先日書いたように、いちおう時間があればなるべく坐禅をするようにしている。
最近仕事がわさわさしているので、面倒くさくなって怠ってしまうこともしょっちゅうだが、それでもなんとか習慣化してきていて、一日40分、可能なら60分坐るようにしている。それにしても、曲がりなりにもこれをはじめて四年くらいになるのだ!
本当なら禅寺に通って気合いを入れてやるところなのだろうけど、そこまではまだちょっとということで、とりあえず自宅の畳の上で。
ひじょうに残念なのは、まだまだ意識変容の入口にも至っていないことだ。
調身・調息・調心ということで、それ以前の身体と息がまだまだぎこちなく緊張している感じがする。
方法としては数息観、つまり息を数えていくのだが、いまだに10を数えるのも覚束ない。現状はこんなものだ。
ううむ、スポーツと同じで、うまくなれるような練習がしたいもの。
坐禅に限らず、こういう瞑想系の実践というのは、例のオウム事件やらなんやらの影響か、一般的には宗教がらみで怪しいという印象を持たれがちだと思う。
それに関してはいろいろ言いたいことがあるような気がするけど、とりあえずはたからどう思われようと、これだけはしっかりやっていきたいと思う。
というのは、そういういわゆる宗教的なもろもろを取っ払っても、坐禅は方法として人間的成長には必須だと思うからだ。
“覚り”について、ともかくいろいろ聞いている限りでは、日常の意識の枠組みをはるかに超えたものであるのは確実らしい。何せぼくらのいまこうやっている日常の意識が錯覚であると、その境地からすれば見えてしまうらしいのだ。
そのことについては、この日常のふつうの意識の側からすれば文字通り想像を絶したものなのだから、その体験に至るまでは、どこまでもそれに似たものをアタマに思い浮かべるしかないのだろう。
実践抜きでは、これについてどううまいこと語ろうとも、結局のところ海を見たことのない人間の海談義のような“ウソ”になってしまうにちがいない。
けれども、遠いにしても明確な目標を置くことは、道を歩む上ではぜひ必要だろう。そこをしっかりわきまえて、学び・語ればいいのだと思う。しかしなんと逆説的だけどシンプルな目標! やはりぜひとも実践したいと思わされる。
それよりも現状で気になるのは、息を一から十まで数えるというある意味超簡単な課題であるにもかかわらず、意識を集中するのがいかに難しいかということ。これはほんとうに難しい。
いろんな思い、とりわけ言葉、つまりはセルフトークが絶えず巡っていて、気づけばそれにどっぷり浸かってしまっている。坐禅をやっているつもりの時間の大部分はそっちにとらわれてしまっている、というのが恥ずかしいけれども偽らざるところだ。
煩悩といえばまさにそうなのだろうが、しかしこれはちょっと坐ってみてはじめてそう気づくということにすぎず、ようするにこの自分の日常意識というのはそういう自動化してどっぷり浸かってしまっているような思いそのものの連続、ということなのだろう。
ふつうに「これは俺の自由な意識」と思っているものが、そんな湧き上がっては循環している、たいていろくでもない思いに翻弄されていて、じつは全然自由ではないものだと自覚できただけでも、とりあえずめっけものというところだろうか。
そうして湧き上がってくる思いというのは、まず人間関係のことがいちばん多い気がする。それから仕事のこと、心配事、欲求、メディアで取り入れた情報のこと…等々。ようするに日常何気なく思い受け取っているものの集積であるような感じだ。
日常の意識というものが、とりあえずそこだけ見ればそんなふうにある意味単純なものであるのなら、いわゆる“マインドコントロール”だとか“洗脳”とか恐ろしげに語られていることが、案外かんたんにできてしまうのではないかと思えてしまう。要するに情報を取り入れるようにしむければいいわけで。
だとすれば、よりよい情報を取り入れるかどうかは、結局のところ自分の責任であるわけだ。しっかり自分のマインドをコントロールしていこう。
…ということはともかく、とにかくそんなふうな思いに振り回されることをできるだけすくなく、とりあえず10数えることができますように! いつまでも素振りだけの野球の練習なんてイヤだから。
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最近仕事がわさわさしているので、面倒くさくなって怠ってしまうこともしょっちゅうだが、それでもなんとか習慣化してきていて、一日40分、可能なら60分坐るようにしている。それにしても、曲がりなりにもこれをはじめて四年くらいになるのだ!
本当なら禅寺に通って気合いを入れてやるところなのだろうけど、そこまではまだちょっとということで、とりあえず自宅の畳の上で。
ひじょうに残念なのは、まだまだ意識変容の入口にも至っていないことだ。
調身・調息・調心ということで、それ以前の身体と息がまだまだぎこちなく緊張している感じがする。
方法としては数息観、つまり息を数えていくのだが、いまだに10を数えるのも覚束ない。現状はこんなものだ。
ううむ、スポーツと同じで、うまくなれるような練習がしたいもの。
坐禅に限らず、こういう瞑想系の実践というのは、例のオウム事件やらなんやらの影響か、一般的には宗教がらみで怪しいという印象を持たれがちだと思う。
それに関してはいろいろ言いたいことがあるような気がするけど、とりあえずはたからどう思われようと、これだけはしっかりやっていきたいと思う。
というのは、そういういわゆる宗教的なもろもろを取っ払っても、坐禅は方法として人間的成長には必須だと思うからだ。
“覚り”について、ともかくいろいろ聞いている限りでは、日常の意識の枠組みをはるかに超えたものであるのは確実らしい。何せぼくらのいまこうやっている日常の意識が錯覚であると、その境地からすれば見えてしまうらしいのだ。
そのことについては、この日常のふつうの意識の側からすれば文字通り想像を絶したものなのだから、その体験に至るまでは、どこまでもそれに似たものをアタマに思い浮かべるしかないのだろう。
実践抜きでは、これについてどううまいこと語ろうとも、結局のところ海を見たことのない人間の海談義のような“ウソ”になってしまうにちがいない。
けれども、遠いにしても明確な目標を置くことは、道を歩む上ではぜひ必要だろう。そこをしっかりわきまえて、学び・語ればいいのだと思う。しかしなんと逆説的だけどシンプルな目標! やはりぜひとも実践したいと思わされる。
それよりも現状で気になるのは、息を一から十まで数えるというある意味超簡単な課題であるにもかかわらず、意識を集中するのがいかに難しいかということ。これはほんとうに難しい。
いろんな思い、とりわけ言葉、つまりはセルフトークが絶えず巡っていて、気づけばそれにどっぷり浸かってしまっている。坐禅をやっているつもりの時間の大部分はそっちにとらわれてしまっている、というのが恥ずかしいけれども偽らざるところだ。
煩悩といえばまさにそうなのだろうが、しかしこれはちょっと坐ってみてはじめてそう気づくということにすぎず、ようするにこの自分の日常意識というのはそういう自動化してどっぷり浸かってしまっているような思いそのものの連続、ということなのだろう。
ふつうに「これは俺の自由な意識」と思っているものが、そんな湧き上がっては循環している、たいていろくでもない思いに翻弄されていて、じつは全然自由ではないものだと自覚できただけでも、とりあえずめっけものというところだろうか。
そうして湧き上がってくる思いというのは、まず人間関係のことがいちばん多い気がする。それから仕事のこと、心配事、欲求、メディアで取り入れた情報のこと…等々。ようするに日常何気なく思い受け取っているものの集積であるような感じだ。
日常の意識というものが、とりあえずそこだけ見ればそんなふうにある意味単純なものであるのなら、いわゆる“マインドコントロール”だとか“洗脳”とか恐ろしげに語られていることが、案外かんたんにできてしまうのではないかと思えてしまう。要するに情報を取り入れるようにしむければいいわけで。
だとすれば、よりよい情報を取り入れるかどうかは、結局のところ自分の責任であるわけだ。しっかり自分のマインドをコントロールしていこう。
…ということはともかく、とにかくそんなふうな思いに振り回されることをできるだけすくなく、とりあえず10数えることができますように! いつまでも素振りだけの野球の練習なんてイヤだから。
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>偏屈なようですが、最近はNHKすら見る気がしません。
気持ち的には何となくわかるような気もします。
個人的には、NHKは結構がんばってるなぁという気がするので好きなのですが、影響の大きいメディアの責任は大きいですよね。
どんな情報をどんな意図を持って流すかで、一般人の(自分も含めて)世界の捉え方が大きく変わってしまうように感じます。
そこが凄いところでもあり、危険なところでもあるかな~
何にせよ、より人が幸せになれるような情報を流してほしいな
雑草だらけのワイルドな庭もいいかも?
そうですね、好き勝手に種を蒔かれてしまっているというのは、本当にそう思います。大量の情報は渦巻いているけれども、いい情報というのは実に少ないように見えます。偏屈なようですが、最近はNHKすら見る気がしません。なので人と会話がかみ合わないことがしばしば。取り入れたくない情報を遮断しつつ有効に取捨選択するというのは、普通に生きているとなかなか難しい。せめていい種を植える方、がんばりたいですね!
「庭」というのがとてもすてきな表現ですね。ヴェルサイユ宮殿の庭でも禅寺の石庭でも、自分なりのいい庭にしたいものです。まちがってもゴミ屋敷の庭にはせぬよう…まずは片づけから、かな。
いつの間にか取り入れている情報の影響力って、ふとした拍子に気がつくと馬鹿にならないほどの影響がありますね・・(気づいていない時は特に)
自分の意識(カルマ)の庭の中に、雑誌やらテレビやらから、いつの間にか好き勝手に種を蒔かれちゃうような感じかな。
大量の情報が渦巻く中、自分の好きな花のタネだけを自分の意識の庭に残すのはなかなか大変ですが、
そうできるようになって自分の思い通りの庭を簡単に作れるようになったら人生ますます素敵になるでしょうね
がんばりましょうね、お互い
コメントいつもありがとうございます!
坐禅、しっかりやっていきたいですね。
正直なところ、現状はまねごとみたいなものですが、よりうまくなりたいなというので書きました。
ともに学ぶことができるってのはじつに楽しそうで刺激になりそうです。
この歳になってそういうことができるというのは嬉しいことです。学生時代はそれができなかったのを取り戻せるとしたら何より。
たしかに時間は厳しいが、何かはできるはず、ということで。
あ、りょうさんのブログ、2位ですね! やりましたね!
私も表題に同感です。
かなり坐ってるじゃないですか!?
やりますね~!!
私の場合は立場上、それ(坐禅)を、看板にせねばならぬのに情けない限りです。
ともに学びともに実践することの効果は絶大です。
可能な限りみんなでやりたいですね。
宗門ではみんなの力のことを「大衆の威神力(だいしゅのいじんりき)」という言葉を頻繁に用います。
コメントまことにありがとうございます。
禅も弓道も茶道も、日本の伝統ということでひじょうに通じるものがありますね。しかしそのどれも、ぼくらは本当に教わってこなかったのだなと思わされます。大切なものと断絶してしまっているのだなと。
時間もヒマもなく、いや~わかります。自分はまだ独り暮らしだからいいようなものの、それでももっと時間があったらなと思うのですから、ご家族がおありだともっとままならないでしょうね。でもきっと独りとは別の充実がおありだと思います。
たしかに、言い訳はいろいろあるにしても、五分座れないということはないはず。そうですね!
自分も妄想・空想はまっています。いまはドイツ軍機です…
>コスモロジーちゃん
隊長、訓辞ありがとうございます。
無線連絡いただいたのに、出動できず残念でありました。
どんなにわずかでも、積み重ねたいと思います。みんなで坐れると楽しそうですね。
どんなにわずかでも、坐るというカルマは必ず種子となってアーラヤ識に溜まりますからね。
弓道や茶道って、あのピンと張りつめた空気がスキなんですがね、なかなかする暇や¥が無いので結局やらずじまい……。
まぁ、老後の趣味にでもしますよ。
暇が無くても瞑想はいつでも出来ると思いますので、時間がある時に5分でも集中してみてはどうかな、って思います。
また、生意気な事を言って申し訳ないです。
ちなみに私はバスに乗ってる時に空想?妄想?したりしてます。あまり意味はないけれど……。