城川町教育委員会・ふるさとの祭りと神々編集委員会が編纂した『ふるさとの祭と神々』という本がある。昭和57年、城川町文化財保護委員会の発行である。この書籍は東宇和郡城川町(現西予市)内の神社調査報告書であり、明治時代以降の神社合祀以前の小社、小祠についても取り上げており、かつての地域社会の中にどんな神々が祀られていたのかがよくわかる。この書籍によると、城川町内(旧遊子川村、旧土居村、旧高川村、旧魚成村の四ヵ村)の神社総数は合祀前には255社あり、そのうち最も多いのは天満神社の23社、次いで恵美須神社21社、その次が愛宕神社20社となっている。上位10社をまとめると次のようになる。
1位 天満神社 23社
2位 恵美須神社 21社
3位 愛宕神社 20社
4位 金比羅神社 12社
5位 若宮神社 11社
6位 伊勢大神社 9社
6位 海津見神社 9社
8位 八幡神社 7社
8位 八坂神社 7社
8位 白王神社 7社
この順位を見ると、現在と比べると、神社合祀以前の地域社会において、愛宕社の占める割合が高いことがわかる。天満、恵美須、若宮、海津見、八幡社は戦前の村社として、現在でも地域の氏神として比較的多く見られるが、村社レベルでの愛宕社は希有である。しかも、愛宕社20社の内訳を見ると、遊子川村5社、土居村5社、高川村2社、魚成村8社とすべての村に見られ、分布に大きな偏りがあるわけではない。このことから、愛宕信仰が地域社会に溶け込んでいたと言える。
ところが、この愛宕信仰。愛宕権現。本地は勝軍地蔵であり、神仏混淆の要素が強かった。明治時代初期の神仏分離等で大きなダメージを受ける。境内社としての位置づけとなり、そして明治時代後期には合祀されやすい対象となっていく。金毘羅大権現も神仏混淆であったが、明治時代初期に金刀比羅神社として再編され、仏教色を早い時期に払拭し、近代神道の中に位置づけられた。これに比べて愛宕社は小社、小祠として存続し、近代において境内社として人々に信仰されたのである。消えた訳ではない。数は3位と多いのである。これは人々の愛宕信仰の根強さを示しているともいえる。
この数字を見た際に、愛宕信仰の激動の歴史が垣間見えて興味深いと思ったので記しておく。
1位 天満神社 23社
2位 恵美須神社 21社
3位 愛宕神社 20社
4位 金比羅神社 12社
5位 若宮神社 11社
6位 伊勢大神社 9社
6位 海津見神社 9社
8位 八幡神社 7社
8位 八坂神社 7社
8位 白王神社 7社
この順位を見ると、現在と比べると、神社合祀以前の地域社会において、愛宕社の占める割合が高いことがわかる。天満、恵美須、若宮、海津見、八幡社は戦前の村社として、現在でも地域の氏神として比較的多く見られるが、村社レベルでの愛宕社は希有である。しかも、愛宕社20社の内訳を見ると、遊子川村5社、土居村5社、高川村2社、魚成村8社とすべての村に見られ、分布に大きな偏りがあるわけではない。このことから、愛宕信仰が地域社会に溶け込んでいたと言える。
ところが、この愛宕信仰。愛宕権現。本地は勝軍地蔵であり、神仏混淆の要素が強かった。明治時代初期の神仏分離等で大きなダメージを受ける。境内社としての位置づけとなり、そして明治時代後期には合祀されやすい対象となっていく。金毘羅大権現も神仏混淆であったが、明治時代初期に金刀比羅神社として再編され、仏教色を早い時期に払拭し、近代神道の中に位置づけられた。これに比べて愛宕社は小社、小祠として存続し、近代において境内社として人々に信仰されたのである。消えた訳ではない。数は3位と多いのである。これは人々の愛宕信仰の根強さを示しているともいえる。
この数字を見た際に、愛宕信仰の激動の歴史が垣間見えて興味深いと思ったので記しておく。