※本稿は、松山市立子規記念博物館『子規博だより』Vol.41-1(令和4年6月25日発行)に掲載した原稿である。
紀貫之による古代文学の革新―正岡子規による評価の再考― 大本敬久
一、子規による紀貫之への評価
正岡子規による平安時代の勅撰和歌集『古今和歌集』やその撰者の一人である紀貫之への評価については、明治三一年(一八九八)二月一二日から三月四日にかけて新聞『日本』誌上に一〇回にわたり連載された歌論「歌よみに与ふる書」が広く知られている。
冒頭に「仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候」とあり、和歌、特に『古今和歌集』に対して厳しい評価を下している。一方、『万葉集』と源実朝に関しては肯定的であり、『万葉集』を研究した江戸時代中期の国学者・賀茂真淵を取り上げ、
真淵は歌につきては近世の達見家にて、万葉崇拝のところ抔当時にありて実にえらいものに有之候へども、生らの眼より見ればなほ万葉をも褒め足らぬ心地致候。(中略)真淵は存外に万葉の分らぬ人と呆れ申候。かく申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候
とあり、子規からすれば褒め方が足りないとし、真淵が『万葉集』を崇拝していることを評価しているものの十分ではないと説く。
子規は、真淵を貶しているようにも見えるが、様々な著作に見られるように、実は他の対象への評価(見方によっては攻撃)の目的があって、意図的に文学史上の中心人物や作品を貶す論法を用いるが、ここでは『万葉集』を絶対評価し、真淵に対しても相対的にはプラス評価と読み取ることもできる。
続く「再び歌よみに与ふる書」では、紀貫之や『古今和歌集』について「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬこと」と厳しく評価し、これは広く知られる文章ともなっている。この一文で①紀貫之自身、②『古今和歌集』の作品自体、③『古今和歌集』への崇拝行為もしくは崇拝者という三点に対して否定的な評価となっているが、続きの文章では、『古今和歌集』が「万葉以外に一風を成し」たことを肯定評価し、『古今和歌集』を「真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ」とし「その糟粕を嘗めてをる不見識には驚き入候」と最も厳しい評価を下す。つまり、子規の評価(攻撃)対象は『古今和歌集』そのものではなく、それを崇拝、継承している者たちであった。
同じく、紀貫之に対しても
貫之とても同じ事に候。歌らしき歌は一首も相見え不申候。(中略)但貫之は始めて箇様な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候
とあり、和歌創作に対しての評価は低いが、『古今和歌集』の編纂者としての評価は低くはなく、「糟粕」ではないとする。これは真淵への評価と同様で、一見、強い言葉で貶しながらも、絶対否定されているわけではないのである。
子規以降の古代和歌研究では、子規が紀貫之や『古今和歌集』を絶対否定したとの認識が定着するが、子規独特の論法から生まれた解釈であり、一種の語弊でもあったことには注目しておく必要がある。
このように紀貫之や賀茂真淵を一見、貶しながらも相対的には肯定評価しているが、その上で子規が取り上げたのが香川景樹である。賀茂真淵の『新学』に対して『新学異見』を著した江戸時代後期の歌人・香川景樹に対して、
景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。(中略)景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り可申、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候
と記しており、こちらも一見、手厳しい。ただし、景樹に対して「貫之崇拝にて見識の低きこと」と否定する一方、「善き歌も有之」、「貫之よりも善き歌多く」と肯定評価も見える。子規は景樹を厳しく攻撃した印象が一般的であるが、景樹に対しては子規も一定の評価をした上で、景樹に連なる景樹派(桂園派)を「景樹よりも下手」と断じ、景樹派に対して肯定評価は微塵も見られない。
「歌よみに与ふる書」の冒頭から真淵に始まる様々な評価の落としどころとして、景樹派(桂園派)に対する絶対否定こそが子規の言わんとするところであった。そして具体的に名前が挙がるのが江戸時代後期から明治初期の国学者、歌人であり、宮内庁に出仕して歌道御用掛を務めた八田知紀である。「四たび歌よみに与ふる書」にて「八田知紀の名歌とか申候。知紀の家集はいまだ読まねど、これが名歌ならば大概底も見え透き候」と否定的な評価を下し、それに連なる御歌所派に対しても厳しく批判する。「十たび歌よみに与ふる書」では「御歌所とてえらい人が集まるはずもなく、御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐るにもあらざるべく候」とあり、御歌所に加え、御歌所長(当時、高崎正風)に対して、全く肯定が見られない否定評価で一貫している。
二、「絶対否定」という誤解
「歌よみに与ふる書」での『万葉集』や『古今和歌集』への評価が、子規の死後、現代に至るまでどのように受け止められてきたのだろうか。一例として、明治・大正時代のアララギ派歌人・島木赤彦の文章を取り上げてみたい。赤彦は大正一四年(一九二四)に『万葉集の系統』を著し、
子規は、絶対に万葉集を尊信すると共に、古今集以下を絶対に否認してゐます。これが子規の短歌革新の精神であります(中略)子規が万葉に帰れといつたのは、古今集以後の沈滞した空気を払ひ尽して、万葉集の生き生きした感情と、率直さに帰れといつたのであります
と述べている。子規は『古今和歌集』以降の和歌を「絶対に否認」し、それが子規の短歌革新の精神だとするが、先にも「歌よみに与ふる書」の中で様々な肯定・否定評価を列挙したとおり、子規は『古今和歌集』を「絶対に否認」はしたわけではない。子規が下した評価を後世の者が拡大解釈、もしくは誤認した上で、『古今和歌集』などの作品評価がなされてきたという面も忘れてはいけない。
子規の言葉は厳しく、攻撃的ではあったが、『古今和歌集』を絶対否認したのではなく、『万葉集』を絶対尊信したのではない。例えば「人々に答ふ(七)」(明治三一年四月四日)には
世の歌よみに『万葉集』を崇拝する人あり、『古今集』を崇拝する人あり。いづれも一得一失はあるべけれど、大体の上よりはわれらは『万葉集』崇拝の方に賛成するなり。しかし『万葉集』崇拝家なる者は、多く万葉の区域(否、むしろ万葉中の或部分)を固守して一歩もその外に越えざるを以て、歌に入るべき事物材料極めて少く、ために吾人が感得する諸種の美を現すこと能はず。これわれらが万葉崇拝家に不満を抱く所なり
とあり、『万葉集』自体には肯定的な評価であるものの、『万葉集』を固守、固執する『万葉集』崇拝家に対して不満を抱くと記す。
以上のように、子規の意図とは違った形で後世に解釈、定着していく面があったわけだが、これが現代にまで影響が続いている点が根深い問題でもある。子規が「歌よみに与ふる書」にて下した『古今和歌集』や紀貫之に対する評価は、現在までの国文学(日本文学)、特に古代文学の研究者に重くのしかかってきたのも事実である。
例えば戦後の『古今和歌集』研究の大家・片桐洋一は平成一〇年刊行の『古今和歌集全評釈上』の序文で
『古今集』は一般人におもしろく理解してもらうだけの力が自分にはないのではないか、というような思いが胸の中に横たわっている(中略)正岡子規が(中略)喝破したのは有名だが、何の予備知識もなしに『古今集』を読むと、誰しも、何かチグハグなものを感じ、素直に打ちとけられないものを感ずるのではなかろうか。現代人には『万葉集』の素朴さでなければ、『新古今集』の耽美性のほうが親しみやすいのではないか
とあるように、『古今和歌集』を主体的に評価して子規の指摘を克服するのではなく、子規から一〇〇年以上経った現代でもネガティブに受け止められている。
片桐だけではない。戦後の古代文学研究を牽引した目崎徳衛も同様である。目崎は昭和三六年に著した『人物叢書 紀貫之』の冒頭文で
(子規の評価は)紀貫之が死後一千年目に蒙った致命傷であった。(中略)彼の衣鉢を嗣ぐ「アララギ」が歌壇を制覇して、万葉を学べ、短歌はそれでよいといった調子になってしまったから、憐れむべし貫之の文学史的地位も地に墜ちっ放しで今日に至っているのである
と述べている。
このように現代にいたるまで、子規が古典文学研究者に与えた影響は続いているが、子規が「歌よみに与ふる書」で否定評価を加えたのは香川景樹に連なる桂園派、そして御歌所派であり、『古今和歌集』や紀貫之に対する評価は絶対否定でなく、桂園派、御歌所派を攻撃する手段であり、方便であった。このことを現代にいたるまで古代文学研究者が絶対否定であると誤認することで生じた「呪縛」を解くためには、子規を出発点として『万葉集』、『古今和歌集』をはじめとする一連の文学史を再確認、再構築の作業が必要であろう。
三、紀貫之と『古今和歌集』
さて、『古今和歌集』は平安時代、醍醐天皇の命を受け、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑が撰したわが国初の勅撰和歌集である。成立は序文に延喜五年(九〇五)と記されるが、撰命を受けた年なのか、編纂が終了して奏覧した年なのか定説がなく、延喜一三年の和歌も撰集されており、その頃までに奏上されたか、増補されて完成したとされる。
序文には仮名で記された「仮名序」と漢字交じりの「真名序」があり、「真名序」は貫之の遠縁・紀淑望が記し、「仮名序」は紀貫之が執筆している。
『古今和歌集』に集録された和歌は約一一〇〇首で、構成となる「部立」は、春上・春下・夏・秋上・秋下・冬・賀・離別・羇旅・物名・恋一~五・哀傷・雑上・雑下・雑体・大歌所御歌の順となっており、この部立も貫之の発案によるものであることが「古歌奉りし時の目録の序の長歌」から推測されており、これが中世に至るまでの八代集や二十一代集に引き継がれる編集モデルとなっており、貫之は編集者として新時代を築いたともいえる。
また、集録された和歌を時代区分すると、第一期は九世紀前半で、万葉集からの過渡期でもあり読み人知らずが多く、第二期は「六歌仙」を中心とする九世紀半ばから後半、第三期は九世紀後半から一〇世紀前半で、撰者たちの和歌が多く集録されているのが特徴といえるが、そのうち貫之の歌は最多の一〇二首を数える。しかも最終巻以外の一九巻すべてに掲載されており、貫之は『古今和歌集』の編集者としてだけではなく、表現者として代表的な歌人であることは言うまでもない。
そして、貫之は批評家でもあった。貫之が書いた「仮名序」はわが国最初の歌論ともいわれ、和歌の起源や表現法、編纂の経緯などが記されるが、冒頭の「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」は実に画期的な一文である。「やまと歌」の語彙は漢詩(唐歌)に対して和歌を指す言葉として文献上の初見であり、貫之によって定着した語である。そして後世では当たり前と思ってしまいがちな点ではあるが、「こころ」と「ことば」を関連づけて論じ、「こころ」・「ことば」によって文学を論じていくという自覚的な言語芸術のレベルに押し上げたのも貫之の功績であったといえる。
四、紀貫之の「六歌仙」評
貫之の批評家としての側面が顕著に見えるのが「仮名序」に記された「六歌仙」に対する批評である。
「仮名序」には、平安期の歌人について「官位高き人をばたやすきやうなれば入れず。そのほかに、近き世にその名聞えたる人は」として以下、いわゆる「六歌仙」と呼ばれるようになる六名の歌人が紹介される。「仮名序」で取り上げる歌人は官位の高い者(従三位で参議の小野篁・正三位で中納言の在原行平など)は入れない方針で、「六歌仙」が必ずしも当時の代表者というわけではない。そして「仮名序」には「六歌仙」の表記は見られず、この用例は鎌倉時代初期(『古今和歌集聞書』)以降に定着したものである。後世に「六歌仙」が歌人の代表のごとく持ち上げられるようになるが、「仮名序」を著した貫之は「六歌仙」に対して、次のように厳しい評価を加えている。
近き世にその名聞こえたる人は、すなわち、僧正遍照(昭)は、歌のさまは得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色無くて臭い残れるがごとし。文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず。言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。大伴黒主は、そのさまいやし。言わば、薪負える山人の、花のかげに休めるがごとし。
つまり、僧正遍昭に対しては、歌の体裁は整っているけれども真実味が少ない。在原業平は、情熱があり余って言葉が足りない。文屋康秀は、言葉は巧みだが歌の体裁が内容と合っていない。喜撰法師は、言葉が不明瞭である。小野小町は、昔の衣通姫の系統で、しみじみと感じる様子の歌で強くはなく、美しい女が病気で悩んでいるところがあるのに似ている。そして大友黒主に至っては、歌の姿が下品だと手厳しく評している。
この「仮名序」も醍醐天皇に奏上されており、同時代でも後世においても貴族の間で広く読まれた文章である。勅撰、奏上といういわば公式文書に、公卿は含まなかったものの六人の著名な歌人を批評した点は、貫之の和歌革新に向けての宣言文でもあった。
貫之は続いて「このほかの人々、その名聞ゆる(中略)多かれど、歌とのみ思ひて、そのさま知らぬなるべし」と述べ、「六歌仙」以外では、名の知られている歌人は多いが、詠みさえすれば何でも歌だとばかり思って、真の歌のあり方を知らないと指摘する。「六歌仙」に厳しい評価を加えるものの、他の歌人をそれ以上に酷評することで、相対的に「六歌仙」が肯定評価されたかのように見せている。これは、子規が「歌よみに与ふる書」で用いた論法に共通しているが、推論の域を出ないものの、子規が「歌よみに与ふる書」を執筆するにあたって、『古今和歌集』の「仮名序」、そしてその執筆者である紀貫之を意識し、その論法を参考にした可能性もあるだろう。
五、文学の裾野を広げた紀貫之
「六歌仙」の僧正遍昭は桓武天皇の孫であり、在原業平は平城天皇の孫であるなど臣籍降下はしたものの「貴種」である。では、彼らを厳しく批評した貫之は当時、朝廷の中で高い地位、権威のある立場にあったのかといえば、全くそうではなかった。
貫之は貞観八年(八六六)生まれ(諸説あり)だが、三十歳代の延喜五年(九〇五)頃に蔵人所の所管で内裏の書物を管理する「御書所預」となり『古今和歌集』を編纂することになる。その後の延喜一〇年に正七位上相当で宮中の書物を保管する役所の次官である「少内記」となり、延喜一三年に正六位上相当で中務省で詔勅・宣命など起草する「大内記」になるが、朝廷内での地位は低く、五位以上の貴族に程遠い立場であった。
延喜一七年にようやく従五位下となって貴族に列せられたが、四十代後半から五十歳頃のことであり、非常に遅い昇進であった。そして延長八年(九三〇)、六十歳頃に「土佐守」に任じられ、その任期を終えて『土佐日記』を著した。『土佐日記』は晩年の作品であるが、新たな文芸表現、つまり仮名表現による日記文学を確立したことが文学史上、大きな功績でもあることは周知のところであり、貫之は歌人の側面だけではない表現者であった。
そして天慶六年には従五位上となり、天慶八年に没している。初の勅撰和歌集の編纂者であり、「六歌仙」を厳しく批評したが、何とか晩年に貴族に列したものの、三位以上の公卿に届くことのない官位での一生涯であった。
見方を変えれば、皇族、皇親、公卿、貴族といった当時の朝廷内エリートの創作芸術としての文学は漢詩が主流であり、これは一部の限られた者による閉ざされた世界で、特に男性貴族が担うものとされていた。それに対して仮名を用いた「やまと歌」で「こころ」と「ことば」を相関させることにより、幅広く、男性、女性を問わず、創作する機会を定着させたということもできる。たとえ官位が低くても創作し、批評もできる。創作と批評という文学の裾野を広げた功績は大きいといえるだろう。
このように、紀貫之を表現者、編集者、批評家としての側面を挙げてみたが、これは近代の俳句・短歌革新を担った正岡子規に共通していると見ることもできる。貫之が古代文学の革新者であり、その功績を子規は理解した上で「歌よみに与ふる書」の中では、貫之を中心に据えて、あえて厳しい表現で取り上げようとしたのではないだろうか。
「下手な歌よみ」との厳しい表現とは表裏一体で、実は子規は貫之を大いなる革新者として認め、貫之を克服することを、近代における自らの宿命と感じていたのかもしれない。
(参考文献)
島木赤彦『歌道小見』岩波書店、一九二四年(『赤彦全集』三、岩波書店、一九六九年所収)
目崎徳衛『人物叢書 紀貫之』吉川弘文館、一九六一年
『日本思想大系 近世神道論・前期国学』岩波書店、一九七二年
正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 一九八三年改版
『新編日本古典文学全集一一 古今和歌集』小学館、一九九四年
片桐洋一『古今和歌集全評釈 上』講談社、一九九八年
鈴木宏子『「古今和歌集」の創造力』NHK出版、二〇一八年
拙稿「正岡子規と紀貫之―『古今和歌集』評価の新視点―」『子規会誌』一七二号、二〇二一年
紀貫之による古代文学の革新―正岡子規による評価の再考― 大本敬久
一、子規による紀貫之への評価
正岡子規による平安時代の勅撰和歌集『古今和歌集』やその撰者の一人である紀貫之への評価については、明治三一年(一八九八)二月一二日から三月四日にかけて新聞『日本』誌上に一〇回にわたり連載された歌論「歌よみに与ふる書」が広く知られている。
冒頭に「仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候」とあり、和歌、特に『古今和歌集』に対して厳しい評価を下している。一方、『万葉集』と源実朝に関しては肯定的であり、『万葉集』を研究した江戸時代中期の国学者・賀茂真淵を取り上げ、
真淵は歌につきては近世の達見家にて、万葉崇拝のところ抔当時にありて実にえらいものに有之候へども、生らの眼より見ればなほ万葉をも褒め足らぬ心地致候。(中略)真淵は存外に万葉の分らぬ人と呆れ申候。かく申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候
とあり、子規からすれば褒め方が足りないとし、真淵が『万葉集』を崇拝していることを評価しているものの十分ではないと説く。
子規は、真淵を貶しているようにも見えるが、様々な著作に見られるように、実は他の対象への評価(見方によっては攻撃)の目的があって、意図的に文学史上の中心人物や作品を貶す論法を用いるが、ここでは『万葉集』を絶対評価し、真淵に対しても相対的にはプラス評価と読み取ることもできる。
続く「再び歌よみに与ふる書」では、紀貫之や『古今和歌集』について「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬこと」と厳しく評価し、これは広く知られる文章ともなっている。この一文で①紀貫之自身、②『古今和歌集』の作品自体、③『古今和歌集』への崇拝行為もしくは崇拝者という三点に対して否定的な評価となっているが、続きの文章では、『古今和歌集』が「万葉以外に一風を成し」たことを肯定評価し、『古今和歌集』を「真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ」とし「その糟粕を嘗めてをる不見識には驚き入候」と最も厳しい評価を下す。つまり、子規の評価(攻撃)対象は『古今和歌集』そのものではなく、それを崇拝、継承している者たちであった。
同じく、紀貫之に対しても
貫之とても同じ事に候。歌らしき歌は一首も相見え不申候。(中略)但貫之は始めて箇様な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候
とあり、和歌創作に対しての評価は低いが、『古今和歌集』の編纂者としての評価は低くはなく、「糟粕」ではないとする。これは真淵への評価と同様で、一見、強い言葉で貶しながらも、絶対否定されているわけではないのである。
子規以降の古代和歌研究では、子規が紀貫之や『古今和歌集』を絶対否定したとの認識が定着するが、子規独特の論法から生まれた解釈であり、一種の語弊でもあったことには注目しておく必要がある。
このように紀貫之や賀茂真淵を一見、貶しながらも相対的には肯定評価しているが、その上で子規が取り上げたのが香川景樹である。賀茂真淵の『新学』に対して『新学異見』を著した江戸時代後期の歌人・香川景樹に対して、
景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。(中略)景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り可申、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候
と記しており、こちらも一見、手厳しい。ただし、景樹に対して「貫之崇拝にて見識の低きこと」と否定する一方、「善き歌も有之」、「貫之よりも善き歌多く」と肯定評価も見える。子規は景樹を厳しく攻撃した印象が一般的であるが、景樹に対しては子規も一定の評価をした上で、景樹に連なる景樹派(桂園派)を「景樹よりも下手」と断じ、景樹派に対して肯定評価は微塵も見られない。
「歌よみに与ふる書」の冒頭から真淵に始まる様々な評価の落としどころとして、景樹派(桂園派)に対する絶対否定こそが子規の言わんとするところであった。そして具体的に名前が挙がるのが江戸時代後期から明治初期の国学者、歌人であり、宮内庁に出仕して歌道御用掛を務めた八田知紀である。「四たび歌よみに与ふる書」にて「八田知紀の名歌とか申候。知紀の家集はいまだ読まねど、これが名歌ならば大概底も見え透き候」と否定的な評価を下し、それに連なる御歌所派に対しても厳しく批判する。「十たび歌よみに与ふる書」では「御歌所とてえらい人が集まるはずもなく、御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐るにもあらざるべく候」とあり、御歌所に加え、御歌所長(当時、高崎正風)に対して、全く肯定が見られない否定評価で一貫している。
二、「絶対否定」という誤解
「歌よみに与ふる書」での『万葉集』や『古今和歌集』への評価が、子規の死後、現代に至るまでどのように受け止められてきたのだろうか。一例として、明治・大正時代のアララギ派歌人・島木赤彦の文章を取り上げてみたい。赤彦は大正一四年(一九二四)に『万葉集の系統』を著し、
子規は、絶対に万葉集を尊信すると共に、古今集以下を絶対に否認してゐます。これが子規の短歌革新の精神であります(中略)子規が万葉に帰れといつたのは、古今集以後の沈滞した空気を払ひ尽して、万葉集の生き生きした感情と、率直さに帰れといつたのであります
と述べている。子規は『古今和歌集』以降の和歌を「絶対に否認」し、それが子規の短歌革新の精神だとするが、先にも「歌よみに与ふる書」の中で様々な肯定・否定評価を列挙したとおり、子規は『古今和歌集』を「絶対に否認」はしたわけではない。子規が下した評価を後世の者が拡大解釈、もしくは誤認した上で、『古今和歌集』などの作品評価がなされてきたという面も忘れてはいけない。
子規の言葉は厳しく、攻撃的ではあったが、『古今和歌集』を絶対否認したのではなく、『万葉集』を絶対尊信したのではない。例えば「人々に答ふ(七)」(明治三一年四月四日)には
世の歌よみに『万葉集』を崇拝する人あり、『古今集』を崇拝する人あり。いづれも一得一失はあるべけれど、大体の上よりはわれらは『万葉集』崇拝の方に賛成するなり。しかし『万葉集』崇拝家なる者は、多く万葉の区域(否、むしろ万葉中の或部分)を固守して一歩もその外に越えざるを以て、歌に入るべき事物材料極めて少く、ために吾人が感得する諸種の美を現すこと能はず。これわれらが万葉崇拝家に不満を抱く所なり
とあり、『万葉集』自体には肯定的な評価であるものの、『万葉集』を固守、固執する『万葉集』崇拝家に対して不満を抱くと記す。
以上のように、子規の意図とは違った形で後世に解釈、定着していく面があったわけだが、これが現代にまで影響が続いている点が根深い問題でもある。子規が「歌よみに与ふる書」にて下した『古今和歌集』や紀貫之に対する評価は、現在までの国文学(日本文学)、特に古代文学の研究者に重くのしかかってきたのも事実である。
例えば戦後の『古今和歌集』研究の大家・片桐洋一は平成一〇年刊行の『古今和歌集全評釈上』の序文で
『古今集』は一般人におもしろく理解してもらうだけの力が自分にはないのではないか、というような思いが胸の中に横たわっている(中略)正岡子規が(中略)喝破したのは有名だが、何の予備知識もなしに『古今集』を読むと、誰しも、何かチグハグなものを感じ、素直に打ちとけられないものを感ずるのではなかろうか。現代人には『万葉集』の素朴さでなければ、『新古今集』の耽美性のほうが親しみやすいのではないか
とあるように、『古今和歌集』を主体的に評価して子規の指摘を克服するのではなく、子規から一〇〇年以上経った現代でもネガティブに受け止められている。
片桐だけではない。戦後の古代文学研究を牽引した目崎徳衛も同様である。目崎は昭和三六年に著した『人物叢書 紀貫之』の冒頭文で
(子規の評価は)紀貫之が死後一千年目に蒙った致命傷であった。(中略)彼の衣鉢を嗣ぐ「アララギ」が歌壇を制覇して、万葉を学べ、短歌はそれでよいといった調子になってしまったから、憐れむべし貫之の文学史的地位も地に墜ちっ放しで今日に至っているのである
と述べている。
このように現代にいたるまで、子規が古典文学研究者に与えた影響は続いているが、子規が「歌よみに与ふる書」で否定評価を加えたのは香川景樹に連なる桂園派、そして御歌所派であり、『古今和歌集』や紀貫之に対する評価は絶対否定でなく、桂園派、御歌所派を攻撃する手段であり、方便であった。このことを現代にいたるまで古代文学研究者が絶対否定であると誤認することで生じた「呪縛」を解くためには、子規を出発点として『万葉集』、『古今和歌集』をはじめとする一連の文学史を再確認、再構築の作業が必要であろう。
三、紀貫之と『古今和歌集』
さて、『古今和歌集』は平安時代、醍醐天皇の命を受け、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑が撰したわが国初の勅撰和歌集である。成立は序文に延喜五年(九〇五)と記されるが、撰命を受けた年なのか、編纂が終了して奏覧した年なのか定説がなく、延喜一三年の和歌も撰集されており、その頃までに奏上されたか、増補されて完成したとされる。
序文には仮名で記された「仮名序」と漢字交じりの「真名序」があり、「真名序」は貫之の遠縁・紀淑望が記し、「仮名序」は紀貫之が執筆している。
『古今和歌集』に集録された和歌は約一一〇〇首で、構成となる「部立」は、春上・春下・夏・秋上・秋下・冬・賀・離別・羇旅・物名・恋一~五・哀傷・雑上・雑下・雑体・大歌所御歌の順となっており、この部立も貫之の発案によるものであることが「古歌奉りし時の目録の序の長歌」から推測されており、これが中世に至るまでの八代集や二十一代集に引き継がれる編集モデルとなっており、貫之は編集者として新時代を築いたともいえる。
また、集録された和歌を時代区分すると、第一期は九世紀前半で、万葉集からの過渡期でもあり読み人知らずが多く、第二期は「六歌仙」を中心とする九世紀半ばから後半、第三期は九世紀後半から一〇世紀前半で、撰者たちの和歌が多く集録されているのが特徴といえるが、そのうち貫之の歌は最多の一〇二首を数える。しかも最終巻以外の一九巻すべてに掲載されており、貫之は『古今和歌集』の編集者としてだけではなく、表現者として代表的な歌人であることは言うまでもない。
そして、貫之は批評家でもあった。貫之が書いた「仮名序」はわが国最初の歌論ともいわれ、和歌の起源や表現法、編纂の経緯などが記されるが、冒頭の「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」は実に画期的な一文である。「やまと歌」の語彙は漢詩(唐歌)に対して和歌を指す言葉として文献上の初見であり、貫之によって定着した語である。そして後世では当たり前と思ってしまいがちな点ではあるが、「こころ」と「ことば」を関連づけて論じ、「こころ」・「ことば」によって文学を論じていくという自覚的な言語芸術のレベルに押し上げたのも貫之の功績であったといえる。
四、紀貫之の「六歌仙」評
貫之の批評家としての側面が顕著に見えるのが「仮名序」に記された「六歌仙」に対する批評である。
「仮名序」には、平安期の歌人について「官位高き人をばたやすきやうなれば入れず。そのほかに、近き世にその名聞えたる人は」として以下、いわゆる「六歌仙」と呼ばれるようになる六名の歌人が紹介される。「仮名序」で取り上げる歌人は官位の高い者(従三位で参議の小野篁・正三位で中納言の在原行平など)は入れない方針で、「六歌仙」が必ずしも当時の代表者というわけではない。そして「仮名序」には「六歌仙」の表記は見られず、この用例は鎌倉時代初期(『古今和歌集聞書』)以降に定着したものである。後世に「六歌仙」が歌人の代表のごとく持ち上げられるようになるが、「仮名序」を著した貫之は「六歌仙」に対して、次のように厳しい評価を加えている。
近き世にその名聞こえたる人は、すなわち、僧正遍照(昭)は、歌のさまは得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色無くて臭い残れるがごとし。文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず。言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。大伴黒主は、そのさまいやし。言わば、薪負える山人の、花のかげに休めるがごとし。
つまり、僧正遍昭に対しては、歌の体裁は整っているけれども真実味が少ない。在原業平は、情熱があり余って言葉が足りない。文屋康秀は、言葉は巧みだが歌の体裁が内容と合っていない。喜撰法師は、言葉が不明瞭である。小野小町は、昔の衣通姫の系統で、しみじみと感じる様子の歌で強くはなく、美しい女が病気で悩んでいるところがあるのに似ている。そして大友黒主に至っては、歌の姿が下品だと手厳しく評している。
この「仮名序」も醍醐天皇に奏上されており、同時代でも後世においても貴族の間で広く読まれた文章である。勅撰、奏上といういわば公式文書に、公卿は含まなかったものの六人の著名な歌人を批評した点は、貫之の和歌革新に向けての宣言文でもあった。
貫之は続いて「このほかの人々、その名聞ゆる(中略)多かれど、歌とのみ思ひて、そのさま知らぬなるべし」と述べ、「六歌仙」以外では、名の知られている歌人は多いが、詠みさえすれば何でも歌だとばかり思って、真の歌のあり方を知らないと指摘する。「六歌仙」に厳しい評価を加えるものの、他の歌人をそれ以上に酷評することで、相対的に「六歌仙」が肯定評価されたかのように見せている。これは、子規が「歌よみに与ふる書」で用いた論法に共通しているが、推論の域を出ないものの、子規が「歌よみに与ふる書」を執筆するにあたって、『古今和歌集』の「仮名序」、そしてその執筆者である紀貫之を意識し、その論法を参考にした可能性もあるだろう。
五、文学の裾野を広げた紀貫之
「六歌仙」の僧正遍昭は桓武天皇の孫であり、在原業平は平城天皇の孫であるなど臣籍降下はしたものの「貴種」である。では、彼らを厳しく批評した貫之は当時、朝廷の中で高い地位、権威のある立場にあったのかといえば、全くそうではなかった。
貫之は貞観八年(八六六)生まれ(諸説あり)だが、三十歳代の延喜五年(九〇五)頃に蔵人所の所管で内裏の書物を管理する「御書所預」となり『古今和歌集』を編纂することになる。その後の延喜一〇年に正七位上相当で宮中の書物を保管する役所の次官である「少内記」となり、延喜一三年に正六位上相当で中務省で詔勅・宣命など起草する「大内記」になるが、朝廷内での地位は低く、五位以上の貴族に程遠い立場であった。
延喜一七年にようやく従五位下となって貴族に列せられたが、四十代後半から五十歳頃のことであり、非常に遅い昇進であった。そして延長八年(九三〇)、六十歳頃に「土佐守」に任じられ、その任期を終えて『土佐日記』を著した。『土佐日記』は晩年の作品であるが、新たな文芸表現、つまり仮名表現による日記文学を確立したことが文学史上、大きな功績でもあることは周知のところであり、貫之は歌人の側面だけではない表現者であった。
そして天慶六年には従五位上となり、天慶八年に没している。初の勅撰和歌集の編纂者であり、「六歌仙」を厳しく批評したが、何とか晩年に貴族に列したものの、三位以上の公卿に届くことのない官位での一生涯であった。
見方を変えれば、皇族、皇親、公卿、貴族といった当時の朝廷内エリートの創作芸術としての文学は漢詩が主流であり、これは一部の限られた者による閉ざされた世界で、特に男性貴族が担うものとされていた。それに対して仮名を用いた「やまと歌」で「こころ」と「ことば」を相関させることにより、幅広く、男性、女性を問わず、創作する機会を定着させたということもできる。たとえ官位が低くても創作し、批評もできる。創作と批評という文学の裾野を広げた功績は大きいといえるだろう。
このように、紀貫之を表現者、編集者、批評家としての側面を挙げてみたが、これは近代の俳句・短歌革新を担った正岡子規に共通していると見ることもできる。貫之が古代文学の革新者であり、その功績を子規は理解した上で「歌よみに与ふる書」の中では、貫之を中心に据えて、あえて厳しい表現で取り上げようとしたのではないだろうか。
「下手な歌よみ」との厳しい表現とは表裏一体で、実は子規は貫之を大いなる革新者として認め、貫之を克服することを、近代における自らの宿命と感じていたのかもしれない。
(参考文献)
島木赤彦『歌道小見』岩波書店、一九二四年(『赤彦全集』三、岩波書店、一九六九年所収)
目崎徳衛『人物叢書 紀貫之』吉川弘文館、一九六一年
『日本思想大系 近世神道論・前期国学』岩波書店、一九七二年
正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 一九八三年改版
『新編日本古典文学全集一一 古今和歌集』小学館、一九九四年
片桐洋一『古今和歌集全評釈 上』講談社、一九九八年
鈴木宏子『「古今和歌集」の創造力』NHK出版、二〇一八年
拙稿「正岡子規と紀貫之―『古今和歌集』評価の新視点―」『子規会誌』一七二号、二〇二一年