愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

宇和津彦神社の秋祭り(愛媛県宇和島市)

2021年12月19日 | 祭りと芸能

※本稿は『文部科学教育通信』2021年10月号「郷土芸能探訪」に掲載した原稿である。

 

公開場所・期日 宇和津彦神社 毎年一〇月二九日

 

 

1 南国風土の宇和島

 宇和島市は、愛媛県南西部に位置する南予地方の中心都市で人口は七万人弱。三方は山に囲まれ、西側はリアス海岸の宇和海に接する。気候は太平洋側気候で、県都松山市や今治市、新居浜市といった県中部、東部の穏やかな瀬戸内海沿岸地域とは海域、気候が異なる。JR宇和島駅を降りるとワシントンヤシの街路樹景観が姿を現すように、南国風の雰囲気が漂う町である。過去から台風や豪雨による災害が多い地域でもあり、平成三〇年七月豪雨(西日本豪雨)では市内で一三名が犠牲になったのは記憶に新しい。

宇和島沖には五つの有人離島がある。中でも日振島(ひぶりじま)は、平安時代中期の天慶年間(九四〇年頃)に海賊の藤原純友が本拠地とした場所であり、千艘の船を率いて官物・私財を奪い取り、朝廷に謀反を起した。純友の活動は九州から畿内に及び、現在の宇和島を起点に広範囲にわって船による交流範囲が形成されていた。しかし、陸地部では、『和名類聚抄』に郷名として立間(たちま)(現宇和島市吉田町立間付近)、三間(みま)(現同市三間町付近)の地名は見られるものの、宇和島中心部に関する古代地名は確認できず、ここが南予における政治、経済の中心地へと発展するのは江戸時代初期以降のこととなる。

 

2 宇和島藩伊達家と宇和津彦神社

 室町、戦国時代は南予の広範囲を西園寺氏が松葉城・黒瀬城(現西予市宇和町)を本拠に勢力を有していたが、豊臣秀吉の四国征伐の後には、戸田勝隆が大津城(現大洲市)を本拠とし、その後、藤堂高虎が宇和郡七万石を拝領し板嶋城(現在の宇和島城の前身)を本拠とするに至り、南予の中心が現在の宇和島中心部に移った。高虎が伊勢国(三重県)に転封となり、富田信高が宇和郡領主となった後、慶長一九一六一四)には大坂冬の陣の戦功により伊達秀宗が領主となって、宇和島藩が成立し、明治維新まで続いた

この伊達秀宗は、仙台城主伊達政宗の長男にあたる。秀宗の宇和島入部にあたっては、家臣とその家族、商人、職人など約一六〇〇人が東北地方から移住しといわれ、現在でも自らの先祖・ルーツは東北にあると認識している市民も多い。

宇和島の城下町が形成される過程で、総鎮守に位置づけられたのが市街の東南部の野川(のがわ)に鎮座する一宮大明神(いっくだいみょうじん)(現在の宇和津彦神社)であった。『宇和旧記』や『伊達家御歴代事記』によると、秀宗は元和四年(一六一八)に領内の古社寺を調査した上で、宇和島藩の一宮としたという。正保三年(一六四六)に社殿を焼失したが、慶安元年(一六四八)に再建されるも、翌月には慶安芸予地震が発生し宇和島城の石垣が崩壊するなど大きな被害が出た。月には神輿を出してさまざまな練り物が登場する祭礼が始まったが、これは火災、地震からの復興の意味合いもあったと推測できる。

その後、祭礼は毎年行われ、町人町(本町、裡町(うらまち)など)の氏子が各種の練り物を出した。宇和島藩領内の村浦ではこの祭礼にならって、氏神の祭りを賑やかにして、支藩の吉田藩の総鎮守立間八幡神社の祭礼にも影響を与え、吉田藩内にも浸透していく。現在、南予に広く見られる祭礼文化はここから始まり、伝播していったといえる。

 

 南予独特の牛鬼

現在、宇和津彦神社祭礼は毎年一〇二九日に行われる。その祭りの花形は牛鬼(うしおに)である。神輿が氏子の区域内を巡る際の先払い、露払いとして練り歩くもの。つまり神のお供役である。牛鬼は南予全域で見られるが、全国的には類例を見ない。宇和島藩主伊達家のルーツである東北にも牛鬼は皆無であり、南予独特の文化である。江戸時代の宇和島藩・吉田藩領を中心に周辺地域に広がっており、隣の大洲藩領内でも宇和島藩に近い地域に濃厚に見られるなど、宇和島藩側から伝播したのは確実といえる。やはり宇和津彦神社の祭礼を各地域が模倣したことで広まったのであり、現在、牛鬼の継承地は約一五〇ヶ所にものぼっている。

牛鬼の形は、青竹で牛の胴体のように編み、布やシュロで全身を覆い、長い首の先に張り子(和紙)製の頭をつける。その形相は牛とも鬼ともつかないもので、二本の角と額には月輪もしくは日輪の前立があり、口は大きく開き、舌をむき出しにして恐ろしい表情を強調する。この牛鬼を大人数が担ぎ上げ、神輿行列の先駆けとする。現在は丸穂(ルビまるお)から牛鬼が出されることになっている。

この牛鬼は慶安年間からあった練り物ではない。江戸時代中期以降に宇和島・吉田藩領内にて各地の祭りに登場しており、初見は天明四(一七八四)年、田苗真土村(西予市)の亀甲家文書であり、この時期にはすでに宇和島から周辺部の村浦に牛鬼が伝播していたと推定できる。明確な起源や始まりについては不明だが、江戸時代中期に宇和津彦神社の祭礼で牛鬼が考案、導入されたと推定されている。

 

 東北ルーツの八ツ鹿踊

鹿踊もこの祭礼の特徴の一つである。鹿踊は一人立ちで張り子製の鹿頭をかぶり、胸に鞨鼓(かっこ)を抱え、横縞模様の幌幕(ほろまく)で半身を覆って踊るも。一人立ちの鹿踊(シシ舞)は、全国的に見ると東北地方をはじめとする東日本に広く分布するが、西日本方面では福井県小浜地方と愛媛県南予地方周辺にのみ見られ、約九〇ヶ所で継承されている。南予の鹿踊は、江戸時代初期に宇和島藩主伊達秀宗が宇和島に入部したのを機に郷里を懐かしんで仙台から伝えられたもので慶安年の宇和津彦神社祭礼に登場したのが最初と言われている。仙台周辺の鹿踊と歌詞やリズム、踊り方など共通する点が多く見られ、「回れ回れ水車、遅く回りて、堰に止まるな、堰に止まるな」は南予のどの鹿踊でも見られる歌詞である。

現在、宇和津彦神社祭礼では裡町が主体となり保存会を結成し、保存継承に努めている。小学生名が踊る姿から「八ツ鹿踊(やつしかおどり)」と呼ばれ、可憐とも、繊細優美とも表現され、東北地方の勇壮な鹿踊とは雰囲気が異なる。同じ祭礼に登場する牛鬼が勇壮さを持っていることから、招福の優美さを追求して、今の形になったとも推測できる。

このように宇和津彦神社祭礼は、南国風の牛鬼と東北地方伝来の鹿踊によって構成され、その形態がモデルとなって広範囲に広がっており、愛媛県を代表する祭礼文化と言っても過言ではない。

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