「四国の春はお遍路の鈴の音からはじまる」というが、八幡浜地方には四国八十八ヶ所の霊場もなく、遍路道からも外れているため、普段、お遍路さんに出会うことは少ない。
しかし、九州から来るお遍路さんにとっては、八幡浜は四国の玄関口である。バスや自家用車での遍路がほとんどとなった現在、八幡浜は単なる通過点に過ぎなくなってしまったが、かつて歩き遍路が多かった頃、つまり昭和二十年代以前には、八幡浜は遍路にとって重要な場所であった。 例えば、八幡浜の港では、九州から来た遍路のために、遍路衣装一式を揃えることのできる店があったり、町には遍路宿も数軒あった。『八幡浜市誌』に紹介されている幕末から明治時代初期の八幡浜各町の居住者を記した「八幡浜浦住民調べ」によると、船場通りに「三国屋へんろ宿」、「豊後屋へんろ宿」があったと記されており、港近くに遍路のための宿があったのである。
また、遍路が大洲方面へ行くための道標もある。これは、現在、川之内に残っており、その道標には、指型と弘法大師坐像が刻まれ、「左 へんろ道」と記されている。安政四(一八五七)年建立のものである。川之内で聞いたところでは、この道標だけでなく、現在は消滅したものの、戦前には、遍路道沿いに木製の道標が何基か立てられていたという。そして、遍路に対しても接待が行われていた(註1)。また、川之内以外にも、かつては浜田橋付近に、嘉永七(一八五四)年建立の遍路道標があった(註2)。これらの事例は、戦前の八幡浜においては、遍路と交流が盛んだったことを物語っている。
現在は、八十八ヶ所を結ぶ道が遍路道とされているが、かつては、それ以外にも、遍路道として機能していた道があったのである。最近、四国遍路道を「世界文化遺産」に登録しようという運動が行われているが、かつての八十八ヶ所を結ぶ道以外の遍路道を無視するのは遍路文化の一端しか見ないということになりかねない。遍路文化を「道」という線単位ではなく、四国全体という「面」単位でとらえることが大切なのではないだろうか。そういった意味で、八幡浜の遍路文化を掘り起こすことは、四国全体の遍路文化を見つめ直すきっかけになり得るのではないだろうか。
註1 「八幡浜市川之内地区民俗調査報告」『県歴博研究紀要』一号 一九九六年
註2 松田守「道標をたずねて」『八幡浜史談』七 一九七九年
2000年04月06日 南海日日新聞掲載