八幡浜を訪れたデコ芝居
明治時代から戦後間もなくまでは、庶民の娯楽として村芝居やデコ芝居、人形浄瑠璃などがあった。八幡浜では穴井歌舞伎が有名であったが、これは地元の者の手による芝居で、地芝居とか、農村歌舞伎と呼ばれるものである。また、人形浄瑠璃(文楽)では、三瓶町の朝日文楽や明浜町の俵津文楽(菅原座)が有名で、明治時代には双岩にも人形浄瑠璃があったというが、いずれも地元の者によるものである。
地元以外の者、つまり他所から訪れてきて芝居などが上演される場合もあった。昭和三十年頃まで、正月から春にかけて、阿波から三番叟が訪れていたという例が知られているが、これは正月の祝いとその年の豊作祈願のためという神事性を帯びた芸能で、単なる娯楽だけではない要素があった。つまり、芝居などの庶民娯楽を簡単に分類すると、地元の者の手によるものと他所からの訪問によるもの。そして、単に娯楽として行っていたものと、神事芸能としての性格を有したものというように分けることができる。
ここでは、他所から八幡浜を訪れたデコ芝居の一例を紹介してみたい。
昭和二十三年十一月のことであるが、三瓶や八幡浜に、高知県のデコ芝居「西畑デコ芝居」が来て上演をしたという記録が残っている。「西畑人形巡業日記」という資料であるが、これは『土佐西畑デコ芝居』(高知県春野町発行)に収録されているものである。この西畑デコ芝居は、明治十二年頃、仁淀川の河口に近い吾川郡仁西村西畑(現高知県春野町西畑)の大工・柳井十蔵が、正月十四日のカイツリ(子供達が銭さしを持って村内の家々をまわり、お金や若餅を貰う行事で、高知県や愛媛県南予地方にかつて見られたもの。)の余興として、卵の殻に目や口を描いてデコ人形を作り、踊ったのが始まりといわれる。これが人気を呼んで、他村からも招かれるようになり、次第に浄瑠璃を基に芝居化し、デコ頭や衣装を構え、上演し、やがてこれが職業化している。明治時代末期から昭和の戦前期にかけて、四国、中国、九州一円を巡業し、土佐のデコ芝居として有名となった。高知県では各地にデコ芝居があったが、土佐の元祖は西畑デコ芝居だと言われている。
「西畑人形巡業日記」によると、昭和二十三年十一月七日に三瓶町朝日座で、十二日に同町皆江で、十五日から真穴の大嶌頼海庵寺で、十八日に大島でそれぞれ上演し、二十一日に八幡浜から高知に帰郷している。これを見ると、穴井歌舞伎や朝日文楽といった地元の娯楽が盛んだった場所で上演していることに気付く。それだけこれらの地区は芝居という娯楽に興味があったのだろう。
この西畑デコ芝居も、上演の最初には場を清める意味で三番叟が演じられていたという。これは八幡浜の穴井歌舞伎の例にしても同様である。これら娯楽としての芝居も、原初を追求すると神事との関係が必ず出てくるのである。
2001/03/08 南海日日新聞掲載
明治時代から戦後間もなくまでは、庶民の娯楽として村芝居やデコ芝居、人形浄瑠璃などがあった。八幡浜では穴井歌舞伎が有名であったが、これは地元の者の手による芝居で、地芝居とか、農村歌舞伎と呼ばれるものである。また、人形浄瑠璃(文楽)では、三瓶町の朝日文楽や明浜町の俵津文楽(菅原座)が有名で、明治時代には双岩にも人形浄瑠璃があったというが、いずれも地元の者によるものである。
地元以外の者、つまり他所から訪れてきて芝居などが上演される場合もあった。昭和三十年頃まで、正月から春にかけて、阿波から三番叟が訪れていたという例が知られているが、これは正月の祝いとその年の豊作祈願のためという神事性を帯びた芸能で、単なる娯楽だけではない要素があった。つまり、芝居などの庶民娯楽を簡単に分類すると、地元の者の手によるものと他所からの訪問によるもの。そして、単に娯楽として行っていたものと、神事芸能としての性格を有したものというように分けることができる。
ここでは、他所から八幡浜を訪れたデコ芝居の一例を紹介してみたい。
昭和二十三年十一月のことであるが、三瓶や八幡浜に、高知県のデコ芝居「西畑デコ芝居」が来て上演をしたという記録が残っている。「西畑人形巡業日記」という資料であるが、これは『土佐西畑デコ芝居』(高知県春野町発行)に収録されているものである。この西畑デコ芝居は、明治十二年頃、仁淀川の河口に近い吾川郡仁西村西畑(現高知県春野町西畑)の大工・柳井十蔵が、正月十四日のカイツリ(子供達が銭さしを持って村内の家々をまわり、お金や若餅を貰う行事で、高知県や愛媛県南予地方にかつて見られたもの。)の余興として、卵の殻に目や口を描いてデコ人形を作り、踊ったのが始まりといわれる。これが人気を呼んで、他村からも招かれるようになり、次第に浄瑠璃を基に芝居化し、デコ頭や衣装を構え、上演し、やがてこれが職業化している。明治時代末期から昭和の戦前期にかけて、四国、中国、九州一円を巡業し、土佐のデコ芝居として有名となった。高知県では各地にデコ芝居があったが、土佐の元祖は西畑デコ芝居だと言われている。
「西畑人形巡業日記」によると、昭和二十三年十一月七日に三瓶町朝日座で、十二日に同町皆江で、十五日から真穴の大嶌頼海庵寺で、十八日に大島でそれぞれ上演し、二十一日に八幡浜から高知に帰郷している。これを見ると、穴井歌舞伎や朝日文楽といった地元の娯楽が盛んだった場所で上演していることに気付く。それだけこれらの地区は芝居という娯楽に興味があったのだろう。
この西畑デコ芝居も、上演の最初には場を清める意味で三番叟が演じられていたという。これは八幡浜の穴井歌舞伎の例にしても同様である。これら娯楽としての芝居も、原初を追求すると神事との関係が必ず出てくるのである。
2001/03/08 南海日日新聞掲載