子供にとって、正月の一番の楽しみは何と言っても、親や親戚からお年玉をもらうことである。このお年玉について全国的な民俗事例を見てみると、正月の神詣でや若水迎えの際に供える米や餅を「年玉」といったり、鹿児島県甑島では、正月神のトシドンが子供に配る丸餅を「年玉」といったりするが、お年玉の原型は必ずしも金銭ではなく、米や餅だったのである(註)。しかも単なる米、餅ではなく、一度、氏神や家の神様にお供えしたものを分配している。つまりは、年の初めに米や餅を人と神が共食することにより、その年の無事を祈願していたのである。現在でも、お年玉を、子供に渡す前に、鏡餅や年取りの干柿、蜜柑とともに神棚にお供えするという家は多いようである。このようにお年玉は、本来は神饌であるとともに、神から分配されるものであったが、この心意も忘れられつつある。
さて、神様に供えた金銭や餅を子供に分配するという正月行事は、八幡浜地方の民俗事例にも数多く見ることができる。
八幡浜市大島では、「乗初め」といって、正月二日の早朝に島内の船主が自分の船に乗り、船玉様に賽銭と供物を供え、その年の漁の安全を祈願し、同時に、近所の子供達が船に次々に飛び乗って、賽銭や供物を競って奪い合う。船主にとっては、供物を子供に持って行かれないと、その年は豊漁にならないという。これは戦後は廃れてしまったが、子供にとっては楽しい行事であった。同様の事例として、保内町雨井でも「船乗初め」といって、二日に船主がご馳走を作って、乗組員を呼んで船上で酒盛りをし、その後に、一升桝に小銭を入れ、親類や近所の子供達に銭を配っていた。
また、大正時代以前の話だが、三瓶町鴫山では「鍬休め」といって、二日に農具に供えた鏡餅を菜園に隠し、地区の青年がこれを探しあい、これを探し当てて、共食していたという。八幡浜市中津川でも、二日の早朝に分限者が自分の畑に餅を隠し、子供達に探させる行事があった。
これらはいずれも、漁業、農業の仕事始めの行事であるが、実際には仕事はやらないで、神を祀り、一年の豊漁、豊作を祈願し、その供物を地区内の子供達に分配している。かつては子供が地域の生業の繁栄祈願に密接に関わっていたことを示すと同時に、現代の子供に、親がお年玉をあげるという行為も、その年の家の繁栄、無事を祈ってのことであると言えるのである。
註 大塚民俗学会編『日本民俗事典』弘文堂
1999年10月21日掲載
さて、神様に供えた金銭や餅を子供に分配するという正月行事は、八幡浜地方の民俗事例にも数多く見ることができる。
八幡浜市大島では、「乗初め」といって、正月二日の早朝に島内の船主が自分の船に乗り、船玉様に賽銭と供物を供え、その年の漁の安全を祈願し、同時に、近所の子供達が船に次々に飛び乗って、賽銭や供物を競って奪い合う。船主にとっては、供物を子供に持って行かれないと、その年は豊漁にならないという。これは戦後は廃れてしまったが、子供にとっては楽しい行事であった。同様の事例として、保内町雨井でも「船乗初め」といって、二日に船主がご馳走を作って、乗組員を呼んで船上で酒盛りをし、その後に、一升桝に小銭を入れ、親類や近所の子供達に銭を配っていた。
また、大正時代以前の話だが、三瓶町鴫山では「鍬休め」といって、二日に農具に供えた鏡餅を菜園に隠し、地区の青年がこれを探しあい、これを探し当てて、共食していたという。八幡浜市中津川でも、二日の早朝に分限者が自分の畑に餅を隠し、子供達に探させる行事があった。
これらはいずれも、漁業、農業の仕事始めの行事であるが、実際には仕事はやらないで、神を祀り、一年の豊漁、豊作を祈願し、その供物を地区内の子供達に分配している。かつては子供が地域の生業の繁栄祈願に密接に関わっていたことを示すと同時に、現代の子供に、親がお年玉をあげるという行為も、その年の家の繁栄、無事を祈ってのことであると言えるのである。
註 大塚民俗学会編『日本民俗事典』弘文堂
1999年10月21日掲載