仕事の都合上、見には行けなかったが、今日は、四国中央市新宮の「鐘踊り」の日。旧暦8月1日に行っていたが、現在は8月最終日曜日に行われている。いわゆる八朔行事の一つだ。八朔(旧暦もしくは月遅れ)はもうすぐなので、ここで、愛媛の八朔習俗のうち、文献史料に見えるものを紹介しておきたい。
江戸時代から明治時代初期にかけての愛媛(伊予)の八朔習俗の様子がわかる史料は主なものを3点。まずは南予地方の旧宇和島藩領内の八朔についてである。宇和島藩士桜田某が文政年間に記述した随筆(「桜田随筆」と仮称する。出典は『宇和島吉田両藩誌』、『愛媛県史民俗編上』にも所収)によると「八朔・田実朔 田の実の朔といふ事に就て農人の家々に稲の溝苅をして、其籾を煎りて平米にしてお伊勢様をはじめ氏神様へ備へると申す事、昔も今に替る事なし。此の起りを聞くに、此の備へ物をして次に御物成を計ると農家の老人の申せし事を考へて見れば、則新嘗会の心なるべく、いと貴き心地す」とあり、名称は「タノミノツイタチ」であり、焼き米(「平米」)を神に供えていたことがわかる。その神の中でも氏神よりもお伊勢様が先に記述されているが、この行事が伊勢信仰と関わることが推察できる。旧宇和島藩領内においては、藩が「神明社」の建立を奨励しており、この地域は伊勢信仰が盛んであった(註『県史民俗編上』六〇〇頁)。なお、近年でも八朔に伊勢踊りを奉納するというところが三間町や広見町にある。『日本民俗大辞典』の「八朔」の項に「神社の八朔祭も各地で行われているが、伊勢神宮でも八朔参宮といって、この日に初穂を神前に供えている」という記述があるが、『年中行事辞典』(六四〇頁)にも「八朔参宮 八朔の節供の早朝に伊勢神宮に参拝すること。米・粟などの初穂を抜いて神前に供え、五穀成就を祈る」とある。この八朔参宮の歴史的推移については未だ調べていないが、南予地方、特に旧宇和島藩領内の八朔行事は、伊勢神宮での八朔参宮に影響を受けた可能性があるのではないか。
次に東予地方の今治藩領内関係の史料を紹介しておく。今治藩士戸塚政興が文政六(一八二三)年頃までに完成したといわれ、今治藩の文化年間頃までの諸雑記を集録した『今治夜話』(『伊予史談会双書第二集今治夜話・小松邑志』六一頁)には「田実、此地八朔之祝事也。世以八朔曰頼母之節、或曰田之実節者、共祝秋熟之儀、所以求親睦之和者乎。此物、方今三都及余国更無所聞者也矣。蓋田実者以新穀為団子造人物及鳥獣之形。大一寸五分、其彩乎以丹砂・緑青点之耳。其様古雅也。女児集之遊賞、或贈答之、似桃節雛遊。蓋伝古風者焉。(図挿入)女児呼之曰頼母、鬻者云之田実也兮田実也。一物二名、是亦一奇事也。」とある。この記述からは文化年間においては八朔の祝いの名称が「タノミ」であり、「頼母」・「田実」に漢字をあてていたが、どちらかに確定はしていないことや、当時の江戸・京・大坂の三都や他の国でも聞くことのできない行事であることが認識されていたことがわかる。また、新穀で人や鳥獣の形をした団子を作り、それを女児が鑑賞する点は三月の雛遊びに類似するとしている。
なお、今治藩における八朔行事に関する史料は、明治時代中期に国分村の旧庄屋であった加藤友太郎が編纂した「国府叢書」巻二十三(『今治郷土史 国府叢書 資料編近世二』一〇一五頁)にも見られる。この「国府叢書」巻二十三は正月から節句、盆、大晦日までの年中行事、農作業暦、衣食住などを詳述しており、時代としては江戸時代末期から明治時代初期にかけての今治地域の民俗事例が把握できる史料である。ここに八朔について「田ノ実節句(八朔ト云) 八月朔日なり、此日ハ団子ニテ人形其他種々之物ヲ拵ヘテ、之レヲ祭リ、尚家内ノ諸神ヘモ、餅抔ヲ拵ヘ献スルモノ也、其他の供物ハ、御酒、飯等ニシテ、夜間ハ前夜及此夜ニ、燈火ヲ点スルモノ也、此月ハ海水田ノ実汐トテ、例年高ク満ツルト云、如何ニ也」とあり、団子で種々の人形を作って、家の中の諸神とともに餅、酒、飯などを供え、前夜と当夜は火を燈していたことがわかる。なお、この時期の大潮を「田ノ実汐」と呼ぶことは、吉海町誌に「この日は一年で一番潮の流れが荒い時期といい、これを「たのも潮」といっている」とあるように、近年でも使用されている。
以上、八朔に関する史料を3点羅列してみた。今、このテーマに興味を持って情報収集してるのだが、追って、このブログで八朔習俗を紹介する場を設けたい。
2005-08-28