先般7月28日に、家族と八幡浜の湯島天神社の「わぬけ」に行った。高野地神楽が来ていて、飛出の舞や岩戸開、大蛇退治などを見た。これは毎年の恒例のこと。ところが、わぬけの茅の横に今年から解説パネルが設置されていた。輪のくぐり方、そして唱える文言が記されている。その文言の中に「蘇民将来」とあるではないか。正直驚いた。今後、これが定着するのだろうか。神社神道では一般に説明されることだが、数人のお年寄りに聞いてみても、蘇民将来については知らないという。
これまでノートに書いてきた備忘録のかわりにブログを使ってみようかと思ったが、さていつまで続くことやら。気が向いたときだけ書いてみよう。
さて、昨日は保内町内で祭りの話をしたが、実に収穫あり。逆に地元の方々に多くのことをご教示いただいた。10月23日の祭りは何とか都合をつけて見に行きたい。
今夜は法華経の法師功徳品(岩波文庫)を読む。ここに「是人意清浄 明利無穢濁」の一文あり。この人の意(心)は清浄そして明利で穢れていない・・・。「清」「明」の対義語として「穢」が表われている。しかもそれは身体的なものではなく、意(心)について。天武天皇の頃の官位で使われた「明」・「浄」や、奈良時代中期から後期の謀叛者に対する「穢心」の表現を彷彿とさせる。飛鳥から奈良期は、この法華経に見られるような観念が朝廷レベルで定着していたことを納得する・・・。
さて、昨日は保内町内で祭りの話をしたが、実に収穫あり。逆に地元の方々に多くのことをご教示いただいた。10月23日の祭りは何とか都合をつけて見に行きたい。
今夜は法華経の法師功徳品(岩波文庫)を読む。ここに「是人意清浄 明利無穢濁」の一文あり。この人の意(心)は清浄そして明利で穢れていない・・・。「清」「明」の対義語として「穢」が表われている。しかもそれは身体的なものではなく、意(心)について。天武天皇の頃の官位で使われた「明」・「浄」や、奈良時代中期から後期の謀叛者に対する「穢心」の表現を彷彿とさせる。飛鳥から奈良期は、この法華経に見られるような観念が朝廷レベルで定着していたことを納得する・・・。