①「民俗」の現在・未来
「民俗」とは普段は聞き慣れない言葉であるが、一言で説明すると「世代を越えて過去から現在に伝承されてきた文化」とでも言えようか。もっと簡単に言えば人々の生活習慣のことである。そもそも「民俗」という言葉は近代になって普及した語で、はじめは明治政府が「民情風俗」という意味の政治性の強いものであったが、柳田国男が民俗学を提唱する中で、「民間伝承」の意味に変換されていった経緯がある。柳田以来の日本の民俗学は、この民間に伝承されている生活習慣、つまり生活の中の経済・社会・宗教・芸能などの諸側面における慣習(技術・知識・観念など)を研究対象としてきた。「郷土文化」を知る一つの「手段」として、また「視角」として民俗学は有効なのである。ただ、世代を越えて自分達が受け継いでいる文化は、「内的」に見ると自明のものであり、何ら珍しいものではない。「郷土文化」を知ろうとする動機の多くは、自分が居住する郷土の良さを発見し、誇りを持ち、自らその構成員であることを自覚することにあるが、郷土の範囲内だけの問題意識では、「民俗」の良さを知り、誇りを持つのは難しい。ところが、「外」との比較をする視点を持つと、自らが受け継いでいる文化が自明のものではないことを認識し、郷土を再評価する契機となる。私は大学時代に民俗学の講義を受講した時に、かなりの衝撃をうけた。八幡浜出身の私にとって、亥の子や柱祭りといった年中行事、神楽や鹿踊といった芸能、そして方言など、自分が育った土地の何気ない習慣・文化が、全国的な事例として、大学の教壇で取り上げられていたからである。当たり前と思っていた事が実は当たり前ではなく、個性を持っていたことに気付かされた。同時に、郷土の民俗を知ることにより、そこに居住する人間としてのアイデンティティや誇りを持つ手段となることも学んだ。柳田国男は郷土研究を「郷土人自身の自己内部の省察」と述べているが、そのことに気付いたのは、郷土においてではなく、郷土を離れた場所においてであった。同時に、物事を「内的」・「外的」の双方の視角で見つめる客観性が重要であることにも気付かされた。
ところが、郷土の中で世代を越えて伝承されてきた文化は、今、消滅の危機にある。伝承の母体となっていた地域社会は揺らぎ、血縁・地縁関係は希薄化しているし、都市から地方へと大量の情報がもたらされ、人々の価値観が均一化してきている。次世代に生活の中の技術や知識、観念を伝えるのは困難な状況にある現在、「民俗」を伝承している世代(端的に言うと老人世代)の記憶している文化は、数十年後には無になる可能性がある。例えば年中行事にしてみても、長い年月をかけて、それぞれの土地の風土に順応し、醸成されたものであり、その土地の顔となる文化でもあったはずが、現代、未来において大きく変容を遂げようとしている。もともと、血縁・地縁が結集するための儀礼であった年中行事の多くは、地域社会の揺らぎとともに衰退、消滅の危機にあるが、例えば城川町土居の「御田植祭(どろんこ祭)」や八幡浜市穴井の「座敷雛」などのように、観光客やマスコミといった他者からの「外からの眼差し」を受けることで、地元が再結集し、存続を可能としているものもある。現代においては、民俗を継承していく要素には「外的」視角が必要というべきか。すべての民俗が他者から注目されるわけではないため、郷土に住む者が自ら客観的に外からの眼差しを持って、郷土文化に注目し、そして学び、認識することによって、価値を判断することが求められる。それにより、文化の継承が可能になるといえるのである。
②民俗学と「宇和」
さて、民俗学界において「宇和」は良く知られた地域呼称である。和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』(吉川弘文館)という著名な民俗調査報告書が刊行されているからである。しかし、この報告書の「宇和地帯」の地域設定についてはいささか問題点がある。「宇和地帯」という言葉は、地元においては日常的に持ちいれられるものではなく『宇和地帯の民俗』の出版により、民俗学界のなかで一般化したものである。和歌森グループの用いた「宇和地帯」とは「愛媛県西南部を占める宇和島市、北宇和郡、南宇和郡の地を指す」とされている。この調査地設定の理由は、一、和歌森らが前年調査した国東半島と不即不離の位置にあること。二、鉄道の通らない陸の孤島であること。三、地域を宇和四郡に設定して調査を行うには広大であること。この三つが挙げられている。しかし、国東との不可分の関係を指摘しているが、実際、「宇和地帯」は文化圏としては同じ大分県でも、国東よりも大分県南部地方との関係が強く、「不即不離」とするのは強引であることや、和歌森が、地域設定の前提で述べたような国東との関係を具体的には述べてはいないこと(これは和歌森以後においても同様である。)、そして、和歌森グループによって『宇和地帯の民俗』が刊行されることによって、「宇和地帯」イコール南北宇和郡、宇和島市が定着し、その結果その他の宇和地域である東西宇和郡の総合民俗調査が遅れることとなったことなどが挙げられる。つまり「調査地域の設定」が結局のところ「文化圏の設定」と認識されてしまったのである。このように、民俗学界では、東宇和・西宇和地域は民俗調査の進まないエアポケット状態にあったといえる。その上、地元でも郷土文化を「民俗」という視角でとらえる意識が希薄だったため、「民俗」が評価されにくかった。
思うに宇和町をはじめとする「宇和地帯」は、和歌森が注目したように、民俗の宝庫であることは間違いない。それを注目せず、学ぶことなく、記録もしないまま次世代を迎えると、郷土が郷土でなくなってしまうのではないか。そのような憂慮を持ちつつ、今、地元は「民俗」に注目することが求められているのではないだろうか。
*本文は2002年3月の宇和郷土文化保存会での講演録であり、2002年7月発行の本会誌『開明』に掲載されたものである。
2003年01月13日