きのうはサングラハ心理学研究所の公開講座、カウンセリング入門「聴くこと」に参加してきた。
テーマは文字通り“聴くこと”。
ロジャーズ派のカウンセリングは一から十までとにかくいかに相手の気持ちに沿って聴くことができるかどうかがカギであり、簡単なようでいて難しく奥深い、積極的傾聴の理論と実践を学ぶことのできる貴重な機会で、またリラックスした雰囲気で実習できて楽しかった。
意外なのは、こういうカウンセリングの技法は、どう聴くか、どう相手の話を聞き出すか、どういう言葉が相手を癒すのか、という技術のところがメインになるのかと思っていたら、じつはそれは最後に来るものだということだ。
で、一番大切ことは、ロジャーズ自身が強調しているように、そのカウンセリング理論・技法のベースをなす人間観、つまり人間は気持ちを自由に表現し受容することができると、自然に自分自身で成長に向けて歩んでいく存在なのだという、ポジティブでヒューマニスティックな哲学にあるという。
これは、そうした深い人間把握がなければ、いろんなうまいことをいっても結局根拠のないウソになってしまって相手に伝わらない、ということだろうか。
聴く技法とはようするに人格的に身につける「技」なのだと思う。この人間観が心の底まで染みついて行動に表現できるようになって、はじめてその技が生かせるのだろう。そうでなく、アタマで「こうしなきゃいけない」とひたすら聴こうとがんばるのは、たぶんすごく無理がある。
かつてまさにこのようなロジャーズ派を地でいくカウンセリングを受けた経験があるが、年輩の女性のカウンセラーは聴いて相づちを打ってくれるばかりで、かかえていた心理的な問題はさっぱり解決しなかった。
学生相談で無料で聴いてもらったので悪いことは言えないけど、あれはいったい何だったのだろう? なんだか暖簾に腕押しというか、話しても話しても優しい相づちが帰ってくるばかりで手応えのない感じだった。
積極的傾聴とは、相手に寄り添って、積極的に関心を持って聴くこと、しかも聴けないような自分の思いや感情のホンネを抑圧することなく、自分のほうに話を取ることなく、相手の世界に入るかのように聴くことだという。これはかなり難しい。
もちろん日常のコミュニケーションはカウンセリングではないのだからそこまでやる必要はないのだろうけど、しかしこういうふうに「聴きあう」ことができたら、きっと日頃何気なくやっているコミュニケーションが、もっと深く楽しいものになるだろうと思われた。
で、その傾聴は、考えてみれば当たり前だけれども語る側の自己表現がなければなりたたない。
自己抑制的な日本の風土で育ち、またこういうヒューマニスティックなタテマエをたぶん教育で身につけてきたぼくらは、つい「優しく相手のいうことを聴き、あつかましい自己表現は抑えること」というようなコミュニケーションの姿勢を取りがちだ(いや、これは単に自分の問題を一般化しているだけかもしれない)。
で、妙な気遣いで会話はとぎれがち、コミュニケーションは深まらず、ということになりがちではないだろうか?
なんだか自己表現ということにすごくブレーキがかかっている気がするのだ。
しかし、そもそも自己表現のないコミュニケーションなどありえないのだった。
もし自己表現をしない人たちの集団があったとすると、なんだかそれはすごく奇妙で不自然なものに違いない。
ようはバランスの問題なのだと思う。
傾聴と同じぐらい、自己表現も大切にしたいと思った。
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テーマは文字通り“聴くこと”。
ロジャーズ派のカウンセリングは一から十までとにかくいかに相手の気持ちに沿って聴くことができるかどうかがカギであり、簡単なようでいて難しく奥深い、積極的傾聴の理論と実践を学ぶことのできる貴重な機会で、またリラックスした雰囲気で実習できて楽しかった。
意外なのは、こういうカウンセリングの技法は、どう聴くか、どう相手の話を聞き出すか、どういう言葉が相手を癒すのか、という技術のところがメインになるのかと思っていたら、じつはそれは最後に来るものだということだ。
で、一番大切ことは、ロジャーズ自身が強調しているように、そのカウンセリング理論・技法のベースをなす人間観、つまり人間は気持ちを自由に表現し受容することができると、自然に自分自身で成長に向けて歩んでいく存在なのだという、ポジティブでヒューマニスティックな哲学にあるという。
これは、そうした深い人間把握がなければ、いろんなうまいことをいっても結局根拠のないウソになってしまって相手に伝わらない、ということだろうか。
聴く技法とはようするに人格的に身につける「技」なのだと思う。この人間観が心の底まで染みついて行動に表現できるようになって、はじめてその技が生かせるのだろう。そうでなく、アタマで「こうしなきゃいけない」とひたすら聴こうとがんばるのは、たぶんすごく無理がある。
かつてまさにこのようなロジャーズ派を地でいくカウンセリングを受けた経験があるが、年輩の女性のカウンセラーは聴いて相づちを打ってくれるばかりで、かかえていた心理的な問題はさっぱり解決しなかった。
学生相談で無料で聴いてもらったので悪いことは言えないけど、あれはいったい何だったのだろう? なんだか暖簾に腕押しというか、話しても話しても優しい相づちが帰ってくるばかりで手応えのない感じだった。
積極的傾聴とは、相手に寄り添って、積極的に関心を持って聴くこと、しかも聴けないような自分の思いや感情のホンネを抑圧することなく、自分のほうに話を取ることなく、相手の世界に入るかのように聴くことだという。これはかなり難しい。
もちろん日常のコミュニケーションはカウンセリングではないのだからそこまでやる必要はないのだろうけど、しかしこういうふうに「聴きあう」ことができたら、きっと日頃何気なくやっているコミュニケーションが、もっと深く楽しいものになるだろうと思われた。
で、その傾聴は、考えてみれば当たり前だけれども語る側の自己表現がなければなりたたない。
自己抑制的な日本の風土で育ち、またこういうヒューマニスティックなタテマエをたぶん教育で身につけてきたぼくらは、つい「優しく相手のいうことを聴き、あつかましい自己表現は抑えること」というようなコミュニケーションの姿勢を取りがちだ(いや、これは単に自分の問題を一般化しているだけかもしれない)。
で、妙な気遣いで会話はとぎれがち、コミュニケーションは深まらず、ということになりがちではないだろうか?
なんだか自己表現ということにすごくブレーキがかかっている気がするのだ。
しかし、そもそも自己表現のないコミュニケーションなどありえないのだった。
もし自己表現をしない人たちの集団があったとすると、なんだかそれはすごく奇妙で不自然なものに違いない。
ようはバランスの問題なのだと思う。
傾聴と同じぐらい、自己表現も大切にしたいと思った。
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あ、ブログ引っ越されたのですね。それではちょっとそちらにお邪魔したいと思います。
たしかにそうですね。
カウンセリング的な傾聴というのはふつうに自分が日常やっているコミュニケーションからすれば難しく感じてしまうのですが、たぶん身についてみれば自然にできるものなのではないかと思います。ぜひそうなりたいものです。
また「難しい」とセルフトークすることは、心にとってじっさいに事態を難しくしてしまうだけなので、「そんなの楽勝」くらいに思っておいた方がお得にちがいない。
たしかに耳は聴いてはいるのだけど、脳内変換・理解するのが難しい、そこが問題ですね。いやいや、楽勝楽勝。
ただ、聴いて脳内変換、つまり、自分の言葉に変換して理解をする事が難しいのかも…って思ってますって、type1974さんが言いたい事とは違うかも知れないけれども……。
それはそうと、ブログ、引っ越しました。
今後ともよろしくお願いします☆
いや、ほんとに難しいなと、僕も思いました。なんか、つい自分のことを話しちゃうんだよね。これはぜひ身につけたい課題。
さて、いろいろおつかれさまですが、MDの件、どうかよろしくでございます。
いや~、難しい!って思います。ほんとに!