愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

「ほたる」の歴史

2011年09月06日 | 自然と文化
先月開催された卯之町ライトアップ行事「卯のほたる」。その打ち上げが8月26日に行われ、その際に「ほたる」の歴史について少し講話したので、内容を紹介しておきます。


1.古代からホタルと呼ばれていた
『日本書紀』二、神代に「螢火光神(ホタルヒノカヽヤクカミ)」とあり、古代史料に「螢」は出てくる。現在は「蛍」と表記するが、もとは「螢」である。火(実際は光)にまつわる虫であることから成り立った漢字である。この漢字を「ホタル」と呼んでいたことを示すのは平安時代の『和名類聚抄』十九である。「螢 (二行割註)胡丁反 一名熠燿 (二行割註)上一入反、和名保太流」とあり、同じ平安時代の『新撰字鏡』にも「●(虫へんに粦)(二行割註)力人反、螢、保太留」とあり、和名として「ホタル」は定着していた。


2.ほたるの語源
「ほたる」の語源には諸説ある。江戸時代中期の語源辞典である『日本釈名』には「螢 ほは火也、たるは垂也、垂は下へさがりたるヽ也」とあり、「火垂」が語源だとする説があり、『和句解』、『滑稽雑談所引和訓義解』、『重訂本草綱目啓蒙』、『大言海』がこれと同様の解釈である。しかし新井白石『東雅』には「ホは火也、タルは炤(テル)也」とあり、こちらは「火炤」説を採用している。『和訓栞』もこの解釈をとっている。また、『俚諺集覧』では「火照」説であり、『日本国語大辞典』では他にも諸説掲載されているが、これらが主説といえるだろう。上に紹介したようにほたるは古語であるため、これが正しい説と断定するのは難しい。


3.ゲンジボタル
ほたるには比較的大きいゲンジボタルと小さいヘイケボタルの2種類の名前が有名である。一般には源平合戦で源氏が勝ったので大きいのはゲンジボタル、負けた側の平家が小さいヘイケボタルとなったと思われているようである。しかし、柳田國男は、ゲンジボタルは「験師螢」の義であり、験師とは山伏、修験者であり、大形のほたるに一種の力を感じたものではないかと主張する。実際、ほたるの方言で「ヤマブシ」という地域が日本各地にある(出典要確認)。

ゲンジボタルの名前の初出は江戸時代末期の『虫譜図説』であるとされ、ここに「源氏螢(オオホタル)」、「平家螢(ヒメホタル)」と記されている。案外、ゲンジボタルの呼称は新しいもののようである。新しいがゆえに、源氏、平家の源平合戦や、類例で平家に敗れた源頼政の霊がほたるとなったという説もある。また、源氏物語の光源氏に由来するという話もあるが、言葉自体が新しいので、後(比較的新しい時代)に語られるようになった説明ではないだろうか。


4.唱歌「蛍の光」
蛍に関する歌といえば「蛍の光」を思い浮かべてしまう。「蛍の光、窓の雪・・・・」まさに蛍雪の功である。蛍雪の功は中国の晋の時代(3~4世紀)の故事で、夏の夜にほたるを何十匹も絹の袋に入れて、冬は窓辺に積もった雪、その明かりで勉学に励み高級官吏となったという故事である。これが明治14年に尋常小学校の唱歌の歌詞として採用されている。曲はもとはスコットランドの民謡であった。ロバート=バーンズが1794年に発表した「オールドラングサイン」の歌詞のものが英米で送別歌として普及し、明治初期に日本に入ってきた。当初は題名は「蛍の光」ではなく「蛍」であった。この作詞者は稲垣千頴(ちかい)、作曲者は不詳である。

「蛍の光、窓の雪、書読む月日、重ねつつ、何時しか年も、すぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く」


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