またまたロスト・ジェネレーションのことについてですが…
「ロスト・ジェネレーション」――最初に書きはじめたように、その表現の何が心に引っかかったのか考えてみると、それは僕らが、よくいわれるような社会的安定が「失われた世代」である、という意味においてだけではなかったのでした。
それはたぶん話の外側・表面の、半分にすぎないのだと思います。
それだけでなくその深層に、僕らが心を持ち社会を形成する存在として、つまり人間として、大切だったはずの何かを「失った世代」であるという、もう半分の心‐内面の問題があると思われてならないわけです。
「ロスト・ジェネレーション」とは、私にとってそのことをおそらくはじめて明確に言い当てた言葉であるように感じられたのでした。
この言葉は、そんなわが世代の実感である内面の空虚感を、ひじょうに端的によく表現していると思われます。
そしてまさにわが同世代たちの内面が一様に、個々バラバラで「空っぽ」であることを示していたのが、さきに検討してきた、名付け親・『朝日』の記事なのでした。
「勝ち/負け/脱」のいずれかにかかわらず、そのことは連載のすべてのエピソードから容易に読み取ることができると思われるのですが(同特集が世代の共通の「声」をなにがしか代弁していたとして)、いちいち例証するのは煩雑なので割愛します。
少しだけ指摘してみましたとおり、世代内部の、とりわけ「負け組」の視点から見ればそのことはあまりにも明らかであるにもかかわらず(私自身「負け」傾向がヒジョーに強いため…)、そんな同世代の生き様を描写しているはずの同記事が、一方で読み・分析としてはそのことをほぼまったく見落としているのは、何だか不思議なほどなのでした。
いろいろ目くじらを立てるように書いたのは、そのことを言いたかったためなのですが、しかしすべては外面的な諸関係、煎じ詰めれば人間「脳」だけ・世の中結局「カネ」だけ、とするような昨今の還元主義的・産業主義的な常識のもとで、「売れる」記事にするための自己規制としてそこに話を落とさなければならなかったのだとすれば、そのことはさほど怪しむべきことではなかったようにも思います。
しかし依然として不満は残るといわざるをえません。
そういうわけで、同世代論として語られなかったその「話のもう半分」のほうを、私に果たして力量がいかほどあるかはさておき、「ロスト・ジェネレーション」の、とくに「負け組」傾向の強い一人として、同世代に向けて語ることには、願望としては少なからぬ意味がある…と思いたいなと。
何よりその半分の、内面の問題への気づきが欠けていること自体が、自分を含めわが世代の問題の重要な部分であると思われるからです。
「ロスト・ジェネレーション」――最初に書きはじめたように、その表現の何が心に引っかかったのか考えてみると、それは僕らが、よくいわれるような社会的安定が「失われた世代」である、という意味においてだけではなかったのでした。
それはたぶん話の外側・表面の、半分にすぎないのだと思います。
それだけでなくその深層に、僕らが心を持ち社会を形成する存在として、つまり人間として、大切だったはずの何かを「失った世代」であるという、もう半分の心‐内面の問題があると思われてならないわけです。
「ロスト・ジェネレーション」とは、私にとってそのことをおそらくはじめて明確に言い当てた言葉であるように感じられたのでした。
この言葉は、そんなわが世代の実感である内面の空虚感を、ひじょうに端的によく表現していると思われます。
そしてまさにわが同世代たちの内面が一様に、個々バラバラで「空っぽ」であることを示していたのが、さきに検討してきた、名付け親・『朝日』の記事なのでした。
「勝ち/負け/脱」のいずれかにかかわらず、そのことは連載のすべてのエピソードから容易に読み取ることができると思われるのですが(同特集が世代の共通の「声」をなにがしか代弁していたとして)、いちいち例証するのは煩雑なので割愛します。
少しだけ指摘してみましたとおり、世代内部の、とりわけ「負け組」の視点から見ればそのことはあまりにも明らかであるにもかかわらず(私自身「負け」傾向がヒジョーに強いため…)、そんな同世代の生き様を描写しているはずの同記事が、一方で読み・分析としてはそのことをほぼまったく見落としているのは、何だか不思議なほどなのでした。
いろいろ目くじらを立てるように書いたのは、そのことを言いたかったためなのですが、しかしすべては外面的な諸関係、煎じ詰めれば人間「脳」だけ・世の中結局「カネ」だけ、とするような昨今の還元主義的・産業主義的な常識のもとで、「売れる」記事にするための自己規制としてそこに話を落とさなければならなかったのだとすれば、そのことはさほど怪しむべきことではなかったようにも思います。
しかし依然として不満は残るといわざるをえません。
そういうわけで、同世代論として語られなかったその「話のもう半分」のほうを、私に果たして力量がいかほどあるかはさておき、「ロスト・ジェネレーション」の、とくに「負け組」傾向の強い一人として、同世代に向けて語ることには、願望としては少なからぬ意味がある…と思いたいなと。
何よりその半分の、内面の問題への気づきが欠けていること自体が、自分を含めわが世代の問題の重要な部分であると思われるからです。
ロストジェネレーション論、続けて興味深く読んでいます。
ぜひ、自らの世代の本質と対策を言い当てるところまで継続-掘り下げしてください。
それはその世代を生きている人にしかできない課題ですから。
期待しています。
ご明察のとおり継続的に(=しつこく)書いていますのは、たしかにわれわれは大切なアイデンティティ‐自信を失った世代ではあるのですが、不肖なりに学んできましたとおり、それには対策があることを同世代に示したかったからです。
「負け組」も逆転が大いにありうると。
課題としてがんばりたいと思います。
いつも明晰な分析ですね。
どの世代にもそれぞれの時代の背景が影響しますよね。続けてがんばってください。
それにしても、勝ち組負け組みという言葉は、嫌な印象ですね。
どうもこんばんは。コメントありがとうございます。
もちろんどの世代もそうなのですが、私たちもまた時代の子なんだなと感じます。そのことをしっかり踏まえないと、なかなか内実ともコスモス・ジェネレーションになるのは難しいようにも思われます。
勝ち組・負け組、ほんとうに嫌な言葉ですね。