〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

私が伝えるべきこと

2020-03-08 | 二つの心理療法について
本日は妻が仕事なので2歳になる子供を一日見ることとなった。
私はもう四十半ばになるが、この年になるとそれぞれの両親に面倒を見てもらうわけにもいかない。私の父は死に、母は今や認知症である。3月は人事異動で、今後ともにどうなるかも不明で心配だ。保育園の時間で仕事が終わるのか?

我が子は2歳半を過ぎ、すっかり「ぼくが・ぼくが」の自我がはっきりしてきて、楽しいが疲れてしまう。子供複数で専業主婦をしている人は、よほど社交性がないと何より精神的に大変だろうと実感される。
テレビでも動画が見れるようになり、家事の時についつい動画を見せてしまう。普通のテレビ番組より素人づくりの子供向け動画に異様に集中するのはなぜだろう? あまり見せないようにしなければならない。

…と中年男が身辺雑記をしてもしょうがない。
思うところがあり、これからは5日に一回くらいは更新したいと思う。
凡人なので読者がいるのはうれしいが、自己表現のために忙しい時間を書く暇はほぼ全くない。

にもかかわらず書きたいのは、なぜか私のような凡人が出会ってしまった驚くべき2つの心理療法があるためだ。具体的にはすぐ後で書いていくつもりである。
これまで書くのをためらってきたのは、自分がそれを使いこなせていないためである。アタマでは理解したつもりでも、おそらくそういう折角のものを活用する才能がないのだろう。
アタマで知っていながらそれを生かせていない。それは本当にここ25年ほど感じてきたことなので、黙ってきたのは私があえて書くのも僭越だと思われたためだ。

しかしこれらの方法は、何かの怪しげなセミナーのような話ではなく、文字通り、真に内的な意味で革命的なものである。一般の心理学はまるで盲点に入ったかのようにこれら肝心の事を扱っていない。
私が生かせていようといまいと、その事実に変わりはない。
それでも、かつて社会的不適応をきたしていた私が、しっかり社会適応して家族を営むようになったのは、当時からすれば予想だにしなかったことなので、そのレベルでは生かすことができたのだと思う。しかし、これらの方法論の潜在力はその程度のものでは明らかにない。

環境危機をはじめ、現在、次世代に大変な負荷を負わせてしまう生活を私たちはしてしまっている。
公私に関わる、病理的な意味だけではなく社会的な意味で病んだ人々、その状態像のますますの悪化は現場の誰の目にも明らかだ。
私たちはそれに目を伏せて日々を送っている。
こうした危機はもはや日常的なリアリティとなっている。コロナウィルスはその予兆のようなもので、危機は今後さらに顕著なものとなるであろう。

時間はそれほど残されていない。私の子供の成長したころには日本も世界もさぞひどいことになっているだろう。
そんな中、上記の2つの心理療法は明らかにこの限界状態に解決をもたらす鍵となるものである。
自分で書いてみて、はたから見れば何と大げさで怪しげに聞こえることだろう――そうではないことを根拠を上げて述べていくが、怪しく聞こえる向きにはそう聞いてもらっても全く結構だ。いずれ匿名のブログ、遠慮なく書かせてもらおうと思う。

自分が生かせていないのに、そのことを知っていながら抱え込んでいるだけ、大事にしまい込んでいるだけなのは、何か罪深い気すらしてくるのである。子どもを持って初めてそういう気持ちになったということなのか。
誰か、こうした心的な方法論を生かす才能のある人物に、ぜひ届いてほしいと願う。
優れた思想家が言っているが、真理とはシンプルで美しいものである。実に至言だと思う。







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