昨日は真珠湾攻撃から70年。昭和16年当時、愛媛県伊方町の三机湾を真珠湾に見立てて密かに特殊潜航艇の訓練をしていた若者達。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃により9人が戦死。太平洋戦争で最初の戦死者とされています。以下の記事は、愛媛新聞の前身『愛媛合同新聞』の昭和17年3月13日付のものです。この一週間前に大本営発表で、九軍神のことがはじめて知られるようになり、連日、九軍神について報道されていました。三机の地元の方々との交流や、地元の方の証言も記載されていることから、記事本文を紹介しておきたいと思います。なお、記事本文には「◯◯」と出てきますが、これは佐田岬であったり三机といった地名等が入るのですが、当時の新聞では公表できず「◯◯」と表記されています。
軍神、試錬の道場 意外や本県◯◯湾 海国伊予に光栄の由縁
(◯◯にて横田支局長発)太平洋に威容を誇るアメリカ艦隊を昭和十六年十二月八日真珠湾で撃滅した我が帝国海軍特別攻撃の輝く武勲は世界戦史上に永劫、不滅の栄光としてきざみ込まれたが、その精神は御親征の昔に始まり作戦は既に二十数年前からねられてゐた、真珠湾の檜舞台へひそかに突入せし直前の稽古部隊は如何なる行をしてゐたか?・・・記者は本県◯◯湾にありし日のたゆまざる訓練の足跡をたどつた―
余裕ある訓練ぶり 暇々には子供と遊ぶ
◯◯半島の半農半漁の◯◯村の湾へ真珠湾攻撃の二ヶ月前まで◯◯の船が入り同年十月十八日頃まで猛訓練を繰返してをり、その中には佐々木特務少尉(当時一等兵曹)上田兵曹長(同二等兵曹)片山兵曹長(同上)稲垣兵曹長(同上)と四人までがゐた事がこの程判明したすなはちその当時、戦時日本の国民として防諜に万全を期してゐた村民達だが・・・◯◯町◯◯旅館を休憩所として上陸の休み休みに附近の子供達と無邪気に戯れてゐた勇士達のお世話をしてゐた、◯◯旅館女将井上マツヱさん(四二)と油だらけになった訓練服の洗濯からアイロンカケまでのお世話をしてゐた女中木村キミエさん(二〇)を始め川内善子さん(二一)岩見邦子さん(一九)河野スズヱさん(一九)等は交々左の如く語る
思ひ出す あの顔あの声 面影しのぶ土地の人々
四人の兵曹の方は、どなたも好男子で、おとなしい裡にも朗らか・・・実に立派な人達ばかりでした、私達も一生懸命お手伝ひを致してをりました関係上、よく知り合つて居りましたものでしたから、ラジオや新聞であの方達が戦死した事を知つた時は、全く云ひ知れぬ驚愕に打たれてこの日ワツト泣いた位です◯人の士官さんと共に◯◯名の兵曹さんの中に皆さん(四勇士)が交つて昨年五月頃、こちらに見えましたが訓練の模様は申されませんが、時おり遥か沖合から帰つてくる◯◯をみました今考へて見ると・・・あの船に乗つて敵の大きな軍艦をヤツツケたのだと思へば、実に感慨深いものがあります、何時も沖合に碇泊中の◯◯まで帰り、すぐにカバーをしてその船影を見えなくしてをられました、兵曹さん達は大抵午後の七時頃に上陸して約二時間ほど私達とピンポンをしたり庭球をしてすぐ帰つてをられましたが「昨夜は徹夜をしたので休ませて下さい」とゴロリ横になられてゐた事もあり実に無邪気な面白い人達でした、また時折り魚釣りや汐干狩に鋭気を養なつてゐられた事もありましたが・・・片山兵曹長は少しお酒を好まれ、そんな時にオシヤベリを発揮してをりましたが水泳も達者でした、佐々木兵曹や上田兵曹は本当に静かな落着きのある方でした、ハワイの特別攻撃隊勇士にとつてこの◯◯村は縁深い所と思へば感激に堪へません、その後手紙も貰つてゐますが、想ひ起せば・・・ソボ降る雨の十月十八日「三月頃、暖くなつたらまた来るよ!」との言葉を残して引き上けて行く勇士さん達を遠く見送つたのでありますが、あれが永久のお別で大東亜の軍神となられたのだと思ふと・・・感慨無量です・・・
軍神、試錬の道場 意外や本県◯◯湾 海国伊予に光栄の由縁
(◯◯にて横田支局長発)太平洋に威容を誇るアメリカ艦隊を昭和十六年十二月八日真珠湾で撃滅した我が帝国海軍特別攻撃の輝く武勲は世界戦史上に永劫、不滅の栄光としてきざみ込まれたが、その精神は御親征の昔に始まり作戦は既に二十数年前からねられてゐた、真珠湾の檜舞台へひそかに突入せし直前の稽古部隊は如何なる行をしてゐたか?・・・記者は本県◯◯湾にありし日のたゆまざる訓練の足跡をたどつた―
余裕ある訓練ぶり 暇々には子供と遊ぶ
◯◯半島の半農半漁の◯◯村の湾へ真珠湾攻撃の二ヶ月前まで◯◯の船が入り同年十月十八日頃まで猛訓練を繰返してをり、その中には佐々木特務少尉(当時一等兵曹)上田兵曹長(同二等兵曹)片山兵曹長(同上)稲垣兵曹長(同上)と四人までがゐた事がこの程判明したすなはちその当時、戦時日本の国民として防諜に万全を期してゐた村民達だが・・・◯◯町◯◯旅館を休憩所として上陸の休み休みに附近の子供達と無邪気に戯れてゐた勇士達のお世話をしてゐた、◯◯旅館女将井上マツヱさん(四二)と油だらけになった訓練服の洗濯からアイロンカケまでのお世話をしてゐた女中木村キミエさん(二〇)を始め川内善子さん(二一)岩見邦子さん(一九)河野スズヱさん(一九)等は交々左の如く語る
思ひ出す あの顔あの声 面影しのぶ土地の人々
四人の兵曹の方は、どなたも好男子で、おとなしい裡にも朗らか・・・実に立派な人達ばかりでした、私達も一生懸命お手伝ひを致してをりました関係上、よく知り合つて居りましたものでしたから、ラジオや新聞であの方達が戦死した事を知つた時は、全く云ひ知れぬ驚愕に打たれてこの日ワツト泣いた位です◯人の士官さんと共に◯◯名の兵曹さんの中に皆さん(四勇士)が交つて昨年五月頃、こちらに見えましたが訓練の模様は申されませんが、時おり遥か沖合から帰つてくる◯◯をみました今考へて見ると・・・あの船に乗つて敵の大きな軍艦をヤツツケたのだと思へば、実に感慨深いものがあります、何時も沖合に碇泊中の◯◯まで帰り、すぐにカバーをしてその船影を見えなくしてをられました、兵曹さん達は大抵午後の七時頃に上陸して約二時間ほど私達とピンポンをしたり庭球をしてすぐ帰つてをられましたが「昨夜は徹夜をしたので休ませて下さい」とゴロリ横になられてゐた事もあり実に無邪気な面白い人達でした、また時折り魚釣りや汐干狩に鋭気を養なつてゐられた事もありましたが・・・片山兵曹長は少しお酒を好まれ、そんな時にオシヤベリを発揮してをりましたが水泳も達者でした、佐々木兵曹や上田兵曹は本当に静かな落着きのある方でした、ハワイの特別攻撃隊勇士にとつてこの◯◯村は縁深い所と思へば感激に堪へません、その後手紙も貰つてゐますが、想ひ起せば・・・ソボ降る雨の十月十八日「三月頃、暖くなつたらまた来るよ!」との言葉を残して引き上けて行く勇士さん達を遠く見送つたのでありますが、あれが永久のお別で大東亜の軍神となられたのだと思ふと・・・感慨無量です・・・