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書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著) 4

2017-08-21 | 書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著)

 このように、本書のテーマである江戸時代を通じての持続的な経済成長と、特に中後期の「豊かな成熟社会」の実現とは、何より生存環境の改善を示す人口動態面の明らかな指標によって基礎的に裏付けられているのである。
 また、「明治十九年(一八六六年)に初めて作られた一歳ごとの人口統計(日本帝国民籍戸口表)によって出生数を遡及推計してみると、出生率は明治になってから急に上昇したのではなく、一八二〇年代以降、徐々に上昇していったことを示している」(一〇九頁)とあるとおり、長い人口停滞期の後、開国のかなり前にすでに人口が再び成長を始めていた。「この時期に始まった人口成長は、文政期に始まる幕末の経済成長と関連して起きたものであり、明治以後の持続的成長へとつながっていく」ものであったという。短い指摘だが、このことはいわゆる明治維新による江戸時代と近代日本の断絶を再考する上で重要だと思われる。平和な成熟社会と日本の近代の躍進との間に、集団的な内面のエートスという面だけでなく、外面的な生産力という面においても連続性を窺わせるからである。

人間を取り巻く環境

 本書はまた、現在私たちが見ている日本の国土の姿の基本がこの時代に作られてきたことを明らかにしている。江戸時代前期には、人口の急成長と歩調を合わせ、大規模な新田開発や河川改修、干拓等の空前の国土開発ブームが続き、これによる耕地面積の拡大に伴って、全国総石高も急増したのであった。そして十八世紀以降、人口成長の停滞と軌を一にして耕地面積の拡大や石高もまた停滞を見せる。
 しかし、ここでも停滞は表向きであり、「推計された実収石高は幕府の把握した全国石高(表高)を…天保期で二二パーセント、明治初期では四五パーセントも上回る結果となった」(一二九頁)のであり、「人口も耕地も増加が小さかった十八世紀にも、実収石高は三〇パーセントも増加している」(一三〇頁)とあるように、公式数値である表高に対して、実際の実収石高は着実な成長を見せていたことが示される。そして、「これらの背景には裏作やの普及や土地生産性の向上によって食用作物の生産高が上がったことに加え、製造業の発展にともない、生糸・綿・菜種・藍・紅花・タバコなどの商品作物の生産が急成長していたという時代状況があった」(一三〇頁)。このように、江戸時代中期以降には、農業生産に限ってみても、農民に余剰が生まれる状況が「豊かな停滞社会」実現の前提として存在していたのである。加えて後述するようにこの時期は農村における加工業・非農業生産が盛んになった時代であった。
 また、江戸時代前期の人口・経済の急成長期に行われた大規模開発は、木材を大量に消費し、各地で森林資源の枯渇ばかりか、山林の保水力低下による水害多発などの災害をもたらした。本書は、こうした事態に対応して幕府・諸藩が中・長期的政策として森林資源の回復と維持を図り、これが江戸時代中期以降になって実現されたことを示し、それを可能にした最大の要因が、この時期の「豊かな停滞」による生態学的均衡にあったとする。「何よりも森林への負担を減じるうえで大きな役割を持ったのは、人口の停滞という条件であった。人口停滞の実現と、節約という欲望の抑制が、森林にかぎらず環境資源に対する総需要を抑制し実現するうえで、江戸システムの維持を実現したという点では最も特徴的で重要な要因であったといえよう」。
 もちろん、農業社会の宿命として、災害としての飢饉は避けられなかった。特に小氷期の寒冷化のピークにあった十八世紀には飢饉が多発し人口動態に影響した。そのことは本書の示す通り、先述の江戸中期以降の人口停滞が全国一様なものではなく、地域差が大きかったことに現れている。「人口の減少は北関東と東北地方の太平洋側(陸奥)で最も大きく、四国・南九州では人口は着実に増加していた」。この地域差の長期傾向が相当に顕著であったことは、掲載されている一七二一年から一八四六年までの地域人口の変化の表から一目瞭然である。特に日本海・西南地域で災害年を含む全期間を通じて一~三割程度の人口増加が見られるのに対し、陸奥・北関東では二~三割もの人口減少が見られ、特に災害年における減少は著しい。このように「豊かな成熟社会」と一括りにすることが難しい地域差があったことをも本書は冷静に押さえているが、それでも陸奥においては平常年の人口増加がそれをカバーしているし、北関東の人口減少には気候的要因だけでなく、農村に比べ死亡率が相対的に高い巨大都市・江戸の人口的「蟻地獄効果」があったことがほかの個所で示されている。これらのことは、農業社会にとって宿命的であった気象災害=飢饉下の状況を時代・地域全体にわたるものとし、特定の史観から「貧農地獄」を読み込む過度の一般化・極端視が、要するにエラーであったことを示していると思われる。

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