人口に見る江戸システム
一方マクロで見ると、江戸時代前半の百年間で、全国の総人口は当初の千二百万人程度(著者推計)から三千万人超に達する急成長を遂げた。この人口増加率はエリザベス朝時代のイングランドを格段に上回り(人口規模では数倍も上回る)、前近代としては世界的にも異例の人口急増であり、かつ市場経済の浸透と経済発展、大規模な国土開発を通じた生産増大と相互に呼応するものであった。
しかし、それとは非常に対照的に、十八世紀前期以降の江戸時代中・後半は、長く人口がほぼゼロ成長に近いところまで停滞していた(百二十五年間にわずか三%)。従来、歴史学ではこの長期的停滞は民衆の窮乏によるものとされてきたという。その「民衆の窮乏」なるものが「江戸時代暗黒史観」で異常に強調されてきたことは、過去の歴史教育を受けた者にとって今でも心に沁みついている。著者は先行世代の学者のそうした史観に言及することを避けているが、しかしそれら過去の史観が歴史人口学的に根拠薄弱なものであったとして事実上これを否定し、人口停滞はむしろ長期にわたる経済発展を通じた豊かさの実現及びその維持と一体の関係にあることを、具体的に数字をもって明らかにしていくのである。すなわち、この停滞は主として江戸時代前期までの大規模開発と人口急増によって国土の人口維持力が限界に達したことによるもので、以降はその枠内で、生産を高度化し多様化する方向で経済成長が進行したとする。そしてその中で起きた人口停滞の主要な原因は、前述の農民の寿命の向上に見られるように死亡率の上昇ではなく、出生率の低下にあった。この江戸時代中後期の出生率低下が農村における生活改善に伴うものであったことは、次のとおり幼児死亡率の低下も同時に起こっていたことが、何より明白に物語っていると思われる。
しかし、出生率の低下はすなわち貧困化を意味するものではない。少子化を可能にした背景には、幼児死亡率の低下があったこともわかっているからである。湯船沢村では五歳までの幼児死亡率は、十八世紀前半に出生千人当たり一五七であったが、天明飢饉の時期には上昇したとはいえ、十八世紀後半には九二へと引き下げられた。信濃国横内村では幼児死亡率の低下はもっと目覚ましいものがあった。同じ期間に二八五から一二七へと半減しており、さらに十七世紀末期と十九世紀前半を比較すれば、三二〇から八六へとほとんど四分の一へと引き下げられたのである。
幼児の生存率の向上は、生活のゆとりと育児に対する関心の高まり、つまり全般的な生活水準の向上によって実現したと考えられる。それとともに、跡継ぎを確保するために生んでおかなければならない子供数を大幅に減らしてもよくなった、ということを意味するであろう。
(九二―九三頁)
幼児の生存率の向上は、生活のゆとりと育児に対する関心の高まり、つまり全般的な生活水準の向上によって実現したと考えられる。それとともに、跡継ぎを確保するために生んでおかなければならない子供数を大幅に減らしてもよくなった、ということを意味するであろう。
(九二―九三頁)
後述するとおり、出生率低下には気候寒冷化の影響や地域的な格差も見られた。しかし全国的に見れば、その主要な原因が人々の意図的な産児制限によるものであったことは明らかであると本書は結論している。もちろん、それは堕胎や間引きといった現代のヒューマニズムからすれば問題視されざるをえない手段をも含むものであり、しかもそれが相当に横行していたことは、多数発せられた法令や民間の手引き書から推測できるという。また、それでも現代の水準からすれば当時の女性は相当な多産で、平均的な生涯出生数は(死産児も含め)「十七世紀末期から十八世紀後半までの変化は、八人以上から四人台への減少に相当する」というものであった(八四頁)。しかし、いずれにせよ結果として同時期の西欧諸国に比べ格段に低い出生率が実現していたのである。それが限られた土地や資源という条件の中で豊かな生活を維持するための意図的な出生抑制であったことは、後の章に示される江戸時代中後期における経済発展を考え合わせれば明らかだと思われる。
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