるならば、「ロストジェネレーション」をはじめさまざまな社会病理を引き起こしている現行主流の価値観と全体の方向性に対し、そうでない健全な代案を提起するか、でなければせめて批判的な姿勢を堅持するか、最低線それが自らに内在していることに自覚的であってほしいものだ。

しかしそれは「ないものねだり」にすぎないのが、この記事から読み取れる限り、残念ながら現状なのだろう。


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