さて、「ロストジェネレーション」ということについて検討し書き進めてみて、ここでの課題が、わが同世代の内面‐心から失われているものが何なのかを明らかにし、その対策を探ることにあるのに気づいたのでした。
それは、代表的にはさきの朝日新聞の記事のような、いま私たちがマスコミでよく見かける社会病理に関するもっぱら外面的・表層的な観察や分析からは、なぜか省かれてないがしろにされてしまっているかに見える側面です。
しかしそれなくしては、おそらく同世代の、とりわけ「負け組」の多くが感じている自信のなさ、心の空虚感、個々バラバラな感じの疎外感、そしてそもそも外面的な行動を起こす動機となる心的なエネルギーの欠如の、その原因にほとんど触れることができないでしょうし、実際それができていないことを見てきたつもりです。
ここではその見落とされていると思われた、私たちがいったい何をロストしているのかという、内面のほうの問題を取り上げていきたいと思います。
なるほど、それは心の、つまり観念の問題には違いありません。しかしそれが観念論に過ぎないというのなら、その観念とは人間にとって不可欠なリアリティであるといいたいところです。それはまた別に述べたいと思います。
さらに、他人事のように問題をあげつらうだけというのは、ある意味ひじょうに簡単なことです。それは安易であるとすらいえるでしょう。
たとえばあの記事のような形の「クールな観察」による「分析のし散らかし」は、結局「そしてみんなまた途方に暮れる」というような不毛な事態を招くだけに見えます。
実際、あの朝日の企画記事の終了後に、連載を読んだ読者からの声が特集されていましたが、そこに希望を見出したという同世代の声は皆無なのでした。
(蛇足ですが、その読者投稿のまとめ方が、先に見た「絶望を真剣に直視し引き続き皆で考えましょう」式の結論に落としているのは、そこでも明らかに見えました。たとえば、無職・ニートで引きこもりの息子にこの記事を渡して「自分の問題を考えさせよう」とする「良心的な」団塊世代の親御さんの投書があるのですが、どう考えてもそれは彼を追い詰めるだけの行為に見えます。気持ちはわかる、といいたいところですが……)
そういうわけで、ここでの課題は、たぶんこれまであまり語られることのなかった、われら「ロストジェネレーション」のもう半分の問題、すなわち私たちが内面的に何を失っているのか、なぜ空虚を抱えたままになっているのかを明らかにして、その原因をさぐることにあると思われたのでした。
そしてそこにとどまらず、私たちが失ったもの・与えられなかったものを、いったいどのように取り戻すのかという対策も語っていければと思います。
一見絶望的に見える現状に対する、自分が学びえた限りでのオルタナティブを提示できれば幸いです。
大げさに大風呂敷を広げているような気もしますが、実は後に書くようにそれはかなり当たり前のことを当たり前に書くにすぎないものです。
とはいえ、これは感覚的には半径3メートルくらいのところでいわゆる「ヤマアラシのジレンマ」をやっているような自分の生き方のクセを、単に同世代に投影しているだけという面があるのかもしれず、そんな自分のライフスタイルのそうとうな惨状を一般化し自己弁護したいがためなのかもしれません。
またなにぶん凡人ゆえ「えらそうに書いて認められたい」というような動機がどこかにあるのが現状です。すくなくともそういう要素が書く動機としてあるのを否定できません。
(そしてそれがないかのごときふりをすることは、逆にひじょうにカッコワルイことに思われるのです)
しかしそれらが本質的に本末転倒なのは、すくなくともシミュレートすることはできます。
学んだことを内に抱え込んで自己満足するだけでは、そもそも何のための学びなのかわからなくなってしまうでしょうし、そんなスタンスから語ることとは、結局単なる自己表現-自己満足の閉鎖系オナニズムにすぎないでしょう。
だから、たとえ一個人の主観的視点であることをどこまでも払拭できないにせよ、そのことを自覚した上で、あえて「ロストジェネレーション」内部から、わがこととして同世代の問題を語ることには、同世代へのメッセージとしての意味があると思いたいのです。
たとえ私たちが希望をロストした世代なのだとしても、願うなら希望は必ず見出せるものと根拠を持って信じたいと思います。
さらに失って空虚であるからこそ、そこに新しく何かを満たすことができるのではないかとも思うのです。
そうではないでしょうか?
それは、代表的にはさきの朝日新聞の記事のような、いま私たちがマスコミでよく見かける社会病理に関するもっぱら外面的・表層的な観察や分析からは、なぜか省かれてないがしろにされてしまっているかに見える側面です。
しかしそれなくしては、おそらく同世代の、とりわけ「負け組」の多くが感じている自信のなさ、心の空虚感、個々バラバラな感じの疎外感、そしてそもそも外面的な行動を起こす動機となる心的なエネルギーの欠如の、その原因にほとんど触れることができないでしょうし、実際それができていないことを見てきたつもりです。
ここではその見落とされていると思われた、私たちがいったい何をロストしているのかという、内面のほうの問題を取り上げていきたいと思います。
なるほど、それは心の、つまり観念の問題には違いありません。しかしそれが観念論に過ぎないというのなら、その観念とは人間にとって不可欠なリアリティであるといいたいところです。それはまた別に述べたいと思います。
さらに、他人事のように問題をあげつらうだけというのは、ある意味ひじょうに簡単なことです。それは安易であるとすらいえるでしょう。
たとえばあの記事のような形の「クールな観察」による「分析のし散らかし」は、結局「そしてみんなまた途方に暮れる」というような不毛な事態を招くだけに見えます。
実際、あの朝日の企画記事の終了後に、連載を読んだ読者からの声が特集されていましたが、そこに希望を見出したという同世代の声は皆無なのでした。
(蛇足ですが、その読者投稿のまとめ方が、先に見た「絶望を真剣に直視し引き続き皆で考えましょう」式の結論に落としているのは、そこでも明らかに見えました。たとえば、無職・ニートで引きこもりの息子にこの記事を渡して「自分の問題を考えさせよう」とする「良心的な」団塊世代の親御さんの投書があるのですが、どう考えてもそれは彼を追い詰めるだけの行為に見えます。気持ちはわかる、といいたいところですが……)
そういうわけで、ここでの課題は、たぶんこれまであまり語られることのなかった、われら「ロストジェネレーション」のもう半分の問題、すなわち私たちが内面的に何を失っているのか、なぜ空虚を抱えたままになっているのかを明らかにして、その原因をさぐることにあると思われたのでした。
そしてそこにとどまらず、私たちが失ったもの・与えられなかったものを、いったいどのように取り戻すのかという対策も語っていければと思います。
一見絶望的に見える現状に対する、自分が学びえた限りでのオルタナティブを提示できれば幸いです。
大げさに大風呂敷を広げているような気もしますが、実は後に書くようにそれはかなり当たり前のことを当たり前に書くにすぎないものです。
とはいえ、これは感覚的には半径3メートルくらいのところでいわゆる「ヤマアラシのジレンマ」をやっているような自分の生き方のクセを、単に同世代に投影しているだけという面があるのかもしれず、そんな自分のライフスタイルのそうとうな惨状を一般化し自己弁護したいがためなのかもしれません。
またなにぶん凡人ゆえ「えらそうに書いて認められたい」というような動機がどこかにあるのが現状です。すくなくともそういう要素が書く動機としてあるのを否定できません。
(そしてそれがないかのごときふりをすることは、逆にひじょうにカッコワルイことに思われるのです)
しかしそれらが本質的に本末転倒なのは、すくなくともシミュレートすることはできます。
学んだことを内に抱え込んで自己満足するだけでは、そもそも何のための学びなのかわからなくなってしまうでしょうし、そんなスタンスから語ることとは、結局単なる自己表現-自己満足の閉鎖系オナニズムにすぎないでしょう。
だから、たとえ一個人の主観的視点であることをどこまでも払拭できないにせよ、そのことを自覚した上で、あえて「ロストジェネレーション」内部から、わがこととして同世代の問題を語ることには、同世代へのメッセージとしての意味があると思いたいのです。
たとえ私たちが希望をロストした世代なのだとしても、願うなら希望は必ず見出せるものと根拠を持って信じたいと思います。
さらに失って空虚であるからこそ、そこに新しく何かを満たすことができるのではないかとも思うのです。
そうではないでしょうか?
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