〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

人生の脚本を

2008-08-19 | Weblog
ほんとうにコスモス(宇宙)は加速度的に進化しエレガントに洗練されて今ここに至っているのだと思います。
その進化の最先端に、私たち人間が存在しています。

重要なのは、これが単なる詩心とか青臭いセンチメンタリズムとかではなくて、現代科学の明らかにしている合意レベルの宇宙像を、非常に大きな見取り図としてみるとそのように説得力を持って解釈できる、ということだと思います。

このような表現にきわめて有力な根拠がある、その意味でリアルである、ということがとても重要だと思われるのです。

私たちが心の奥底にいたるまで、自分の存在を根源から肯定したいという強い欲求を持っているのは、たぶん間違いないのではないでしょうか。

たとえばどんな人の作った物語であっても、物語である限り常にその根底にあるのは、自分・人・人間の存在を認めよりよいものにしたいという思いです。
そして語り手がその欲求に対してどのような態度をとるにせよ、欲求そのものはいつも一貫しているということです。

もっともそこから遠いと思われるような、(しつこいようですが)「意味もクソもない」というような言葉もまた、ようするに「意味に裏切られた失望」という語り手自身の物語を(無自覚に)語っているように見えます。
意味への欲求がなければ、そもそも失望そのものが存在しなかったでしょう。

またたとえば「人間結局エゴイスト」というようなありがちなクールぶったドラマもまた、裏を返せば人間は本来そうであるべきではなかったはずだという嘆きの物語を語っているのは明らかです。
面白いのは、それが主題のドラマあっても、ドラマが成立するために「クールな主人公がちょっとかいま見せる人間味」が必ず出てこなければならないというところです。

とにかく私たちが物語を作り・語り・読み・聞くことをどんな時代にも求めてやまないのは、自分の人生を物語として把握するという根源的な深層の心の営みがあるからだと推測されます。

言い換えれば私たちは人生を生きるための脚本を必要としているのだと思います。
また逆に人生の脚本に沿って人生を歩んでいるとも言えます。それは子供の時以来かなり一貫しているようでもあります。
自分の心を省みても、そうなっているのは明らかなように見えます。

…と、もう書く時間がなくなってしまいました。

何が言いたいかというと、科学的な根拠をもって、一番大きく根源的なレベルの、宇宙と私たちの大きな物語を、堂々と語れるというすごい時代に、すでになってしまっているらしいということです。

これはニヒルとかクールとかというような、欲求がひねくれて何が本当の欲求かわからなくなった、よく見かける(みみっちい)物語とは真逆の、壮大なスケールの、でも私たちの物語です。

これは現代科学が明らかにしたリアリティにもとづくほんとうのリアリズムと言えるのではないでしょうか。

すごいすごいの効能書きにつづき、そろそろ中身に入るべきなのですが…でもこういう大枠の話がすきです。


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