愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

安政南海地震と津波被害-愛媛県愛南町の場合-

2012年08月28日 | 災害の歴史・伝承
(平成24年11月25日追記)
11月23日に行われた四国民俗学会「四国災害史シンポジウム」。愛南町の藤田儲三先生から以下の文章のうち、一本松町史に掲載されている「舟中百壱人相果」とあるのは、原典を確認すると「舟中に而壱人相果」であり、「而」を「百」と誤読したまま、東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』に再掲載されたとのこと。つまり安政南海地震で深浦において101人の犠牲者というのは誤りではないかとのご指摘をいただきました。確かに現地に行っていろんな方にお話をうかがっても、101人の犠牲者の伝承や供養の実態がないことに不思議に思っていましたが、これで少し納得できました。ただし、深浦は家屋流出の被害が激しく、津波に注意すべきことにはかわりはありません。(以上、追記)





東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』第五巻別巻五ノ二(昭和62年発行)の1959頁に愛媛県南宇和郡(現愛南町)の安政南海地震の被害に関する記述がある。このときの被害記事は四国災害アーカイブスに
http://www.shikoku-saigai.com/archives/2540

安政元年(1854)11月、大地震あり、外海浦に津波あり。鳴動は数日に及ぶ。人々は天地にその鎮撫を祈った。 一本松町正木の「蕨岡家文書」によると、11月5日申の下刻(午後4時頃)に大地震が発生し、夜中まで14、5度も揺れたという。また、海辺では津波の被害がひどく、深浦では舟中の101人が遭難し、宿毛では家が数軒流されたなどと記されている。

このように紹介されているが、抄録であるため、『新収日本地震史料』の記事をそのまま引用しておきたい。


以下、引用。


〔一本松町史〕○愛媛県 S54.1.1 一本松町史編集委員会・一本松町発行
2 地震・津波
 幕末のころも各種の災害は相次いだ。なかでも嘉永七年(一八五四安政元年)一一月、この地方を襲った地震は激しく言語に絶するものがあった。
 その記録が、本町正木蕨岡家に残っている。
 
  嘉永七申寅大地震記録
 一一月五日、朝少し西風天気吉、申の下刻大地震となり動きがきて半時酉の上刻より夜中まで十四五度もゆるぐ。広庭に於て夜を明かし、明る六日には昼夜折々震動、七日朝雨模様となり少々降り巳刻頃また大ゆれが始まる。ゆりが少し細くなりたる頃、銘々小屋掛いたし、小屋住居にいる。川水濁り井の水切れ大石落つ
 海辺は津波来り外海浦の内、深浦、岩水、平城村貝塚、満倉などに流家これあり、新田分も残らず海に相成り大破、和口村の出合迄汐流る。
 人の損毛深浦の者舟中百壱人相果つ、土州宿毛町家数軒動き流れ人の損も多し。廿四日を頂上に日々震動、日々雨模様に相成り強雨雷鳴廿五日出入それより震動少く遠く相成候得共、年明けても折々震動仕事相止め難く卯正月七日夜雨降り大雷荒れ相絶候
   安政二乙卯四月
                      蕨岡重賢
                     (蕨岡文書)
 この記録によると地震は一ヶ月余りにわたり、大小こもごも起ったようである。特に津波の被害はひどく、深浦では一〇一人も遭難者が出、宿毛でも家が数軒流れ、人も死んだということがわかる。
 古老の話によると、本町でもこのとき広見の田中家では新築の家が傾き、中川の大又では地のゆれがひどいとき大勢が竹薮に逃げ込み、中には七日間もそこから出なかったものもあるという。(岩村トク談)


以上が引用である。


地名で出てくる「深浦」は旧城辺町深浦。リアス式海岸の湾頭に立地する。山が海に迫っていて海岸近くからすぐに水深10メートルを越える深さとなり、湾内は水深50~60メートルにもなっており漁港、漁業基地として有名である。ここの集落から101人の船上遭難の被害があった。

「岩水」も旧城辺町。「平城村貝塚」は旧御荘町平城の中にある貝塚地区。「満倉」は旧一本松町満倉。ここは深浦湾に流れる川の下流に位置する。これらの集落では、家が流されたということである。

そして汐が流れてきたという「和口村」であるが、四国霊場の観自在寺や旧御荘町役場よりも内陸側であり、そこまで津波の際の潮の遡上があったという。

以上が『新収日本地震史料』に記載されている愛媛県内、愛南町における江戸時代の安政南海地震、津波被害の状況である。

ぞうきんの歴史~雑巾と浄巾~

2012年08月28日 | 衣食住
日本国語大辞典見ていて偶然発見。

雑巾(ぞうきん)って、1400年代の辞典「節用集」には「浄巾」って出てる。

浄らか、もしくは浄める布。

たしかに、ぞうきんのこと「じょーきん」と呼ぶ年配の方がいるなぁ。

いつから「浄」が「雑」になってしまったんだろう?


だいたい木綿布は室町時代には一般に普及していない。

とんちんかんちん一休さんのアニメでは、

よく雑巾がけやっていたが、

あれはその時代、高級品。アニメの設定上、将軍足利義満の時代。

貧乏寺である安国寺ではちょっと無理がある。

といっても、浄巾は禅宗から普及していったとの話もあるので、

一休さんの雑巾がけも可笑しなわけではないのかもしれない。


木綿以前の雑巾。

麻、藤、芭蕉などなど、いろんな繊維があるが、

どれも適してはいないような気がする。


「雑巾がけ」(走るかのような雑巾がけ)という行為自体も、

近代学校建築での廊下や教室といった広い板張り空間の出現とともに

一般化したのかもしれない。ちょっと極端ではあるが。

あとは寺院建築でも、雑巾がけは可能だ。

やはり一休さんは間違っていない?


さらには「雑巾でふく」という行為。

これは木綿以前の繊維の雑巾だと、

繊維が柔らなければ、ふくのは難しい。

というわけで、「雑巾でふく」という行為も

普遍的ではないのかもしれない。


ぞうきん文化、奥深し。