きょうは故あって、いわゆる「心身(心脳)問題」に関する論文を読んだ。
ようするに心と脳みそはどのような関係にあるのかというのがその主題なのだが、正直言ってすごく退屈でつまらない。
平面的な知識の列挙に終始し、結局いまの趨勢・総論的にはこうですね、みたいなしっくりしない結論で終わってしまっている印象だ。
そう論ずることが、ぼくらの生きている問題にどうリンクするのか?
このホットな話題でもうちょっと面白く書けないものなのか?
しかしこれは自分のかなり狭い“参照枠”からの感想にすぎない。
建設的であるためには、それがどう妥当性が低いのか、それに対してどういう考え方がより包括的で有効なのかという代案を示す必要があると思う。
問題は、心ということを扱い「これが答えだ」と宣言しているように見えて、神経生理学をメインとした外面からの観察とアプローチのみで内面のリアリティを把握できるとしてしまっていることだ。
それはそれで貴重な外面的現象の観察・洞察なのだろうけど、しかしそれがすべてであって、内面というものは結局脳が見せる幻にすぎないと言外に結論しているのは明らかだ。
その分野の限りある知見から述べていることはたぶん正しい。
しかしそれを踏み越えてそういった外面的観察に現れたものが心のリアリティのすべてだとしている点は、行き過ぎだとしかいいようがない。
また精神/霊性に関する議論を、知的な理性レベルの認識と一緒くたにして平面化してしまっている。
人間に不可欠な内面というものが脳機能(どれほど高度かつ精緻であっても)に付随する現象にすぎないことにされているため、心が行う認識の深浅・レベルという肝心の問題意識が欠落しているのだと思う。
そのレベルの深みということに関する議論における肝心なポイントが言葉を超えた直接経験にあるというのは、厖大な文献的証拠・臨床例にもとづく結論であって、このテーマをとりあげるかぎり到底見過ごすことはできないはずなのだが、霊魂・精神ということにある種の断定を加えようと試みているこの論文がそのことに一切言及していないのは奇妙に見える。
さらに、それにとどまらず霊性とは言葉による知的な普遍概念(にすぎないもの)であることにしてしまっているのである。
しかも、それは高尚ではあるけれども西欧に特殊な哲学的議論であって、つまり要するに幻想にすぎず、それに対し言語以前の生々しく荒々しい身体、とりわけ“心の座”である脳みその活動こそがよりリアルで本質的であると結論づけていると思われる。
そして、さまざまな事物や情報とのネットワークの中にある“生きている脳”に起こる観察可能な現象こそが、とりもなおさずイコール“心”なのだとしている。
これを、過去の単純な「臓器としての脳がすべてのリアリティを生み出す」というような粗雑な還元主義を超える新しい視点として、この筆者は打ち出し対置しているらしい。
その上でいろいろな立場を列挙しているものの、結局のところ精神や内面になんらかのリアリティを認めるそれらすべての説を、単純な心身二元論的な錯誤であり幻想にすぎないと言っているようだ。
それに対して言いたいのは、外面的な脳機能に基づきながら本質的にそれに還元できない性質を持つぼくらの心=内面を、どれほど枠がネットワーク的・平面的に拡大されたとはいえ、やはり外面的な相関物である何かに畳み込んでしまっているという意味で、これは昨今の知的流行である新手の微妙な還元主義の線に沿った議論であると、これまで学んだ枠内からは判断せざるを得ないということだ。
ようするに心/内面に関するはずのほとんどの記述が、見事に典型的に外面的・平面的・独白的であること、しかもそれが人の心に関するすべてであると安易に断じてしまっていることが問題であると言いたい。
以上はほぼ完全にケン・ウィルバー思想の枠組みによる受け売りを述べたものにすぎないが、しかしより包括的で思想としての有効性があるという意味で、やはりその視点の方が正しいと思う。
さて、結局ここでの問題は「内面のリアリティの論証」ということになると思う。
悲しいかな、肝心のそこがまだしっかりと頭に入っていないようだ。
ウィルバーの四象限のイメージと「マイナスの平方根が外面世界を走り回っているのを見た者はいない」というような気の利いたセリフが思い浮かぶが、内面の論証ということが能動的記憶として、まだはっきり言葉になっていないような気がする。
しかし「おれたちの心ってのはとどのつまり脳みその生み出す幻なんだろ」というような退屈な、しかし本質的に生きる勇気をくじかせるようなクールで乾いた言説に抗するためには、何よりそこが肝心なのだ。あらためてしっかりその点を学びたいと思った。
さて、この論文についてずいぶん貶してしまったが、しかし私たちに決定的な影響を与えている外面のネットワーク的影響関係、つまり私たちはあらゆる点で縁起的存在であるというのは、その限りではとても重要な洞察だし、また足りない知識を補う上でも、また現行の思潮の趨勢を知る上でも、そう意識すれば学ぶところは多いはずだ。
そう思ったほうがお得だし。
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ようするに心と脳みそはどのような関係にあるのかというのがその主題なのだが、正直言ってすごく退屈でつまらない。
平面的な知識の列挙に終始し、結局いまの趨勢・総論的にはこうですね、みたいなしっくりしない結論で終わってしまっている印象だ。
そう論ずることが、ぼくらの生きている問題にどうリンクするのか?
このホットな話題でもうちょっと面白く書けないものなのか?
しかしこれは自分のかなり狭い“参照枠”からの感想にすぎない。
建設的であるためには、それがどう妥当性が低いのか、それに対してどういう考え方がより包括的で有効なのかという代案を示す必要があると思う。
問題は、心ということを扱い「これが答えだ」と宣言しているように見えて、神経生理学をメインとした外面からの観察とアプローチのみで内面のリアリティを把握できるとしてしまっていることだ。
それはそれで貴重な外面的現象の観察・洞察なのだろうけど、しかしそれがすべてであって、内面というものは結局脳が見せる幻にすぎないと言外に結論しているのは明らかだ。
その分野の限りある知見から述べていることはたぶん正しい。
しかしそれを踏み越えてそういった外面的観察に現れたものが心のリアリティのすべてだとしている点は、行き過ぎだとしかいいようがない。
また精神/霊性に関する議論を、知的な理性レベルの認識と一緒くたにして平面化してしまっている。
人間に不可欠な内面というものが脳機能(どれほど高度かつ精緻であっても)に付随する現象にすぎないことにされているため、心が行う認識の深浅・レベルという肝心の問題意識が欠落しているのだと思う。
そのレベルの深みということに関する議論における肝心なポイントが言葉を超えた直接経験にあるというのは、厖大な文献的証拠・臨床例にもとづく結論であって、このテーマをとりあげるかぎり到底見過ごすことはできないはずなのだが、霊魂・精神ということにある種の断定を加えようと試みているこの論文がそのことに一切言及していないのは奇妙に見える。
さらに、それにとどまらず霊性とは言葉による知的な普遍概念(にすぎないもの)であることにしてしまっているのである。
しかも、それは高尚ではあるけれども西欧に特殊な哲学的議論であって、つまり要するに幻想にすぎず、それに対し言語以前の生々しく荒々しい身体、とりわけ“心の座”である脳みその活動こそがよりリアルで本質的であると結論づけていると思われる。
そして、さまざまな事物や情報とのネットワークの中にある“生きている脳”に起こる観察可能な現象こそが、とりもなおさずイコール“心”なのだとしている。
これを、過去の単純な「臓器としての脳がすべてのリアリティを生み出す」というような粗雑な還元主義を超える新しい視点として、この筆者は打ち出し対置しているらしい。
その上でいろいろな立場を列挙しているものの、結局のところ精神や内面になんらかのリアリティを認めるそれらすべての説を、単純な心身二元論的な錯誤であり幻想にすぎないと言っているようだ。
それに対して言いたいのは、外面的な脳機能に基づきながら本質的にそれに還元できない性質を持つぼくらの心=内面を、どれほど枠がネットワーク的・平面的に拡大されたとはいえ、やはり外面的な相関物である何かに畳み込んでしまっているという意味で、これは昨今の知的流行である新手の微妙な還元主義の線に沿った議論であると、これまで学んだ枠内からは判断せざるを得ないということだ。
ようするに心/内面に関するはずのほとんどの記述が、見事に典型的に外面的・平面的・独白的であること、しかもそれが人の心に関するすべてであると安易に断じてしまっていることが問題であると言いたい。
以上はほぼ完全にケン・ウィルバー思想の枠組みによる受け売りを述べたものにすぎないが、しかしより包括的で思想としての有効性があるという意味で、やはりその視点の方が正しいと思う。
さて、結局ここでの問題は「内面のリアリティの論証」ということになると思う。
悲しいかな、肝心のそこがまだしっかりと頭に入っていないようだ。
ウィルバーの四象限のイメージと「マイナスの平方根が外面世界を走り回っているのを見た者はいない」というような気の利いたセリフが思い浮かぶが、内面の論証ということが能動的記憶として、まだはっきり言葉になっていないような気がする。
しかし「おれたちの心ってのはとどのつまり脳みその生み出す幻なんだろ」というような退屈な、しかし本質的に生きる勇気をくじかせるようなクールで乾いた言説に抗するためには、何よりそこが肝心なのだ。あらためてしっかりその点を学びたいと思った。
さて、この論文についてずいぶん貶してしまったが、しかし私たちに決定的な影響を与えている外面のネットワーク的影響関係、つまり私たちはあらゆる点で縁起的存在であるというのは、その限りではとても重要な洞察だし、また足りない知識を補う上でも、また現行の思潮の趨勢を知る上でも、そう意識すれば学ぶところは多いはずだ。
そう思ったほうがお得だし。
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