〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

長いですが言い訳

2008-07-27 | Weblog
さきにも書きましたとおり、どうも自分の中には、特定の誰かや誰かの思想を大切なものと思ったり、表現したり、まして人に伝えようとすることに、なかば無意識化したアレルギーがあったわけです。というかいまだあると。

しかしよくよく考えてみると、そういう意味での「思想」なしにわれわれ人間はそもそも生きていけないようです。ちょっと顧みればわかるようにわれわれは朝起きて夜寝るまで、それどころか夢の中ですら言葉をめぐらして生きている。

人間最後は理屈ではない、ほんとに大事なのは言葉じゃなく感情だ、言葉をなくしたところに生物としての人間の真実がある、言葉によって意味を求めるのは弱者に過ぎない…
そう思われる人がいたらぜひ申し出ていただきたい。
そして議論しましょう。

が、もしそのことを議論するとしたら、それは言葉・論理・思想によっているのですから議論を始めた途端に結論が出てしまうことになるはずです。
ともかく言葉と言葉が説明する意味を離れて私たちは生きられるものでないことは間違いありません。

そして私たちは毎日自分でない周囲の誰かの、メディアでうまいこと言っている誰かの、なにかを買わせようとしている誰かの、自分の勢力圏に取り込もうとしている誰かの、そんな無数の言葉と言葉に乗った特定の価値観を、ほとんどそれと意識することなしに心に受け入れているわけです。

メディア環境に生きる私たちは自分の価値判断をして情報を取り入れ利用していると思っていると思いますが、もう半面の事実は、いやそれ以上に大部分の実態は、取り囲まれ無意識に取り入れている情報が私たちの価値判断を形成し、そういう意味では私たちの「心」そのものになっている、ということではないかと思われます。
(何と分離的・分別知的な認識でしょう!しかしこれが書いている私の実感であると)

さきに書いたように、今のメディア的‐日常的な「お笑い」が不気味に感じるのは、それが私たちの心にどのような意味を持つかと言うことです。「意味なんかない」ことを最後の「笑う意味」のよりどころにし、「価値なんか何もない」ことをあばいたはてに行きついた、事実何の価値もないことを自ら笑う空っぽの笑い…これが私たち・子どもたちにとってどのような意味を持ってくるのか。
端的にカオス・溶解でしかないと思われます。

ともあれ「誰か」の「思想」を受け入れることなしに生き・よりよく生きることができないのが人間であることは間違いありません。
だから問題は、そうすることがいけない・危険だとするアレルギー――つまりそれも「思想」ですが――そこにあると思います。

典型的にはかつて読んだ宮台真司氏(現在何を言っているかはよく知りません。もしかしたらもっと成熟した大人の言葉を語っているのかもしれません)ですが、考えてみると面白いのは、たとえば彼自身が当時の著作でたびたびニーチェだとかフーコーだとか特定の思想家のことばを思想的に権威あるものとして意味深げに(意味がクソであることの傍証に)引用していることです。
彼自身の言葉を借りるなら、ここでも「意味ではなく強度へ――」

これは明らかに思想的「より好み主義」に違いありません。
そして意味がないことに意味を求めてやまない、無自覚なだけに強烈な自己矛盾。

が、同時にある意味でとても安心させられるのは、どんなにクールに構えようと、意味を拒絶しようとアタマで頑張ってみようとも、人の心というのがいかに深層から意味を求め根拠を求めるものであるかを証明する、これはまさに好個の事例ではないかということです。
まさに身をもってそのことを証明されているわけですね。

そう読むと彼のようなニヒルな語りが常に「意味への恨み節」になってしまうのもわかるような気がします。
(しかし本当に意味も根拠も否定するなら、そんなことを言説するというようなもっとも「意味くさい」行為はただちにできなくなるはずで、根底から実行すれば人格が崩壊し発狂するしかないと思われるのですが…たぶんそことの間の距離にこそ彼なりの「意味」があったのでしょう)

ともかく私たちは生きる以上、現にはたらいている言葉、そういう意味での「思想」なしに生きられるものではなく、言葉とは人間がになうものである以上、それは常に誰かの、そして何らかの集団の思想であるしかないはずです。

なのになぜそれにアレルギーがあるのでしょう?
これは私一人の問題でもあり、しかしまわりの同世代をみるとほぼ御同様なので「わたしのせいじゃない」というようないいわけも半分は成り立つかもしれません。
そう、これは言い訳です。何の?

一般化して言えばわれわれの世代、団塊ジュニア、ロストジェネレーション(ちょっと古い?)、最近ではアラサ―(アラウンドサーティー…これもすぐ古くなりそうだ)ともいうらしいですが、ともかくわが同年代にはそういうアレルギーが強固にあるなと感じます。

これは当たり前すぎて空気化していてほとんど自覚されておらず、「あたりまえでしょ?」的な感じになっていると思います。つまりそれが世の・人間の事実であると。
しかしそれは上記のように考えると事実に合わない思いこみ・自己矛盾そのものにほかなりません。
その原因にあるのは何か。

思いつくのは、なにより1995年のオウム事件報道の強烈な印象です。
世代的に言えばアレを見せつけられたのが、われわれがちょうど大学生前後の自己確立の時代、いわば「思想形成期」のころであったということになります。

私はちょうど大学のカウンセリングルームにいったりひじょうに砂をかむような、というかそんな歯ごたえもなくひたすら無味乾燥な毎日とちょうどオウム報道の記憶がダブっています。
(無料でカウンセリングを受けさせてくれるのですからいま思えばずいぶん恵まれていたとは思いますが、率直に言って何の効果もありませんでした。話すことがないのに聞いてもらうばかりでも…しかしたしかそこにはテレビはなかったはずなのですが、なぜかそこでオウムの報道を見たような記憶があります)

彼らの身勝手かつ意味不明な凶悪犯罪行為に腹が立つと同時に、「宗教」とか「思想」というのはそれに巻き込まれると妙な信念を注入され、主体性を失って「マインドコントロール」を受けて醜い教祖サマの命令一下すさまじい犯罪を犯してしまうおそろしいものであるとの印象だけは強烈に受けたのだと思います。

そして空っぽそのものの自分こそ、そういうコントロールを受けてしまうのでは、と。だから彼ら「信者」の気持ちがわかるような…(とはいえオウム信者の中核は私たちから言えばたぶん一回りくらい上の世代、もうすこしニュアンスは違ったのではないかとも思います)

そしてちょうどそれと同時期に流行った、というかオウム事件に呼応する形で言論を展開したのが宮台氏だったと記憶しています。
日本・会社・家族というような幻想がおわった成熟社会で個々人がそれぞれに「終わりなき日常」を「まったりと」生きるのが正しい人生の作法であり、まちがってその「終わりなき」という「真実」の重さ・苦しさに直面できずに意味を追求し共同幻想を求めるなどという愚かな生き方をしたのがオウムはじめカルト集団である、というふうに理解しました。

ちょっと時間がなくなってきましたが、何が言いたいかというと、私たち団塊ジュニア世代(呼び方はいろいろ)に顕著に見られる、この「思想に対する思想的アレルギー」には、いちおうわれわれが受けてきた教育とか時代状況とかという、それはそれでもっともな背景があるというこですが、同時にようするにもうそれではわれわれはにっちもさっちもいかない、ということです。

錯覚・幻想をクールに喝破したはずの「終わりなき日常」などという言葉それ自体がまさに錯覚・幻想そのものであることに、もう皆が気付いています。
当時から予測されていたはずなのですが、私・私たちの日常が、社会の持続可能性という意味できわめて危うい薄氷の上にあるのは明らかです。(たとえば北極の氷!)

そういうわけで、この停滞・ブロックを超えるため、私たちはいちどしっかりと誰かの話を聞き、しっかりと価値判断を受け入れる必要があるのではないかということです。それを自分たちの力で行う素地はわれわれには用意されていません。
考えてみれば「自分で考えなさい」と育てられ、価値判断の根拠となる言葉を聞くことのできなかったのが私たちの世代なわけです。

それなしであるために、そもそも私たちはものを秩序だてて考えることさえはっきりとできなくなってしまっているのではないでしょうか。
たとえば、もはや私たちの世代では実態として「文学」は死語そのものです。
内面に物語がないのだから人生の物語が満足に組み立てられず、そもそも文学という深みのある物語を読み・語れないのは考えてみれば自然です

ともあれ、批判精神と単なるアレルギーは似て非なるものであるはずです。

そして、ずっと本家・岡野先生のブログを取り上げているのは、すくなくともいまの日本において、私たちがそれをするためのまっとうな中身が、根拠をもって(すくなくとも根拠のないことはほとんど見受けられません)そこで語られていると思われるからです。

上記についてはまた続きを書いてみたいと思います。
言い訳にそれこそ意味があれば。


人気ブログランキングへ

コメントを投稿