7月8日に松山道後にて生と死について講演した際の内容の一部。
他人の「死」を我々は経験できる。しかし、自らの「死」を経験することはできない。ハイデガー(桑木務訳)『存在と時間』(岩波文庫)が指摘するように、「死」とはいっても様々な位相があって、時代と地域でも異なり、自明のものではない。「死生観」という括りで世界を見渡してみると、「死」は大きく四つに分類できるのではないか。一つは、現実の肉体的生命が無限に存在すると信じるという考え方。これは中国の神仙思想や不老長寿、エジプトのミイラ信仰に代表される。日本でも古代の常世の国の神話もこれにあてはるだろう。霊魂は別として、肉体の存在を重視し、それが未来永劫存続することが可能であるという死生観である。二つ目は、肉体は消滅したとしても霊魂は不滅だという考え方。これはキリスト教の天国と地獄といった来世観や、仏教の地獄極楽思想、輪廻思想が代表的なものである。ここには肉体重視の思考とは異なって、個人の霊魂が死後も異界にて存在し続けるという考えがある。そして死後の霊魂に対しても個性が重要視されるのが特徴である。三つ目は、肉体も霊魂も滅んでしまうが、それに代替する不滅対象(代用物)となって死後の世界で存在するという考え方。これは日本の「先祖」に代表される祖霊信仰があてはまる。先述の個性のある霊魂とは異なり、三十三回忌や四十九回忌といった弔い上げを経ると、死者の個性は次第に消滅し、「ご先祖様」という代々の家の死者の集合体として、家が永続する限りにおいて存在し続ける。例えば、お盆(盂蘭盆)には家代々の各個人の死者霊ではなく、先祖という集合体を迎えて、饗応して、そして再び送る。これが日本のお盆の形である。仏教の六道輪廻思想では、死者の縁者が回向・供養することによって、死者の「たましい」は地獄界や餓鬼界から脱出して人間界へ転生(生まれ変わり)することができるが、この思想の基層には、あくまで死者霊魂の個性は保持されている。祖霊信仰で見られる家のご先祖様としての没個性化とは対照的である。そして、四つ目としては、肉体や霊魂、そして代用物も消滅するが、現在の行動に自己を専従集中させることで、生死を超越した境地を体得するものである。これは一般的な「死」の概念とは異なるようだが、悟りをひらくことや、神との一体化などの神秘的体験を得ることによって、「死」を超越することができるという考え方である。前述の三つの説は肉体や霊魂等の永続・消滅を前提として、人間の「生」の後に訪れる「死」の世界でのあり方を問うているが、この第四の説は「生」の時間の延長線上に「死」を考えるのではなく、時間をも、生と死をも超越しようとしている。四国遍路における弘法大師も、「死」ではなく「入定」しているとされ、今でも「生」の存在なのである。
他人の「死」を我々は経験できる。しかし、自らの「死」を経験することはできない。ハイデガー(桑木務訳)『存在と時間』(岩波文庫)が指摘するように、「死」とはいっても様々な位相があって、時代と地域でも異なり、自明のものではない。「死生観」という括りで世界を見渡してみると、「死」は大きく四つに分類できるのではないか。一つは、現実の肉体的生命が無限に存在すると信じるという考え方。これは中国の神仙思想や不老長寿、エジプトのミイラ信仰に代表される。日本でも古代の常世の国の神話もこれにあてはるだろう。霊魂は別として、肉体の存在を重視し、それが未来永劫存続することが可能であるという死生観である。二つ目は、肉体は消滅したとしても霊魂は不滅だという考え方。これはキリスト教の天国と地獄といった来世観や、仏教の地獄極楽思想、輪廻思想が代表的なものである。ここには肉体重視の思考とは異なって、個人の霊魂が死後も異界にて存在し続けるという考えがある。そして死後の霊魂に対しても個性が重要視されるのが特徴である。三つ目は、肉体も霊魂も滅んでしまうが、それに代替する不滅対象(代用物)となって死後の世界で存在するという考え方。これは日本の「先祖」に代表される祖霊信仰があてはまる。先述の個性のある霊魂とは異なり、三十三回忌や四十九回忌といった弔い上げを経ると、死者の個性は次第に消滅し、「ご先祖様」という代々の家の死者の集合体として、家が永続する限りにおいて存在し続ける。例えば、お盆(盂蘭盆)には家代々の各個人の死者霊ではなく、先祖という集合体を迎えて、饗応して、そして再び送る。これが日本のお盆の形である。仏教の六道輪廻思想では、死者の縁者が回向・供養することによって、死者の「たましい」は地獄界や餓鬼界から脱出して人間界へ転生(生まれ変わり)することができるが、この思想の基層には、あくまで死者霊魂の個性は保持されている。祖霊信仰で見られる家のご先祖様としての没個性化とは対照的である。そして、四つ目としては、肉体や霊魂、そして代用物も消滅するが、現在の行動に自己を専従集中させることで、生死を超越した境地を体得するものである。これは一般的な「死」の概念とは異なるようだが、悟りをひらくことや、神との一体化などの神秘的体験を得ることによって、「死」を超越することができるという考え方である。前述の三つの説は肉体や霊魂等の永続・消滅を前提として、人間の「生」の後に訪れる「死」の世界でのあり方を問うているが、この第四の説は「生」の時間の延長線上に「死」を考えるのではなく、時間をも、生と死をも超越しようとしている。四国遍路における弘法大師も、「死」ではなく「入定」しているとされ、今でも「生」の存在なのである。