愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

義農作兵衛

2004年03月23日 | 生産生業

作兵衛(さくべえ)は、元禄元(1688)年、伊予国松山藩筒井村(現松前町)の貧しい農家に生まれました。少年の頃より昼は田畑を耕し、夜は遅くまで草鞋を作るなど、昼夜一心に働いて、村の人は作兵衛を若い者の手本だと思っていました。
そのうち、家の暮らしも次第に楽になり、地味が悪いながらも少しばかりの田地を買うことができました。作兵衛は勇んで村役人のところへ行って、買った田地の所有手続きをしました。村役人は作兵衛の買った田地が、地味の悪い痩せた土地なので、収穫は少ないだろうと考え、税を納めさせるのは気の毒に思いました。しかし作兵衛は「どんな土地でも苦労して一生懸命に耕せば、必ず良い田地に仕上がり、多くの米を収穫することができるはずです。」と言いました。作兵衛は前にもまして農作業に精を出し、実際に良い田地に仕上げ、多くの収穫を得ました。痩せた土地を数年で見事な田地に変えたのです。その上に、他にも良い田地をたくさん買うことができました。
さて、享保17(1732)年、松山藩は大変な飢饉(ききん)に見舞われました。長雨と洪水につづいて、ウンカという害虫の発生がものすごく、稲をはじめ雑草まで食い荒らす有様で、米の収穫はごくわずかでした。農民たちはわずかに蓄えていた雑穀、くず根、ぬか類を食べて、飢えをしのいでいましたが、それさえもなくなり、餓死する者が数え切れないほど出てきました。
9月に入り、次第に涼しくなって麦をまく季節がやってきました。飢饉のため、田畑を捨てて離散する者も多かったのですが、作兵衛は、飢えの中、倒れそうになる体をふるいおこし、麦畑に出て、耕作をはじめました。けれども、あまりの飢えと疲労のため、その場に倒れてしまいました。近所の人に助けられ、ようやく家に帰ることはできましたが、起きあがることができなくなり、麦俵を枕にして寝込んでしまいました。
 このみじめな有様を見た近隣の人々は、その俵の麦を食べ、命を長らえるようにすすめました。すると作兵衛は「穀物の種子を播いて収穫を得て、租税として納めるのは民の務めである。これにより国の人々は生活ができるのである。しからば、穀物の種子は、自分の命に以上に貴重なものなのだ。民は国の基本であって、種子は農事の基本である。今もし、私一人がこの麦種を食して、数日の生命をつなぎ得たとしても、来年の麦種をどこから得ることができるであろうか。わが身はたとえ、ここに餓死すとも、この麦種によって幾万人かの生命を全うすることは、もとより私の願うところである。」と告げて、不帰の客となりました。享保17年9月23日のことで、全国的な「享保の大飢饉」の真っ只中の出来事でした。
 翌年、村の人々は作兵衛の残した種麦を、一粒一粒祈りを込めながら播いていきました。この話を伝え聞いた松山藩は年貢を免除し、村人は飢饉の苦しみから脱することができました。
そして作兵衛の死後44年を経て、安永5(1776)年に、松山藩主松平定静は、彼の功績を後世に伝えるため、碑文入りの墓石を建立しました。その後も作兵衛の尊い犠牲の精神は人々に語り継がれ、明治14(1881)年には、伊予郡の人々が作兵衛の祀る「義農神社」をつくり、その世話をする「義農会」もできました。種麦を枕に死んでいった作兵衛の銅像も建てられ、毎年4月23日にはそこで地元の人たちが義農祭を行っています。
(出  典)森恒太郎『義農作兵衛』(内外出版協会、明治42年)
(参考文献)『松前町誌』(松前町役場、昭和54年)
『愛媛子どものための伝記』第4巻(愛媛県教育会、昭和58年)
(追記)作兵衛といえば、種麦を残して餓死した逸話がクローズアップされているが、戦前の修身の教科書に取り上げられてるのは、種麦の話ではなく、本文前段に取り上げている、痩せた土地を懸命に耕して見事な田地に変え、多くの税を納めることができたという話が中心である。義農作兵衛の逸話の趣旨が時代とともに変わっていることも興味深い点である。

2004年03月23日

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