時代のウェブログ

イマを見つめて
提言します

記者の自覚

2006年08月07日 22時49分00秒 | マスコミ
「25歳の風- 記者の品格」に下記のような記事が載ってます。
>昨日は焼肉だったんだけども。
>隣り合わせた座敷の二人がどうも新聞記者らしく。

>しかし、なんて下品なのだ。
>こっちの寿命が縮むくらいのでっかい着信音。
>声もでかく、周りも気にせずにがなりたてるバカ。
>お前、それでも記者かよ。最低限のマナーすらなってねーじゃん。
(以下、省略)

というエントリーに対して、
JR西日本の脱線事故の記者会見の時です。
悲惨な事故とは場違いの陽気な着信音が結構鳴ってましたね。非常に嫌な気分になりました。
これが、もしも天皇陛下の会見だったら、もちろん全員、電源を切ってる筈ですね(天皇が発言してる所で着信音を鳴らしたら始末書じゃ済まないと思う)。
「事故の重大性を、どれだけ認識してるんだ!」
なんて追及してましたが、事故の重大性を認識していないのは、携帯の電源を切らない記者も一緒だろ?と突っ込んでました。

と、コメントを投稿したのですが、さらにもっともっと言いたいけれども、あちら様のコメント欄で延々とやってもご迷惑でしょうから、ここで書きます。


あるテレビ番組で、既婚者のピアニストだかバイオリニストだかの方が、
「私って、家事は全然しないんですよ」
とダメ主婦ぶりをアピールしていたが、筆者はむしろプロ意識の現われと見ます(恐らく本人もそのつもりでしょう)。
ピアニストやバイオリニストにとって「指は命」です。万が一にも料理で指を切ったりしたら、取り返しが付かない。
コンサートを月に何本も抱えるような音楽家は、家事などしてはならない(家事が嫌いな女性は、音楽家を目指そう)。
プロ野球の投手は決して重い物を持ち上げたりはしない。肩を痛めたりしないように。

プロには、それなりの自覚が必要だと思う訳です。
でもってジャーナリスト(報道記者)に言いたいのは「ケータイに着メロや着ウタは使うな。普通の着信音(極めて目立たない物)にしとけ」ということです。
これがプロの自覚だと思うわけですね。
ジャーナリスト(報道記者)というのは、いつ、どんな場面に遭遇するか予想できない職業です。
たとえば、悲惨な事件に遭った被害者から話を伺うこともある訳です。その最中に、突然、陽気な歌が流れてきたらどうか? 明らかに取材にとってはマイナスです。
そのくらいの事態は想定しておくのが「プロの自覚」という物だと感じます。

どうしても着メロを楽しみたいならば、仕事用ケータイとプライベート用ケータイを二つ持つべきですね。それで飯を食ってる訳ですから、そのくらいの事をするのは当然です。


司法も誤ることがある――か?

2006年08月07日 14時45分00秒 | 社会・経済
ちょこっと死刑廃止論でも考えてみようかなと思います(軽いなあ……)。

死刑廃止の論点は2つかな?と思います。
ひとつは人道論。いかなる場合においても、他者が生命を奪うことは許されるべきではない――ですね。
しかし死刑囚というのは外患誘致など一部の例外を除いて他者の生命を奪ってます。それも「カッとなって殴り殺した」程度では死刑にはなりませんから、死刑とされるのは計画的に殺したとか、残虐な方法で殺したとか、複数の人間を殺したとか、極めて悪質です。ほとんど苦痛を与えない方法で生命を奪ってあげるという現行の死刑執行法などむしろ生ぬるいと感じることもしばしばあります。磔獄門復活と言う気はありませんがww

もうひとつは冤罪問題でしょう。冤罪だった場合は、生命を奪ってしまったら取り返しが付かない。冤罪が絶対に起きない保証は無いのだから、死刑は不適当だ――という考え方です。ご尤もです。
現在、死刑という刑罰が行われている大前提に「司法は正しい」があると思います。
もしも「冤罪の可能性があるから、死刑は不適当だ」とするならば、「司法は正しい」という大前提を改めるべきでしょう。
即ち「司法も誤ることがある」という前提にしなければいけません。そうすれば、死刑だけでなく、他の様々なことも改めなければならなくなると思います。
たとえば現行では無罪が確定した罪状については、再び起訴してはならないと定められています。でも、これも再起訴を認めるべきでしょう。なぜならば「司法も誤ることがある」からです。
或いは、司法判断に対して、「それは正しいとは思わない」と従わない人間に対して、どう対処するかという問題も生じてくるでしょう。こういう場合だけ「司法は正しい」として強制的に従わせることはできないと思います。
ある時は「司法は正しい」で、別のある時は「司法も誤ることがある」という二重の立場で法を治めることはできないでしょう。
そのような問題をどう解決していくのか?
現在の法治国家・日本を、「司法も誤ることがある」という前提で治めることに改めるのが賛成多数であれば、死刑廃止には反対しません。

【追記】
考えてみれば判決というのは、必ずどっちかが「不満だ~~~っ@ゾクシードール」と成る訳ですから、「裁判所の判断が絶対に正しくは無い」としてしまうと、誰も判決に従わなくなりますね(笑)。
解決法としては、最高裁の上に国民審判制度でも設けましょうか?
最高裁判決に不満だったら、さらに国民審判に上告できる。でもって、2ヶ月に一度くらい、まとめて国民審判(国民投票)をする。投票率が50%未満だったら、最高裁判決で確定。
大抵の国民は「いちいち付き合ってられるか」と行かないでしょうから、ほとんどの事案は最高裁判決で確定するでしょう。しかし重大犯罪や行政裁判などの一部は、最高裁判決が逆転ということも起こり得るかもしれません。
なんか、この方が良い世の中に思えてきた(笑)。
それと、死刑を廃止するなら終身刑の新設も不可避でしょうね。現在の無期懲役は終身刑じゃありませんから。


亀田・康夫・裁判員制度

2006年08月07日 11時25分00秒 | 社会・経済
亀田対ランダエタ戦の結果について、ネットなどで多数の意識調査が行われた。
1の位は上下するが、90%以上は「亀田の負け」で、「亀田の勝利」は10%未満となっている。
これに対して、専門家と称される者達(元ボクサー・レフリー・スポーツジャーナリスト等)の意見は2つに割れている。もちろん、マスコミが両方の意見をチョイスして報道している側面も有るだろう。しかし世論ほど大差が付いている印象は受けない。
専門家が解説するのは採点方法。また、ホームタウンデシジョンという傾向。「かつて日本のボクサーが海外で挑戦した時には、2回もダウンを奪ったのに勝てなかった」等の先例を持ち出している。言下に感じられるのは「素人はごちゃごちゃ言うな」という雰囲気。

長野県知事選挙で現職の田中康夫知事が敗れた。約8万票の大差を付けられた。
専門家は「もっと接戦になると思っていた」や「投票率が低かったのが原因」などと分析している。多く聞かれたのが「直前の大水害が『脱ダム宣言』に不利に影響した」という意見。
素人は目先の事で、判断が揺らぐ――という意見か。


裁判員制度がまもなく導入される。弁護士や法科大学生など、プロやプロを目指す人間達からは、この制度を危ぶむ声が上がっている。
「昨今のネット世論の形成などを見ていると、裁判員制度が導入されれば、いたずらに厳罰化が促進される恐れがある」
もしも裁判員制度によって行われていたら、光市母子殺害事件や広島幼女陵辱殺害事件などは、死刑という結果になっていた可能性が高く感じる(現時点では両判決は共に無期懲役)。
しかし、では、専門家が主張する「正しい量刑」とは、どこに基準があるのか?
永山基準など、過去の判例でしか無いのではないか?
「過去に、これよりももっと酷い罪であっても無期懲役だったから、本件が死刑となるのは量刑不当」
それが「正しい量刑」か?

専門家が正しい判断を下せないから、無知な素人が一揆を起こしているのである。過去の事実に固執して現在を踏襲しているだけの人間は、専門家でも何でもない。ただの「思考が停止した人間」だ。過去の事実が誤りであるならば、それを改めるのが正常な人間である。