愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

【再掲】カワウソと人の交流誌

2012年08月30日 | 口頭伝承
「カワウソと人の交流誌」というコラムを1999年10月21日付の南海日日新聞で書いたことがある。その後、この文章は拙著『民俗の知恵』にも入れ込んだ思い入れのあるエッセイだ。昨日のニュースでカワウソは絶滅種だということになったが、心情的にはまだ宇和海のどこかにいることを願っている。完全に絶滅したと自身で受け入れるにも心の準備ができていない。

そのエッセイをここに再掲しておく。


 県獣であるカワウソは、動物では県内唯一の天然記念物である。このカワウソについては、戦前は宇和海を中心に各地で生息が確認されていたが、昭和四十年代以降、目撃例がごくわずかとなってしまった。カワウソの絶滅の危機は必ずしも自然現象とは言い切れず、戦前は毛皮にするため乱獲されたり、戦後、急激に環境が破壊されるなど人為的な要因も無視できない。そもそも、弥生時代後期の神奈川県猿島洞穴出土動物遺体の中にカワウソの骨が発見されるなど、人間とのつきあいは原始・古代に遡ることがわかっている。また、平安時代中期成立の『延喜式』巻三十七典薬寮によると、カワウソが薬として朝廷に献上され、また、室町時代には塩辛にされるカワウソの史料も残っている。近代になっても、毛皮のために乱獲されるだけでなく、結核や眼病の薬としても捕られていたようである。戦後、絶滅の危機に直面すると、天然記念物に指定され、目撃例があると一躍新聞紙面を賑わすなど、一転、稀少で、しかも愛敬のある動物、人間に親しみにある動物として祀りあげられた。原始以来の人間とカワウソとの交流の歴史を見ていくと、実に、人間に翻弄されるカワウソの姿が浮び上がるのである。
 人に翻弄されてきたカワウソであるが、八幡浜地方に伝わる数多くのカワウソに関する伝承を確認してみると、逆に人間の側が彼らに悪戯され、翻弄されている例が多いので面白い。この種の話は海岸部に住む戦前生まれの人であれば誰でも聞いた経験があるというくらい、枚挙にいとまがないが、数例挙げてみると次のような話がある。
 「漁師が沖で漁をしていると、カワウソがこっちこい、こっちこいと手招きするので、行って見ると、船が陸に上がってしまい、難儀した。」
 「島の人がカワウソを捕獲して家に連れてかえると、捕獲されたカワウソの親が、毎晩、子供をかえせ、子供かえせと言いに来た。」
 「夜二時ごろ、海岸をあるいていると、防波堤の上にはちまきをして、子守をしている女性がいた。不気味に思ったがこれはカワウソが化けたものに違いないと思い、『お前はカワウソじゃろうが』と叫ぶと、消えてしまった。」(以上、大島)
 「カワウソに化かされて、一晩中、山中を歩かされた。」
 「カワウソが手招きして、風呂を沸かしたから入れというから入ってみると、実はお湯ではなく、枯れ葉だった。」(以上、真穴)
 天然記念物に指定され、絶滅が危惧されているカワウソ。生物としての絶滅危惧とともに、身近に伝承されてきたカワウソとの交流話も消えうせる可能性がある。八幡浜地方は愛媛県内でも遅くまでカワウソが生息していた地域として、この種の話も継承していく必要があるのではないだろうか。


災害後50年目に建立された地震津波碑

2012年08月30日 | 災害の歴史・伝承
徳島県にある地震津波碑。

海に近い海陽町浅川出張所の前に建っている。

過去、幾度となく地震、津波被害をうけてきた地区である。

「震災後50年南海道地震津波史碑」と書かれてある。

石碑は比較的新しいもの。

碑文を見ると、平成8年に当時の海南町が建てた石碑であることがわかる。

昭和21年の昭和南海地震から50年目の建立である。



裏面には、歴代の徳島県を襲った津波と、地元浅川での犠牲者の人数が刻まれている。



地震津波碑は、被害直後に建立されるとも限らない。

50年といった節目の年、もしくは地域での記憶が薄れかかってきた際に、

建立される場合があり、この石碑はその一例である。


安政南海地震での被害-長浜町、保内町、伊予市、宿毛市ー

2012年08月30日 | 災害の歴史・伝承
先に、愛南町について紹介したが、今回は主に大洲市長浜町、伊予市、八幡浜市保内町、高知県宿毛市についての地震津波史料である。東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』第五巻別巻五ノ二(昭和62年発行)の2035頁から2036頁に愛媛県の『長浜町誌』に記載された安政南海地震関連の史料が紹介されている。

以下、引用である。【 】内は、大本が加筆した註である。

〔長浜町誌〕○愛媛県 S50.12.20 長浜町誌編纂委員会編・発行
  安政大地震
 一八五四年(安政元)十一月には、三日、四日の地震を前触れとして、五日午後五時頃から空前の大地震が襲来した。
 『兵藤家文書』は次のように記している。
嘉永七(安政元)甲寅十一月五日、八ツ頃に至り大地震発、大に騒動、家々数々痛み、村方中通別して大ゆり、伝左衛門土蔵大痛み、平兵衛屋敷廻り大痛み、平がき西北残らず石垣よりくずれ申候、酒蔵並に裏穂蔵大痛み、裏部屋大痛み、双方屋敷大痛み、其中昼中の事故人痛みは御座なく仕合の至に候。
【つまり、大洲市長浜町においては、建物被害はあったものの人的被害はなかった。】

御領中にて大痛みは郡中町、怪我人四十人、人死二十人と申すことに候、浜通り郡中より下にては、当初大痛みと申す事に候
【御領中とは大洲藩内ということ。郡中町とは現在の伊予市中心部。ここで死者20人、負傷者が40人であったとの記録である。】

宇和島御領内数々痛み、人死も数々之あり、其内、宇和島御領にては多分の人死者御座なく、宮内村、西井浦、楠浜村【宮内も楠浜も八幡浜市保内町。西井はおそらく雨井の誤りと思われる。雨井も現八幡浜市保内町である。】大津波にて大痛み、昼中の事故人死は御座なく、宮内村三島様の沖、喜木辺へ往来の道のきわまでほふりあげ、三百石程の石船一艘、網船一隻、都合三艘田の中へ打ちあげ申候、大変の事に候
【つまり、八幡浜市保内町では、津波によって船が打ち上げられたり、宮内の三島神社や喜木あたりの道近くまで津波が来たりしたことがわかる。現在の国道197号付近であり、八幡浜市保内庁舎近くまでは来た、もしくはそれより内陸まで潮があがったことになる。】

七日、八日の間、昼夜度々の地震にて、何れもきもを消し、おそろしき事に候、其後三十日も日々ゆり候、兎角近年大地震より後は、度々の地震にて何れも込入り候
【つまり、11月5日の本震のあとに一ヶ月間はたびたび余震があった。】

土州御領は別して大痛み、土佐宿毛町残らず津波にて流出、人死数限りなき事に候、其内、土州御領中何れも大痛みの由に御座候 宿毛町家一軒も残らず流れ候由、おそろしき事に候
【ここでは、土佐、高知県の宿毛市の甚大な被害が記載されている。】

西井町津波引候後に至り、町中に塩すねぎりたち申候、津波さしこみ候時より、引ぎわが殊の外おそろしきことに御座候
【この西井町がどこなのか確定できないが、おそらく先と同じ八幡浜市保内町の海岸沿いの集落である雨井のことと思われる。津波は、波が差し込んで来るときよりも、引き際が恐ろしいというのである。】
   嘉永七年十一月印之
                        兵頭【藤?】喜平太正方代

長浜の古老の話によれば、日和山近辺の漁師町(乳児保育所の周辺)は、安政大地震の時、お台場のところへ小屋をこしらえて、女・子供を避難させたということである。
 安政元年ヨリ同二年二渉リ、昼夜ノ別ナク数回地震アリ、■【外字】壁等ノ倒壊二止マリ、敢テ大惨害ハ蒙ラザリシモ人心恟恟、皆其業二安ゼズ、仮小屋ヲ設ケテ之二避難セルモノ多カリシト云フ(『長浜町郷土誌稿』)
 当地方の被害はたいしたことなくすんだようだ。


以上が『新収日本地震史料』からの引用である。



これは、長浜町誌という公にされた自治体刊行物の記載でもあり、東大地震研究所編の『日本地震史料』にも所収されている記事。引用であり、新規に発表、報告するような内容ではない。既に過去に一般向けに情報発信されたものである。ただ、南海地震の防災意識の向上のため、過去の地震津波被害について、一般向けにここに紹介しておく。