以前に書いたように、ケネディ大統領暗殺事件については、映画「JFK」を見て以来ずっと心に引っかかってきた。
しかし映画で描かれたこの政治的陰謀の極めて複雑で広範にわたる事実は、多数の英語文献に当たらないとわからないものであり、それを調べる時間はないと思っていた。
そこで、当ブログでは1963年11月22日の銃撃の瞬間のみに焦点を当てて、過去に長々と書いてきたわけだ。そして、それもこれ以上書くことはあるまいと思っていた。
しかし先日のNHKスペシャルの番組で、かのトランプが機密文書の公表を躊躇するほどの陰謀とは何なのかについて、改めて興味をかきたてられたのである。
もちろん「そんな陰謀など存在しない」と公式説ではされているわけだが、銃撃の瞬間と同様、ちょっとネットで調べただけで陰謀の構図の少なくともアウトラインが見て取れてしまうほどであった。
公式説とは、それを隠蔽するためのシロモノだったことが、今更ながら理解される。
以下に書くものは、少し前なら「陰謀論」とレッテルを貼られるような内容だが、いまではNHKすら「公式説は虚偽だ」と言い切ったのだから心強い。
もちろん、外国の過去の陰謀についてなど、日本人の私が書く意味は実際的にはない。
以下、単なるミステリー好きの趣味だとご理解願いたい。
しかし、今後明らかになるか隠蔽され続けたままとなるかは不明だが、そのアウトラインが次のようなものとなることはおそらく間違いない。
推測ではあるが、しかしはっきりとした根拠のある予測である。確固とした裏付けがあるものを「陰謀論」とは言わない。言うならば、正真正銘の陰謀がそこにあったのである。
いまだ明らかにされていない真相の予測として、あらかじめ述べておきたいと思う。
11月22日12時30分に起こった銃撃から(書く予定だった「第3の銃弾」や実行犯たちのことは飛ばして)、視点を同日とその前後に広げ、しかも最も高位の地位にある人たちの行動に焦点を当てたい。
一人目は、ケネディそしてジョンソンの後に大統領に就任した共和党のリチャード・ニクソンについてである。
この事件に興味がある人は、ニクソンが暗殺のその日の朝、しかもケネディが飛行機で降り立つ直前までダラスにいたことを、すでに知っていることだろう。
しかし、もともと映画「JFK」から入った筆者としては、それはさすがに眉唾の情報だと思っていた。
ケネディと大統領選を争って敗北し、のちにウォーターゲート事件で黒く荒っぽい政治手法が暴露されたニクソンが、まさかその日・その場所にいたなどというのは、出来すぎていてありえないと思い込んでいたのである。
大統領選における有名なテレビ討論でのニクソンとケネディ(Wikipedia日本版より)
周知のとおりニクソンは政治的汚辱にまみれて失脚したわけだが、彼を擁護する立場からもそのことははっきり記されており、これは間違いのない事実らしい。
以下は、米国の「リチャード・ニクソン財団」(Richard Nixon foundation)のウェブサイト上の記事である。
(https://www.nixonfoundation.org/2013/11/richard-nixon-november-22-1963/ 訳文は筆者による)
ニクソン大統領の事績を顕彰する団体が、あえてそのことに触れているのである。
内容の批判は次回とするが、記事にあるとおり確かに「(現職やその後の)大統領3人がダラスという地方都市に同じ日にいる」確率というのは、極めて低いことであろう。
しかもそれが3人にとどまらないことは、後で見ていきたい。
しかし映画で描かれたこの政治的陰謀の極めて複雑で広範にわたる事実は、多数の英語文献に当たらないとわからないものであり、それを調べる時間はないと思っていた。
そこで、当ブログでは1963年11月22日の銃撃の瞬間のみに焦点を当てて、過去に長々と書いてきたわけだ。そして、それもこれ以上書くことはあるまいと思っていた。
しかし先日のNHKスペシャルの番組で、かのトランプが機密文書の公表を躊躇するほどの陰謀とは何なのかについて、改めて興味をかきたてられたのである。
もちろん「そんな陰謀など存在しない」と公式説ではされているわけだが、銃撃の瞬間と同様、ちょっとネットで調べただけで陰謀の構図の少なくともアウトラインが見て取れてしまうほどであった。
公式説とは、それを隠蔽するためのシロモノだったことが、今更ながら理解される。
以下に書くものは、少し前なら「陰謀論」とレッテルを貼られるような内容だが、いまではNHKすら「公式説は虚偽だ」と言い切ったのだから心強い。
もちろん、外国の過去の陰謀についてなど、日本人の私が書く意味は実際的にはない。
以下、単なるミステリー好きの趣味だとご理解願いたい。
しかし、今後明らかになるか隠蔽され続けたままとなるかは不明だが、そのアウトラインが次のようなものとなることはおそらく間違いない。
推測ではあるが、しかしはっきりとした根拠のある予測である。確固とした裏付けがあるものを「陰謀論」とは言わない。言うならば、正真正銘の陰謀がそこにあったのである。
いまだ明らかにされていない真相の予測として、あらかじめ述べておきたいと思う。
11月22日12時30分に起こった銃撃から(書く予定だった「第3の銃弾」や実行犯たちのことは飛ばして)、視点を同日とその前後に広げ、しかも最も高位の地位にある人たちの行動に焦点を当てたい。
一人目は、ケネディそしてジョンソンの後に大統領に就任した共和党のリチャード・ニクソンについてである。
この事件に興味がある人は、ニクソンが暗殺のその日の朝、しかもケネディが飛行機で降り立つ直前までダラスにいたことを、すでに知っていることだろう。
しかし、もともと映画「JFK」から入った筆者としては、それはさすがに眉唾の情報だと思っていた。
ケネディと大統領選を争って敗北し、のちにウォーターゲート事件で黒く荒っぽい政治手法が暴露されたニクソンが、まさかその日・その場所にいたなどというのは、出来すぎていてありえないと思い込んでいたのである。
大統領選における有名なテレビ討論でのニクソンとケネディ(Wikipedia日本版より)
周知のとおりニクソンは政治的汚辱にまみれて失脚したわけだが、彼を擁護する立場からもそのことははっきり記されており、これは間違いのない事実らしい。
以下は、米国の「リチャード・ニクソン財団」(Richard Nixon foundation)のウェブサイト上の記事である。
(https://www.nixonfoundation.org/2013/11/richard-nixon-november-22-1963/ 訳文は筆者による)
ニクソン大統領の事績を顕彰する団体が、あえてそのことに触れているのである。
内容の批判は次回とするが、記事にあるとおり確かに「(現職やその後の)大統領3人がダラスという地方都市に同じ日にいる」確率というのは、極めて低いことであろう。
しかもそれが3人にとどまらないことは、後で見ていきたい。
リチャード・ニクソンと1963年11月22日
(by Robert Nedelkoff | Nov 9, 2013)
これから二週間もしないうち――金曜日、カレンダーにはそう記載されていることだろう――アメリカ史上最も重大な悲劇の一つとされる出来事の、50回目の記念日を迎える。それは、ある金曜日の午後早くに、テキサス州ダラスで起こった。1941年12月7日や2001年9月11日と並んで、1963年11月22日はアメリカ人の集団的な意識のうちに最も厳粛かつ焼けるような記憶を呼び起こす日である。それは何より、第二次世界大戦開戦から2年経って起こったパールハーバーや、海外での一連の反米テロ活動がその前兆となった9・11と異なり、ケネディ大統領暗殺がまったくの晴天の霹靂だったからである。
大統領の死から数日後、弾薬箱に収められた彼の遺体は、御者なしのブラックジャックという馬に引かれ、ワシントンの通りを行進した。3人の大統領――リンドン・ジョンソン、ドワイト・D・アイゼンハワー、ハリー・S・トルーマン――を含む高位の人々の葬列がそれ続いた。
ワシントンでも三人の大統領が同じ日に居合わせることは通常起こるものではない。しかも政治的な大会や大統領の葬儀が行われているのわけでないのに、3人の――現職や、過去または将来の――大統領が同じ都市にいることは、きわめてまれな出来事である。しかし1963年11月22日の朝には、3人の大統領たちがダラス・フォートワース都市圏において30マイル以内の距離にいたのである。
その日、フォートワースでは、ジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンがホテル・テキサスで目覚め、ダラス・ラブフィールド空港への短距離を飛ぶ飛行機に乗り込む準備をしていた。同空港からスタートする車列は、中央標準時12時30分前にディーリープラザに進入することとなったのである。
そしてその朝ダラスでは、リチャード・ニクソンがベイカー・ホテルで目覚めた。ドアの外の廊下では警察官が配置についていたが、その警官は前副大統領を警護していたのではない。ニクソンからいくつか離れた部屋に宿泊していた映画スターのジョーン・クロフォードを、宝石強盗やサインを求めるファンから阻むためにそこにいたのだ。
ハリウッドのレジェンドも将来の大統領も、ともに同じ理由でダラスにいた。それは全米炭酸飲料業連合の年次大会に参加するためであった。二人とも、ペプシ・コーラ社を代表してそこにいたのである。クロフォードは同社の取締役会のメンバーであった(彼女は同社の社長の未亡人であった)。そしてニクソンはペプシ社を代理する弁護人の立場にあったのだ。
その前日、さまざまな飲料業者の重役たちとの会合の後、夜になってニクソンは記者たちを前に演説し、共和党の古参の政治家の立場からケネディ政権の政策への批判を精力的に語った。
翌朝、ニクソンはラブフィールド空港に向かい、ケネディとジョンソンが到着する一時間少し前に出発した飛行機に乗った。
その後の話として――加えて、16年にわたるニクソンとケネディの友情を生き生きと物語るものとして――私はアラン・ペパードによるダラスモーニングニュース紙の記事を勧めたい。半世紀近く前から現在まで、リチャード・ニクソンが暗殺の日の朝ダラスにいたという事実に、陰謀論者たちはあらゆる種類の邪悪な意味を読み取ってきた。同紙による1963年11月22日の出来事についての今月の報道は徹底的な調査のもと書かれているが、その一つであるペパード氏の記事は、この事件に関してしばしば付随してきたあらゆるごまかしを消し去り、真実を十分に教えてくれている。
ニクソンがその日をどのように終えたかを描写したこの記事の結びは、今日のジャーナリズムにおいてますます稀になりつつある、記事全体の質をよく示している。(以下の記事で参照されている手紙は、ニクソン図書館で見ることができるという事実も付け加えておきたい)
ニクソンはセントラルパークを見下ろす十室からなる彼のアパートメントの居室に入った。長い廊下には蒋介石婦人から贈られた中国の絵画がかけられていた。そのリビングルームは明るい色調のカーテンや大きな東洋風の陶器類で特徴づけられていた。
「その夜遅くまで、私は書斎で起きていた」とニクソンは思い出して語った。彼は肺結核によって7歳と23歳で死んだ兄弟、アーサーとハロルドのことを考えていた。彼はケネディのことや、親密だったケネディの家族のことについて考えていた。父のジョーから最も幼い子であるテッドまで、ニクソンはケネディ家のすべての人々をよく知っていた。そして彼はジャッキーの事を考えた。彼女は事件後すぐ、ワシントン・タイムズ・ヘラルドの「詮索好きなカメラマン」から大統領についてインタビューを受けていた。
ジャッキーがベセスダ海軍病院で夫の検視と防腐処理を待っていた頃、ニクソンは書斎で怒りに燃えていた。
11月23日の日没前、彼はペンを執った。
ニクソンは手紙を次のように始めた。「親愛なるジャッキーへ。運命の手がジャックと私を政治上の敵手としましたが、私は二人がともに1947年に議会に来て以来、個人的な友人同士だという事実をいつも胸に抱いていました」。
数週間して、ニクソンは几帳面で女性らしい字で書かれた手紙を受け取った。「あなたがた二人の若者――議会での同僚、1960年の敵対相手――そして今やこのようなことが起こってしまいました」。ジャッキーはニクソンが大統領に選出されることを予見した。「あなたに申し上げたいのはただ一つ」――彼女は記す。「もしあなたの望みが長く成就しなかったとしても、どうかすでにあるものに慰めを見出してください――ご自分の命と家族に。」
(by Robert Nedelkoff | Nov 9, 2013)
これから二週間もしないうち――金曜日、カレンダーにはそう記載されていることだろう――アメリカ史上最も重大な悲劇の一つとされる出来事の、50回目の記念日を迎える。それは、ある金曜日の午後早くに、テキサス州ダラスで起こった。1941年12月7日や2001年9月11日と並んで、1963年11月22日はアメリカ人の集団的な意識のうちに最も厳粛かつ焼けるような記憶を呼び起こす日である。それは何より、第二次世界大戦開戦から2年経って起こったパールハーバーや、海外での一連の反米テロ活動がその前兆となった9・11と異なり、ケネディ大統領暗殺がまったくの晴天の霹靂だったからである。
大統領の死から数日後、弾薬箱に収められた彼の遺体は、御者なしのブラックジャックという馬に引かれ、ワシントンの通りを行進した。3人の大統領――リンドン・ジョンソン、ドワイト・D・アイゼンハワー、ハリー・S・トルーマン――を含む高位の人々の葬列がそれ続いた。
ワシントンでも三人の大統領が同じ日に居合わせることは通常起こるものではない。しかも政治的な大会や大統領の葬儀が行われているのわけでないのに、3人の――現職や、過去または将来の――大統領が同じ都市にいることは、きわめてまれな出来事である。しかし1963年11月22日の朝には、3人の大統領たちがダラス・フォートワース都市圏において30マイル以内の距離にいたのである。
その日、フォートワースでは、ジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンがホテル・テキサスで目覚め、ダラス・ラブフィールド空港への短距離を飛ぶ飛行機に乗り込む準備をしていた。同空港からスタートする車列は、中央標準時12時30分前にディーリープラザに進入することとなったのである。
そしてその朝ダラスでは、リチャード・ニクソンがベイカー・ホテルで目覚めた。ドアの外の廊下では警察官が配置についていたが、その警官は前副大統領を警護していたのではない。ニクソンからいくつか離れた部屋に宿泊していた映画スターのジョーン・クロフォードを、宝石強盗やサインを求めるファンから阻むためにそこにいたのだ。
ハリウッドのレジェンドも将来の大統領も、ともに同じ理由でダラスにいた。それは全米炭酸飲料業連合の年次大会に参加するためであった。二人とも、ペプシ・コーラ社を代表してそこにいたのである。クロフォードは同社の取締役会のメンバーであった(彼女は同社の社長の未亡人であった)。そしてニクソンはペプシ社を代理する弁護人の立場にあったのだ。
その前日、さまざまな飲料業者の重役たちとの会合の後、夜になってニクソンは記者たちを前に演説し、共和党の古参の政治家の立場からケネディ政権の政策への批判を精力的に語った。
翌朝、ニクソンはラブフィールド空港に向かい、ケネディとジョンソンが到着する一時間少し前に出発した飛行機に乗った。
その後の話として――加えて、16年にわたるニクソンとケネディの友情を生き生きと物語るものとして――私はアラン・ペパードによるダラスモーニングニュース紙の記事を勧めたい。半世紀近く前から現在まで、リチャード・ニクソンが暗殺の日の朝ダラスにいたという事実に、陰謀論者たちはあらゆる種類の邪悪な意味を読み取ってきた。同紙による1963年11月22日の出来事についての今月の報道は徹底的な調査のもと書かれているが、その一つであるペパード氏の記事は、この事件に関してしばしば付随してきたあらゆるごまかしを消し去り、真実を十分に教えてくれている。
ニクソンがその日をどのように終えたかを描写したこの記事の結びは、今日のジャーナリズムにおいてますます稀になりつつある、記事全体の質をよく示している。(以下の記事で参照されている手紙は、ニクソン図書館で見ることができるという事実も付け加えておきたい)
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ニクソンはセントラルパークを見下ろす十室からなる彼のアパートメントの居室に入った。長い廊下には蒋介石婦人から贈られた中国の絵画がかけられていた。そのリビングルームは明るい色調のカーテンや大きな東洋風の陶器類で特徴づけられていた。
「その夜遅くまで、私は書斎で起きていた」とニクソンは思い出して語った。彼は肺結核によって7歳と23歳で死んだ兄弟、アーサーとハロルドのことを考えていた。彼はケネディのことや、親密だったケネディの家族のことについて考えていた。父のジョーから最も幼い子であるテッドまで、ニクソンはケネディ家のすべての人々をよく知っていた。そして彼はジャッキーの事を考えた。彼女は事件後すぐ、ワシントン・タイムズ・ヘラルドの「詮索好きなカメラマン」から大統領についてインタビューを受けていた。
ジャッキーがベセスダ海軍病院で夫の検視と防腐処理を待っていた頃、ニクソンは書斎で怒りに燃えていた。
11月23日の日没前、彼はペンを執った。
ニクソンは手紙を次のように始めた。「親愛なるジャッキーへ。運命の手がジャックと私を政治上の敵手としましたが、私は二人がともに1947年に議会に来て以来、個人的な友人同士だという事実をいつも胸に抱いていました」。
数週間して、ニクソンは几帳面で女性らしい字で書かれた手紙を受け取った。「あなたがた二人の若者――議会での同僚、1960年の敵対相手――そして今やこのようなことが起こってしまいました」。ジャッキーはニクソンが大統領に選出されることを予見した。「あなたに申し上げたいのはただ一つ」――彼女は記す。「もしあなたの望みが長く成就しなかったとしても、どうかすでにあるものに慰めを見出してください――ご自分の命と家族に。」
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