これを幻影にとどめず、対応する外面の経済・社会的な証拠によって現実世界に繋ぎ止めうるのが、鬼頭氏が提示している江戸システムだと言いたい。鬼頭氏は本書によって、いみじくも渡辺氏が述べている「彼らの第一印象の網にかかった…高度で豊かな農業と手工業の文明、外国との接触を制限することによって独特な仕上げぶりに到達した一つの前工業化社会の性格と特質」を、「国民、生産物、商業、法律等々についての正確な情報」を駆使することによって明らかにしている。とりわけ、渡辺氏は、近代化以前の日本庶民の幸福な相貌――前個的段階として、ある意味で子どもじみてもいた、罪のない「阿呆面」――とは、共同体的段階にある社会の普遍的特徴、換言すれば人類の「古き良き時代」の一般的な心性であるとしていた。しかし本書の文明システムの視点からすれば、その幸福とは「初期近代(アーリィ・モダン)としての近世」という発展段階に到達していた江戸文明における、庶民の生活水準の反映でもあったことが、具体的に理解できる。このことはまた、渡辺氏の描き出した江戸文明の「面影」への疑念を払拭し、それが理想化などではなく、統計的・数値的証拠が裏付ける正当な称賛であったことを納得させるに足るものがある。
では、「文明としての江戸システム」建設の原動力は何であったのか。本書はそれを、一に市場経済化・経済社会化にあったとしている。
日本においては、勤勉のエートスを支えたのは宗教ではなかったであろう。…勤勉を植え付けた原動力は、自由な労働と市場経済の浸透にこそあったとみるべきであろう。それはヨーロッパについてもあてはまるのである。アダム・スミスが…「自己愛」こそが人を仕事に駆り立てる原動力であると指摘したことを思い浮かべればよい。(二七三頁)
短い記述だが、著者の内なる史観を図らずも露呈していると見える。これは、現在私たちが生きている資本主義社会の主流の価値観に完全に整合する歴史観に他ならない。さらにケン・ウィルバーの四象限説(概要は本号の増田氏論考を参照)から見るならば、これはリアリティの四分の一である右下象限、さらにそのうちのわずかに経済社会システムというラインに特化した歴史叙述である。本書はその範囲での貴重な展望をもたらしている。しかしその上で、なぜそう「みるべき」か、疑われざる真理として扱われていることに注目したい。世界の不可分の半面・内面象限が捨象され、意味も深みも見事に欠いた、モノとシステムだけの「平板な世界(フラットランド)」(ウィルバー)がここにある。しかし、果たして歴史とはそれだけのものなのか。
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