〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

先ず当に大悲心を

2008-08-22 | Weblog
ずっと中断してきていましたが、ここへきてやっぱり坐禅をやらなきゃだめだなと感じています。というか、だめというのは非論理的で、べつに生きている限りそれでいいとは言えますが、しかし「この程度」で終わってしまうのがいやなら、やはりこれではだめだ、ということにならざるを得ない。

息を数える(数息観)のが十どころか五も続かない、息を整えるのができない、こんなのでどれほどやったって上達のめどがない、ということで、はっきりいってやっていられないと嫌気がさしあきらめていたのですが、やっぱりこれをやらない手はないなと。
(しかしもうちょっとやりやすくならないかなと思います。率直に言って一般人には敷居が高すぎです)

いろいろ困難はありますが、しかしやらない理由にはなりません
瞑想にも上手い下手ということがあるのは当然で、私はたぶん非常に後者です。が、それでもやらない理由にはならない。

ともかく言葉に踊らされてしまっているわけです。
人によるのだと思いますが、私は息を十数えるのがいまだに困難です。いろんな思いに左右に引き回されてしまう。

十も数えられない…これには愕然とします。
これほどということは、はたして普段自分は「言葉で考えている」のか、それとも「言葉に考えさせられている」のか。
自分で主体的に考えているようで、湧いてくる考えに踊らされているというほうが実際のところはるかに強いのではないか…すくなくともそのことはわかりました。

しかもその思いというのがたいていろくなものじゃない。
せせこましい身辺のことだとかなんだとか、こんな思考内容で私は四六時中やっているのかと、ちょっと心配になってきます。

ひじょうにせまい。コスモロジーとか日本をどうこうとかアタマの先で言っていながら、普段の考えの内容は大部分そんなもんだ。だから書いていることがわれながらウソくさく感じてしまう。まして持続可能な社会にははるかに遠い。

以前サングラハの金曜講座(渋谷区の不二禅堂というところで今も定期開催しています)で『坐禅儀』という禅宗の古典を学んだのですが、その冒頭の句にいきなり「(坐禅によって智慧を学ぼうとするなら)先ず当に大悲心を起こし」とあります。これはかっこいいけど厳しい言葉です!

私が清くなりたいとか私が心豊かになりたいとかをすっとばして、いきなり大きな慈悲の心を持つべし、壮大なビジョンを描け、大志を抱け、と。

これはすごい。たしかに厳しく、現状いかにそこから遠いことか、を上記の現状から実感しまくりですが、しかしつまり「坐禅によってそうなれる」ということなので、やはりやらない手はない、ということになります。

しかしわずかに呼吸を十数えられるようになるだけでもずいぶん違うはず…心の健康にもきっと(副次的ですが)効果があると思います。
皆さんもご一緒にいかがでしょうか?

「大悲心」はそちらのほうに向く遠い目標として、まずはその程度のところからとっかかろう。
餌を目の前に垂らせば、好きなように走り回る「心猿意馬」もある程度手なづけられるかもしれない。


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2 コメント

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気づきが大切ですね (本家の親父)
2008-08-22 22:23:07

 「自分で主体的に考えているようで、湧いてくる考えに踊らされているというほうが実際のところはるかに強いのではないか…すくなくともそのことはわかりました。」とのこと。

 その気づきが大切で、そこが本当のスタートではないでしょうか。

 これで、いよいよ本当・本気のスタートが切れますね。めでたい!
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Unknown (三谷)
2008-08-25 02:38:21
本家の親父殿

コメントありがとうございます!
たしかにまだまだここがスタート地点、
頑張りたいと思います。
それにしても坐禅はちょっとむずかしいと感じます。
…がそれもやらない理由にはならない、ということですね。
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