上の写真は大船フラワーセンターの池のスイレンです。
財政難の役所が運営しているためか全体に整備が行き届いていない感じでどうかと思いましたが、しかしそれでも夏の花々は見事に咲いていて、とくに小雨のなか池から顔をのぞかせているスイレンはとてもきれいでした。
豊かな心を持つ人は、こういう美しいものを見て心から感動するのだと思いますが、私は「きれい」だとは見えても「感動」というのがどういうものか、いま一つ感じられません。
こう、感動が心から、という感じではなく、頭の先で「ああキレイなのね(だから何?)」と思っている、という感じです。
心を与えられていながら感動がないというのは非常に損ですので感動したいと思いますが、こればかりは意思では何ともなりません。
まあもともと感性の深い浅い・鋭い鈍いというのは素質としてあるのだとは思います。しかしそれだけで済むとは到底思えません。
素質というと脳の遺伝的優劣というニュアンスがあると思いますが、それよりも脳をベースにした心という機能(というとフラットな感じですが)のはたらき方の問題があるはずです。
つまりこれまでお伝えしてきたとおり心の奥底のコスモロジーの問題です。
私たちは生まれてこのかた学校教育などで、やはりある一定のコスモロジーを暗黙のうちに教えられ取り込んできました。
詳しくは後で書きたいと思いますが、というかしつこいようですが本家ブログをご覧いただければ明快ですが、ここに大きな問題があったのは明らかだと感じます。
つまり私たちが教わった「戦後教育」のコスモロジーとは、すべてをばらばらの物質にすぎないととらえ、そこには意味も何もない、というものの見方にほかなりません。
もちろん、あまりにミもフタもないのではっきりそう教えられたわけではありませんでしたが、しかし結局そういう結論に行き着くしかない教育内容だったと思います。
皆さんもそうではなかったでしょうか?
(もちろん直接教育の影響だけというわけではありませんが、しかしほぼすべての影響の根底に教育があることは明らかです。)
したがってどれほどきれいな花もただの物質にすぎず、さらにそれを見ている自分の、とりわけ心もまた物質とその作用にすぎないものである、ということになります。
花も自分もただのばらばらの物質に還元され、そこには意味もクソもない、ということになるわけです。
これは現在日本において、世界と自然と人間を見る見方の公式見解の、いろいろ表面のきれいごとを除去した、本音そのものとなっていると思いますが、いかがでしょうか。
(すると「意味もクソもない」という一見刺激的で新しく聞こえた言葉は、時代の常識=正統教義を単にあからさまに語った言葉にすぎなかったことになります。)
こういう見方が心の底に本音として染みついていながら、なおかつ「世界はすばらしい」「花は美しい」と感動するのがほぼ不可能なのは、おそらく理の当然です。
むろんそういうニヒルで冷たくて意味もクソもないというのが世界の真実なのならそれは仕方ないでしょう。
私たちはそういう味気ない砂をかむようなものとしての世界を生きるしかない。花は単に偶然そういうきれいっぽい色形をしてたまたまそこに咲いているが、しかしそれだけだ、と。
ある意味たいへんシンプルです。なにせ「世界はモノだけ」、ですから。
しかしそれははっきりいって19世紀(前前世紀!)までの「近代科学」が明らかにしていた世界像であり、21世紀の現在の時点で、現代科学の成果である最新の世界像からすると、もはやあまりにも古すぎる、としか言いようがないようです。
私たちがはっきり教えられないうちに、いつのまにか、科学の明らかにするコスモロジーが根本的、革命的といっていいほど大きく進化・変容してきているのです。
ポイントは何より「進化」ということですが、宇宙カレンダーを見てすぐわかるとおり、宇宙の進化は事実137億年という想像を絶する時間の積み重ねという流れの中で、しかも文字通り加速度的に進行し現在の私たちに至っています。
その中で花の創発とは意外にも最近(12月28日)の出来事であることが分かっています。それまでの世界には花は存在しなかったのです。
そしてここで生まれた花もまた、「宇宙」の定義上、宇宙の一部であり、また宇宙そのものであるとしか言いようがありません。
恐竜の滅亡と花の創発とがちょうど時期を同じくしているのが示唆的ですが、ほかの例からもわかるとおり、宇宙の進化とは明らかにより複雑で統合的な組織を形作り、より洗練された機能と形態をとるという方向で一貫していると見えます。
それを人間の目という主観から「宇宙はエレガント化している」と語ることは、きれいな詩の言葉というにとどまらず、宇宙的な現実の正確な表現なのではないでしょうか。
逆にこういう(写真のような)花が宇宙に生まれてくるのを単に「偶然だ」と片付けるのは、事態の説明としても解釈としても、じつはとてもうまくありません。
いったいどういう確率の偶然によってこういう花が生まれてくるのでしょう?
しかも自然にはこういう例が満ちあふれています!
また私たち人間とその心も、花と同じく宇宙の進化(=エレガント化)の最先端の成果として生まれてきたものであることは、表現はどうあれ間違いない事実です。
そうしてみると、その私たちの心が感動することそれ自体が宇宙のはたらきである、というのは、これもまたきわめてリアルな事実のとらえ方であることになります。
感動できない、なにかが足りないと感じるのは、その事実がしっかりと心に根付いていないからなのでしょう。
せっかく人と生まれ心を与えられたのだから、しっかり感動できる深くまっすぐな心になりたい。心を開きたい。
そう思いました。
人気ブログランキングへ
財政難の役所が運営しているためか全体に整備が行き届いていない感じでどうかと思いましたが、しかしそれでも夏の花々は見事に咲いていて、とくに小雨のなか池から顔をのぞかせているスイレンはとてもきれいでした。
豊かな心を持つ人は、こういう美しいものを見て心から感動するのだと思いますが、私は「きれい」だとは見えても「感動」というのがどういうものか、いま一つ感じられません。
こう、感動が心から、という感じではなく、頭の先で「ああキレイなのね(だから何?)」と思っている、という感じです。
心を与えられていながら感動がないというのは非常に損ですので感動したいと思いますが、こればかりは意思では何ともなりません。
まあもともと感性の深い浅い・鋭い鈍いというのは素質としてあるのだとは思います。しかしそれだけで済むとは到底思えません。
素質というと脳の遺伝的優劣というニュアンスがあると思いますが、それよりも脳をベースにした心という機能(というとフラットな感じですが)のはたらき方の問題があるはずです。
つまりこれまでお伝えしてきたとおり心の奥底のコスモロジーの問題です。
私たちは生まれてこのかた学校教育などで、やはりある一定のコスモロジーを暗黙のうちに教えられ取り込んできました。
詳しくは後で書きたいと思いますが、というかしつこいようですが本家ブログをご覧いただければ明快ですが、ここに大きな問題があったのは明らかだと感じます。
つまり私たちが教わった「戦後教育」のコスモロジーとは、すべてをばらばらの物質にすぎないととらえ、そこには意味も何もない、というものの見方にほかなりません。
もちろん、あまりにミもフタもないのではっきりそう教えられたわけではありませんでしたが、しかし結局そういう結論に行き着くしかない教育内容だったと思います。
皆さんもそうではなかったでしょうか?
(もちろん直接教育の影響だけというわけではありませんが、しかしほぼすべての影響の根底に教育があることは明らかです。)
したがってどれほどきれいな花もただの物質にすぎず、さらにそれを見ている自分の、とりわけ心もまた物質とその作用にすぎないものである、ということになります。
花も自分もただのばらばらの物質に還元され、そこには意味もクソもない、ということになるわけです。
これは現在日本において、世界と自然と人間を見る見方の公式見解の、いろいろ表面のきれいごとを除去した、本音そのものとなっていると思いますが、いかがでしょうか。
(すると「意味もクソもない」という一見刺激的で新しく聞こえた言葉は、時代の常識=正統教義を単にあからさまに語った言葉にすぎなかったことになります。)
こういう見方が心の底に本音として染みついていながら、なおかつ「世界はすばらしい」「花は美しい」と感動するのがほぼ不可能なのは、おそらく理の当然です。
むろんそういうニヒルで冷たくて意味もクソもないというのが世界の真実なのならそれは仕方ないでしょう。
私たちはそういう味気ない砂をかむようなものとしての世界を生きるしかない。花は単に偶然そういうきれいっぽい色形をしてたまたまそこに咲いているが、しかしそれだけだ、と。
ある意味たいへんシンプルです。なにせ「世界はモノだけ」、ですから。
しかしそれははっきりいって19世紀(前前世紀!)までの「近代科学」が明らかにしていた世界像であり、21世紀の現在の時点で、現代科学の成果である最新の世界像からすると、もはやあまりにも古すぎる、としか言いようがないようです。
私たちがはっきり教えられないうちに、いつのまにか、科学の明らかにするコスモロジーが根本的、革命的といっていいほど大きく進化・変容してきているのです。
ポイントは何より「進化」ということですが、宇宙カレンダーを見てすぐわかるとおり、宇宙の進化は事実137億年という想像を絶する時間の積み重ねという流れの中で、しかも文字通り加速度的に進行し現在の私たちに至っています。
その中で花の創発とは意外にも最近(12月28日)の出来事であることが分かっています。それまでの世界には花は存在しなかったのです。
そしてここで生まれた花もまた、「宇宙」の定義上、宇宙の一部であり、また宇宙そのものであるとしか言いようがありません。
恐竜の滅亡と花の創発とがちょうど時期を同じくしているのが示唆的ですが、ほかの例からもわかるとおり、宇宙の進化とは明らかにより複雑で統合的な組織を形作り、より洗練された機能と形態をとるという方向で一貫していると見えます。
それを人間の目という主観から「宇宙はエレガント化している」と語ることは、きれいな詩の言葉というにとどまらず、宇宙的な現実の正確な表現なのではないでしょうか。
逆にこういう(写真のような)花が宇宙に生まれてくるのを単に「偶然だ」と片付けるのは、事態の説明としても解釈としても、じつはとてもうまくありません。
いったいどういう確率の偶然によってこういう花が生まれてくるのでしょう?
しかも自然にはこういう例が満ちあふれています!
また私たち人間とその心も、花と同じく宇宙の進化(=エレガント化)の最先端の成果として生まれてきたものであることは、表現はどうあれ間違いない事実です。
そうしてみると、その私たちの心が感動することそれ自体が宇宙のはたらきである、というのは、これもまたきわめてリアルな事実のとらえ方であることになります。
感動できない、なにかが足りないと感じるのは、その事実がしっかりと心に根付いていないからなのでしょう。
せっかく人と生まれ心を与えられたのだから、しっかり感動できる深くまっすぐな心になりたい。心を開きたい。
そう思いました。
人気ブログランキングへ
三谷さんは、決して感動なさらないかたのようではないですよ。
「眼耳鼻舌身」では、かりに感動なさらないとしても、「意」ではどうでしょう。
137億年の宇宙には感動しますよね。
本家の親父様のお仕事には感動なさっておられるのでは。
>しっかり感動できる深くまっすぐな心になりたい。心を開きたい。
すてきな言葉ですね。私のこころにも反響させました。
いつもコメントありがとうございます。
おっしゃるとおりある程度感動してはいるような気がしてきました。
本家の親父殿の仕事はまっすぐに聴く人が聴けば、見る人が見れば、本当に感動せざるをえないものだと思います。が、正直言ってどうもそこが自分には足りない気がします。しかし教わったことは、感動というのがそれだけであるのではなくて、頭での納得が深まるとハラに落ちやがてハートで感動する、とのこと、今後に期待ということで…
あたりまえのようですが「感動」もひじょうに幅のあるグラデーションなのだと思います。
また心の世界のことなので解釈次第ということろもあると思われます。
だからこそ「感動できない、できない」と言っていてほんとうにそうなってしまうというのはもったいない。
ほんとうにいつもありがとうございます。