愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

宝永南海地震の津波~愛媛県宇和海沿岸八幡浜市の津波記録~

2012年08月24日 | 災害の歴史・伝承
いまから約300年前の宝永南海地震。

宝永4年(1707)年に発生した大地震である。


愛媛県宇和海の沿岸部である八幡浜市にも津波が来ていたことを示す史料がある。

八幡浜市穴井地区では、人家の上までの高さまで潮が来て、

八幡浜市中心部では、八幡神社まで潮が来たというのである。



幕末の安政南海地震や、昭和南海地震については、

愛媛県内においても記録が数多く残されているが、

宝永南海地震となると、その被害の記録は稀少である。


これまで、地元愛媛でもあまり知られていないため、この記録を紹介しておく。

ただし、私自身もこの記録の原史料は実見していない。

昭和51年に発行された本の中に記載されたものである。


  宝永四 一七〇七

  十月五日昼四ツ時より大地震あり。

  真網代は潮の満干なきしも
  
  八幡浜は八幡神主宅迄潮上り、

  其の後五十日間、小地震あり。

  前代未聞のことなり。

  穴井は人家の上まで潮上ると。


このように記載されている。

これは出典は、『開校百周年記念誌 まあな』(昭和51年3月発行)

発行者は、真穴小学校百周年記念事業推進委員会である。

ちなみに、この宝永南海地震の津波の記録の原典は、

「二宮庄屋記」と「穴井社家記録」であると『まあな』には紹介されている。


この宇和海沿岸部八幡浜市での宝永南海地震津波の歴史的事実は、

昭和51年に活字化、発行された地元向けの書籍にすでに紹介済みである。

特に新出史料というわけではない。

しかし、地元愛媛、宇和海沿岸、八幡浜においても、

十分に住民にも認知されていないため、

地震、津波防災の意識向上のため、ここに紹介した次第である。



【参考】四国災害アーカイブスより

http://www.shikoku-saigai.com/archives/2556

宝永4年(1707)10月4日午後1時過ぎ、大地震が発生した。
五畿七道にわたり地大いに震い、
続いて九州の南東部より伊豆に至るまでの沿海の地は津波に襲われた。
震災全部を通じて死者4,900人、家倒壊29,000戸。(「大日本地震資料」による)

宇和島藩(いまの南予地方)「増補御年譜微考」によると、
午後2時頃、高潮が宇和島城下の馬場前まで浸入した。
「宇和島御記録抜書」、「伊達家御歴代事記」には
浜御屋敷、新浜・元結掛・持筒町・佐伯町付近は床上1m50cmにも達したとある。
宇和島藩の被害は田503町2反余、
家屋破損・流失、死者12人、半死24人と記録されている。










2012年08月24日 | 日々雑記
10月に東京学芸大学で行われる日本民俗学会の総会に出席するため、飛行機の予約をしたが、すでに乗りたい便が埋まっていた。総会の朝から現地に到着する必要があるので、前日の最終便を予約したかったのだが、だめだった。仕方なく前日の早め便をおさえた。となるとその日は昼には職場で休暇をいただくことになるので、本業に支障がでてしまう。

しかも、その日は松山秋祭り。現地で調査したり、撮影したいことが山ほどあるが、今回は日本民俗学会を優先。お盆調査もそうだが、秋祭りも未見箇所をしらみつぶしに押さえていきたいのに、行事の日時が同じなので、毎年、どこか少しずつ調査しておかないといけない。

先日、論考「盆の火投げ行事の分布」を発表したが、全国の盆の柱松、投げ松明行事をすべて見たいと思うわけだが、なかなか思うようにいかない。いまごろは山口県でもあるし、福井県にもある。そこに飛び立ちたかったが、本業を無視できない状態で今年は断念した。

盆調査、全国の柱祭り調査、全国の祭礼調査も、自分の一生を考えると、さほど現地を実見する機会はなくなってきたと、若い頃に動けるだけ動いたつもりでも、後悔ばかり。

「惜しいことをした。○○や○○などに熱を上げるんじゃなかった。もう時間が足りない。」

晩年の柳田國男のことばが一瞬、頭をよぎったが、自分はまだ晩年ではない。

時間はまだまだある。