愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

神社合祀前 神々のランキング 城川町の場合

2012年08月27日 | 信仰・宗教
城川町教育委員会・ふるさとの祭りと神々編集委員会が編纂した『ふるさとの祭と神々』という本がある。昭和57年、城川町文化財保護委員会の発行である。この書籍は東宇和郡城川町(現西予市)内の神社調査報告書であり、明治時代以降の神社合祀以前の小社、小祠についても取り上げており、かつての地域社会の中にどんな神々が祀られていたのかがよくわかる。この書籍によると、城川町内(旧遊子川村、旧土居村、旧高川村、旧魚成村の四ヵ村)の神社総数は合祀前には255社あり、そのうち最も多いのは天満神社の23社、次いで恵美須神社21社、その次が愛宕神社20社となっている。上位10社をまとめると次のようになる。

1位 天満神社  23社   
2位 恵美須神社 21社   
3位 愛宕神社  20社   
4位 金比羅神社 12社   
5位 若宮神社  11社   
6位 伊勢大神社  9社
6位 海津見神社  9社
8位 八幡神社   7社
8位 八坂神社   7社
8位 白王神社   7社

この順位を見ると、現在と比べると、神社合祀以前の地域社会において、愛宕社の占める割合が高いことがわかる。天満、恵美須、若宮、海津見、八幡社は戦前の村社として、現在でも地域の氏神として比較的多く見られるが、村社レベルでの愛宕社は希有である。しかも、愛宕社20社の内訳を見ると、遊子川村5社、土居村5社、高川村2社、魚成村8社とすべての村に見られ、分布に大きな偏りがあるわけではない。このことから、愛宕信仰が地域社会に溶け込んでいたと言える。

ところが、この愛宕信仰。愛宕権現。本地は勝軍地蔵であり、神仏混淆の要素が強かった。明治時代初期の神仏分離等で大きなダメージを受ける。境内社としての位置づけとなり、そして明治時代後期には合祀されやすい対象となっていく。金毘羅大権現も神仏混淆であったが、明治時代初期に金刀比羅神社として再編され、仏教色を早い時期に払拭し、近代神道の中に位置づけられた。これに比べて愛宕社は小社、小祠として存続し、近代において境内社として人々に信仰されたのである。消えた訳ではない。数は3位と多いのである。これは人々の愛宕信仰の根強さを示しているともいえる。

この数字を見た際に、愛宕信仰の激動の歴史が垣間見えて興味深いと思ったので記しておく。


宝永南海地震~愛媛県宇和海沿岸部の対岸大分県の津波被害~

2012年08月27日 | 災害の歴史・伝承
平成6年に大分県米水津村に民俗調査に行った。まだ自分が大学院生のときで民俗学に足を突っ込んで間もない頃だったので、ひたすら歩いたし、聞いた事をいろいろメモしていた。最近は聞いた話を聞き流してメモを取らなかったり、調査対象や興味のあるもの以外は素通りしたりして、あの頃に比べると随分横着になったと反省するばかり。

その米水津村に行ったときのファイルが自分の本棚の奥にあったので、久しぶりに開いてみたら、平成2年発行の米水津村誌のコピーがあった。そこに宝永4(1707)年の津波の被害の記載があった。

先に宇和海沿岸の八幡浜市における宝永南海地震による津波記録について紹介したが、こちら大分県米水津村は現在、合併して佐伯市。愛媛県八幡浜市の対岸である。(平成6年頃には八幡浜と佐伯を結ぶ航路もあったので移動も便利だった。)

愛媛県宇和海沿岸部にとって、対岸の津波は、対岸の火事ではない。同様の規模の津波が襲来する恐れがある。この地震、津波史料については、四国や愛媛県といった行政区画で限ってまとめるのではなく、愛媛県南予地方だったら大分県と、瀬戸内海沿岸であれば山口県、広島県などと史料の情報共有をしておく必要がある。

いまのところ、愛媛と大分の地震、津波史料の情報共有や比較検討をした成果があるとは残念ながら聞いたことがない。

対岸の火事では済まされない。対岸の津波は自身の津波である。

というわけで、米水津村誌(米水津村発行、平成2年)の211頁から212頁に記載されている内容をここで紹介しておく。なお、原典は『浦代代々役人控』であり、その意訳である。

「宝永四年十月四日昼の八ツ時(二時)に南の方で轟音がして、ただちに大地震が来た。家の人が外に逃げたそのあとから、高潮が襲来して、浦代(うらしろ 米水津の中の一集落名)は一面湖のようになった。色利浦(いろりうら これも米水津の中の集落名)は田の尻より泥立ち、海はにごり、沖から帰る網船は、波先にわずかに見えただけであった。浦々の家財、屋敷または畑までも流された。浦代浦は養福寺まで潮が差し込んだけれども、仏神の御加護であろうか、石壇が二ツばかり残った。色利浦は尾花の山、峰押しの山は八合までも潮が差し込んだ。西谷は広岡の下墓原までも潮が差し込んだ。色利浦で二人死に、浦代浦では十八人死んだ。小浦、竹野浦には死人はなかった。(中略)宮野浦(これも米水津の集落名)は、家財道具の浮いていたところを、網をおきまわしたために家財は流されなかった。その日から翌年まで漁がなく、皆んな難儀をしたが、宮野浦は、他集落に比べれば困らなかった。よくよく用心しなければならないし、宮野浦のしわざは皆ほめた。この時の高潮で土佐、阿波、熊野地、大坂まで大破損した。佐伯地方は、蒲江、丸市尾は大破損であったが、大嶋より蒲戸の方は破損はなかった。代護浦より■(つる)谷、堅田、木立村までの新地はつぶれたので皆難儀した。大地震の場合は、よくよく用心すべし。そして火難の節も常々用心第一にすべきである。そのために、ここに書き記すものである。(『浦代代々役人控』より意訳)」

この記述を補足しておくと旧米水津村の「浦代浦」では死者が18人。養福寺は海岸から約300メートル離れた山際に建っている寺院。ここまで潮があがっている。そして旧米水津村の「色利浦」では死者2人。やはり山際まで潮が差し込んだ。

そしてこの史料は米水津周辺のことも記述されていることが興味深い。「蒲江」は、佐伯市南部の旧蒲江町。大分県最南部地域。「丸市尾」も佐伯市南部の旧蒲江町。大分県最南部地域である。この「蒲江」「丸市尾」も「大破損」とあり、宮崎県境の沿岸部でも被害が大きかったことがわかる。

かたや佐伯湾では比較的被害は小さかったようで、「大嶋」鶴見半島の先端にある島。ここ以北が佐伯湾であり、「蒲戸」四浦半島の先端付近の集落。ここ以南が佐伯湾であるが、この「大嶋」「蒲戸」間の佐伯湾は破損はなかったとある。東西に伸びる鶴見半島が半島北側の津波被害を軽減させたのだろう。その分、鶴見半島の南側は被害が激しい。

また、「代護浦」は、いまの佐伯市霞ヶ浦代後地区のことと思われる。「つる谷」は、いまの佐伯市鶴谷地区のことと思われる。「堅田」、「木立」は、佐伯市内の海岸部ではなく内陸である。ここは「つぶれて難儀した」とのことなので、津波ではなく地震による揺れの被害が大きかったと推定できる。

このように、鶴見半島の以北、以南では被害の様相が違う。これは愛媛でも同じ事が言えるかもしれない。まずは佐田岬半島、三浦半島、由良半島、船越半島。その南側は南海地震の際の津波で被害が大きい可能性がある。ただし、地震、津波の発生は一様ではないので、半島北側も安心はできない。現に宝永地震、安政地震の際に、三浦半島北側の宇和島湾沿岸でも津波が押し寄せているからである。

宇和海沿岸部。伊方町、八幡浜市、西予市、宇和島市、愛南町。「よくよく用心すべし」である。

※この宝永4(1707)年の地震は、紀伊半島沖で発生しマグニチュード8.4もしくは8.7とされる。