世代論を始めるとの当初の意気込みはどこへやら、
ずいぶん更新をご無沙汰してしまいました。
このことに限らないのですが、よくある
「忙しかった」
「話題が無かった」
「モチベーションが出なかった」…
というようなのは、よほどの場合でないかぎり、私をはじめ凡人の場合、たぶん7割くらい言い訳の場合が多いのではないでしょうか。
忙しいようで無駄にしてる時間はかなりあるし、視野が狭くなっているだけで、伝えたいという意志があれば話題など文字通り無限にあるわけだし、だいたいモチベーションなどというものはどっかから自然に湧いてくるのを待っているものではなく、原則的には自分でかきたてるものだったはず。
主体性を取り戻したいものです。
というかそれを再獲得する必要があるのでした。
もちろん単なるアタマの勉強も難しくはあるのですが、それ以上に内面から行動を変容させる作業というのは、何と言うかとっかかりが見つからず、まさに「言うは易し」で実行はちょっと難しいなと感じます。
リラックスひとつとってもなんだか難しい。
書いてあるとおりシンプルにできるといいのですが…できない人間にとっては簡単な入り口そのものが難しく感じられてしまいます。
とはいえ「難しい」という思い自体がことを難しくしてしまっているようにも思われます。まさに分別知。
さて、おとといはスウェーデンに関する書籍、
『スウェーデンの挑戦』岡沢憲芙著、
『人間回復の経済学』神野直彦著
の勉強会に参加してきました。
上記の言い訳により読んでこなかったのですが、ともに要点をかいつまんだ説明により、ポイントをつかむことができたような気がします。
詳細は省きますが(詳細を忘れてしまった言い訳か)、ともかく彼我の圧倒的な差には、何と言うか、驚かされるばかりです。
もちろん、かの国の先進的なバックキャストする社会政策とその成果、対するわが国のフォアキャスト的なていたらくということもあるのですが、それ以前にそういう社会の方向性の背後に働いている集団的な思考のベーシック自体が、考えていた以上に劇的にといっていいほど違っていることに、なんとも驚きを感じました。
それはことばを換えて言えば「イデオロギーの違い」ということになるようです。
「イデオロギー」と聞くと、そんな時代はもう終わった、古臭い、危険だ、といったアレルギー反応が予想されるところで、たしかにそれはよくわかる感じがします。
それはイメージ的には、無数の人間を殺してきたスターリニズムをはじめ、幾多の共産主義‐全体主義の恐怖が、自動的に思い起こされるからなのでしょう。そしてそんなイデオロギー闘争はすでに前の世紀の遺物であると。
しかしそれはことばの定義の問題で、もう少し広げて考えると、私たちを含め言葉の動物である人間は、「イデオロギー」――言い換えれば「思考の枠組み」というか「政治的な考え方のベーシック」――抜きには、そもそも社会全体を構想し、それにもとづいて社会生活を組み立てることすらできない存在なのではないでしょうか。
たとえばこの日本社会に生きていると、どうしても自他を社会的な比較優劣で計ってしまいます。ようするに「競争で勝たなければ」という姿勢が心の奥深くまで染み付いてほとんど無自覚化‐自動化してしまっているわけです。
いまではほんの小さな子供に至るまで競争競争と駆り立てられているようで、私たちのライフスタイルは競争によって根底から規定しているように感じれます。
立ち止まって振り返らないと、あまりにも自明化してしまっているためにほとんどそれと気づくことすら難しかったりしますが、つまりそれほどに私たちの心と行動に深く根を張っているわけです。
そして競争はごく自然・当然であり、疑問に思うこと自体がおかしいと感じられるのではないでしょうか。
「世の中はそういうふうにできていて、国も企業も個人もけっきょく競争の中で他者に勝つべく努力せねばならない。競争こそが人間の能力を伸ばし社会の効率を上げ、市場=世界で勝ち残る力となる。それができないのは怠惰か弱者か負け犬である。それのどこがおかしいのか」と。
ようするに露骨にいえばそれがいまの政治・経済・社会を動かしている「新自由主義」という経済思想であり、それはたしかに広い意味での、私たちの思考と行動を規定しているイデオロギーであるようです。
そうではないでしょうか?
これまではっきりと考えることもなく漠然とそれが世の中の自然であるというふうに思って(というか感じて)いたのですが、しかし今回のスウェーデンについての学びで、すこしそれが相対化‐距離化できたような気がします。
かの国では「社会民主主義」という政治思想(つまりは同じくイデオロギー)にしたがって、前世紀の始め頃より一貫した国づくりをしてきたようで、それにまい進した数々の賢明なリーダー像に、また彼我の差を感じてしまった次第です。
学び自体の本筋とは少し違いますが、新しく私たちが直面している時代の限界=エポックに、「競争主義」ではなく「共同原理」で対応し輝かしい成果を挙げている社会が存在していることは、私たちの骨の髄までといっていいほど染み込んでいる「競争の呪縛」が、じつは生き残りという意味でもほとんど有効性が無い、どころか社会の安定と成長と統合を破壊するものであることに気づかせてくれます。
そして、そのことにほとんど気づかれないままこの社会が危機に向けて驀進していることに、なんだか怖いものを感じました。
ずいぶん更新をご無沙汰してしまいました。
このことに限らないのですが、よくある
「忙しかった」
「話題が無かった」
「モチベーションが出なかった」…
というようなのは、よほどの場合でないかぎり、私をはじめ凡人の場合、たぶん7割くらい言い訳の場合が多いのではないでしょうか。
忙しいようで無駄にしてる時間はかなりあるし、視野が狭くなっているだけで、伝えたいという意志があれば話題など文字通り無限にあるわけだし、だいたいモチベーションなどというものはどっかから自然に湧いてくるのを待っているものではなく、原則的には自分でかきたてるものだったはず。
主体性を取り戻したいものです。
というかそれを再獲得する必要があるのでした。
もちろん単なるアタマの勉強も難しくはあるのですが、それ以上に内面から行動を変容させる作業というのは、何と言うかとっかかりが見つからず、まさに「言うは易し」で実行はちょっと難しいなと感じます。
リラックスひとつとってもなんだか難しい。
書いてあるとおりシンプルにできるといいのですが…できない人間にとっては簡単な入り口そのものが難しく感じられてしまいます。
とはいえ「難しい」という思い自体がことを難しくしてしまっているようにも思われます。まさに分別知。
さて、おとといはスウェーデンに関する書籍、
『スウェーデンの挑戦』岡沢憲芙著、
『人間回復の経済学』神野直彦著
の勉強会に参加してきました。
上記の言い訳により読んでこなかったのですが、ともに要点をかいつまんだ説明により、ポイントをつかむことができたような気がします。
詳細は省きますが(詳細を忘れてしまった言い訳か)、ともかく彼我の圧倒的な差には、何と言うか、驚かされるばかりです。
もちろん、かの国の先進的なバックキャストする社会政策とその成果、対するわが国のフォアキャスト的なていたらくということもあるのですが、それ以前にそういう社会の方向性の背後に働いている集団的な思考のベーシック自体が、考えていた以上に劇的にといっていいほど違っていることに、なんとも驚きを感じました。
それはことばを換えて言えば「イデオロギーの違い」ということになるようです。
「イデオロギー」と聞くと、そんな時代はもう終わった、古臭い、危険だ、といったアレルギー反応が予想されるところで、たしかにそれはよくわかる感じがします。
それはイメージ的には、無数の人間を殺してきたスターリニズムをはじめ、幾多の共産主義‐全体主義の恐怖が、自動的に思い起こされるからなのでしょう。そしてそんなイデオロギー闘争はすでに前の世紀の遺物であると。
しかしそれはことばの定義の問題で、もう少し広げて考えると、私たちを含め言葉の動物である人間は、「イデオロギー」――言い換えれば「思考の枠組み」というか「政治的な考え方のベーシック」――抜きには、そもそも社会全体を構想し、それにもとづいて社会生活を組み立てることすらできない存在なのではないでしょうか。
たとえばこの日本社会に生きていると、どうしても自他を社会的な比較優劣で計ってしまいます。ようするに「競争で勝たなければ」という姿勢が心の奥深くまで染み付いてほとんど無自覚化‐自動化してしまっているわけです。
いまではほんの小さな子供に至るまで競争競争と駆り立てられているようで、私たちのライフスタイルは競争によって根底から規定しているように感じれます。
立ち止まって振り返らないと、あまりにも自明化してしまっているためにほとんどそれと気づくことすら難しかったりしますが、つまりそれほどに私たちの心と行動に深く根を張っているわけです。
そして競争はごく自然・当然であり、疑問に思うこと自体がおかしいと感じられるのではないでしょうか。
「世の中はそういうふうにできていて、国も企業も個人もけっきょく競争の中で他者に勝つべく努力せねばならない。競争こそが人間の能力を伸ばし社会の効率を上げ、市場=世界で勝ち残る力となる。それができないのは怠惰か弱者か負け犬である。それのどこがおかしいのか」と。
ようするに露骨にいえばそれがいまの政治・経済・社会を動かしている「新自由主義」という経済思想であり、それはたしかに広い意味での、私たちの思考と行動を規定しているイデオロギーであるようです。
そうではないでしょうか?
これまではっきりと考えることもなく漠然とそれが世の中の自然であるというふうに思って(というか感じて)いたのですが、しかし今回のスウェーデンについての学びで、すこしそれが相対化‐距離化できたような気がします。
かの国では「社会民主主義」という政治思想(つまりは同じくイデオロギー)にしたがって、前世紀の始め頃より一貫した国づくりをしてきたようで、それにまい進した数々の賢明なリーダー像に、また彼我の差を感じてしまった次第です。
学び自体の本筋とは少し違いますが、新しく私たちが直面している時代の限界=エポックに、「競争主義」ではなく「共同原理」で対応し輝かしい成果を挙げている社会が存在していることは、私たちの骨の髄までといっていいほど染み込んでいる「競争の呪縛」が、じつは生き残りという意味でもほとんど有効性が無い、どころか社会の安定と成長と統合を破壊するものであることに気づかせてくれます。
そして、そのことにほとんど気づかれないままこの社会が危機に向けて驀進していることに、なんだか怖いものを感じました。
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