〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

ロストジェネレーション補完計画 5(つづき)

2007-03-25 | ロストジェネレーション論
(承前)

 希望は、何より私たちは人間として自由意志をもつ主体的な存在であり、そして原理的には私たちの心は無限で、思うことは原則自由自在だということにあります。

 いろいろロクでもない思いが自動的に・勝手に湧いてきて狭苦しく限界だらけという、文字通り思うに任せぬ、不自由きわまるわれらが心の現状があるのは、もちろん確かです(私ももちろん、とりわけそうです)。
 しかしよく考えてみると、そんなふうに「思い」に踊らされていて見えづらくなっているだけで、私たちの心とは事実として「思ったとおり」になっているのではないでしょうか? 

 もしそうであるとすれば、内面的な作業として、私たちがロストしてしまっている心のかたち=アイデンティティを再建することは、いわば「楽勝」なはずです。
 見ていくとおり、これは単なる楽観論ではありません。

 さらに視点を逆転させていえば、遮るもののない焦土の中「ないないづくしでやりきれない」私たち〈ロストジェネレーション〉は、しかし先入見としてその再建への道行きの頑強な交通障害となるであろう、克服されるべき旧来の神話的因習や、頑強なイデオロギー⇒アレルギー的な束縛から、最初から――幸いにも――フリーなままであるわけです。

 「ピンチはチャンス」のことばのとおり、これは私たちに与えられたチャンスとすら言えるかもしれません。

 にもかかわらず、そんな内的変革が「単なる観念論の絵空事」にすぎず、実現不可能だと見えてしまう、ある意味もっともな、多くの私たちのダメダメな現状があったわけです。
 それには、すべて外面的なことだけがリアルだとするような、あまりにも一面的な還元主義の線に沿った常識的信念が、まず原因としてあると見えます。そのことは1.で取り組むつもりです。

 しかし私たちの心がリアルだとして、それでも求めてやまないアイデンティティは依然宙に浮いたままです。
 つまり、わが同世代のそうした内的な無力感の、さらにもうひとつ大きい原因として、私たちにとって適切なアイデンティティとはいったい何なのかという答え、すなわち代案となるヴィジョンが、これまで見出せなかったことがあると思われるのです。

 しかし幸いなことに、学びえた限りでは現状最有力の代案と評価できるものに、縁あって出逢うことができたという感触を得ています。
 私たちは20世紀からの現代科学が明らかにした、始まりも秩序もある、無限のつながりとかさなりの宇宙の中に、宇宙それ自身として、現にすでに生きています。
 それこそが回復されるべきアイデンティティの最重要の柱であり、何よりの希望の根拠であることを、ご紹介できればと思います。

 …と書きましたが、「宇宙」などという文字を読んで、お読みの同世代の方は即「あやしい」と抵抗感を抱かれたのではないでしょうか?
 それは同じ時代を生きるものとしてひじょうによくわかるところです。

 しかしその新しいヴィジョンとは、私たちがこの上なく大切な「個人の自由」の対極にあるものとして、つとに神経を尖らせアレルギー反応を示してきた、宗教的な閉鎖系の信仰の強制とも、硬直した特定イデオロギーの注入とも、はっきりと違うものだと思われます。
 そのポイントが、科学にもとづく妥当性と枠組みとしての柔軟性にあることを示せればと考えています。

 そういう柔軟な枠組みと方法論にもとづく主体的な内面の作業によって、私たちの多くが現になすべきことを迫られている「内なる焦土からの再建」は、おそらく一般に予想されるだろうよりも、かなり容易にすみやかに可能なのではないかと推測されます。
 そのことを、どれほど説得力を持ってお伝えできるかがここでの課題となります。

 またそのことを、再建途上の内面の視点から成果報告できるようになることが、ここでのいまひとつの課題でもあります。

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