時代のウェブログ

イマを見つめて
提言します

タッチ……と言っても双子の漫才師ではない

2006年08月25日 23時05分06秒 | 音楽・芸能
『金曜ロードショー』で『タッチ』を見る。
9回、二死2・3塁で四番・新田。
あの場面は、本当の試合ならば100%敬遠です。
敬遠せずに打たれて逆転されたら、監督の責任問題に発展してもおかしくありません。

でも勝負して、タッちゃんが新田くんを三振に打ち取る感動のエンディングです。
あの場面は、勝負するのが当然です(?
だって『タッチ』は映画ですから。

困るのは、たまにフィクションと現実の区別が付かない人がいて、現実で真面目に試合してる人達に対して、映画のストーリーみたいな文句を付けることです

太陽系の惑星数は8個

2006年08月25日 06時51分16秒 | 学術・教育
チェコの首都プラハで開幕したIAU(国際天文学連合)の総会から、色々と面白い話題が伝わってくる。

まずは15日のライブドア・ニュースから。

冥王星が惑星でなくなる?
天文学者が議論しているらしい。

世界で一番小さな大陸はオーストラリア大陸で、世界で一番大きな島はグリーンランドである。なぜか?
それは「オーストラリア大陸以上の面積を持つ陸地を、大陸と呼ぶ」と決められているからだ(笑)。いじわるクイズだな。

惑星の定義を調べてみると、「太陽を周り、ある程度の大きさを持ち、軌道を占有している天体(Wikipedia)」と書かれている。「ある程度の大きさ」って(笑)。
ゼナは冥王星よりでかいらしい。というか冥王星が当初、予測されていたよりも遥かに小さいらしい。小惑星帯には冥王星よりもでかい天体がたくさんあるが「軌道を占有している」という部分が引っ掛かり(”帯”なので占有していない)、かろうじて冥王星の立場は守られたそうだ。しかし冥王星も軌道を占有していないという学説もある。ちなみに小惑星帯の最初の1個が見つかった時は、一時的に「新惑星」と考えられたそうだ。のちにぼこぼこ発見されたので「小惑星帯」に変更された。
別に冥王星が惑星だろうがそれ以外の天体だろうが、どっちでも良い。天文学者以外で困るのは、SF作家と占星術師くらいだろう。




あらら、冥王星が外されて8個に減るの? と思っていたら、翌16日の毎日新聞は「3個ふえて12個になる案が浮上」という報道が。
増やすにしても、減らすにしても、結局匙加減ひとつなんですね。
でも名前はどうなんのかなぁ。火星や天王星という日本名と、カロン・セレスなんていう英語名の混在はしっくり来ないなあ。やっぱり○○星って付けて欲しいのだが。



なんて思っていたら、テレビのニュースによると「12個案が採用されると、新たに惑星に認定される可能性がある天体は合計24個になるかも」という報道が。
24個?
とても「水・金・地・火・木……」なんて簡単に暗記できる数じゃなくなるな……。
そのうち「水素・ヘリウム・リチウム・ベリリウム……」っていう規模になるかもしれない。
天文学者や占星術師だけでなく、全国の受験生に影響を与えることになりそうだ。



なんてうまくまとめたつもりでいたら、また冥王星削減8個案になりそうとか?
なんだか、すごく楽しそうなんですけど……。
天文学者になればよかったby.さだまさし


結論→8個案が採択されました。冥王星にはなんの恨みも無いが、何でも思い通りになると思っているアメリカが、今回は思い通りの結果にならなかったのは、ちょっとだけ小気味いい(笑)。

駒苫戦で眼鏡屋さん滅多打ちに

2006年08月25日 02時36分09秒 | 社会・経済
高校野球観戦を邪魔されて暴行

「駒苫戦のある日なら家にいるだろう」と配達に訪れた。
眼鏡屋さんの読みがズバリ的中した訳だが、当たり過ぎたんだね~。

地方じゃ今でも眼鏡を配達してくれるんだ……なんて、妙な部分にノスタルジーを感じたりする。しかし6月から放置って、眼鏡が本当に必要だったのか?
そんなに楽しみな高校野球だったら、眼鏡かけてハッキリ見ろよ――なんて言いたかったり。

向こうの都合で勝手に押しかけてくる新聞勧誘とか宗教布教とかは、確かに取り込んでいる時には殴りたくなる事もあるけど(もちろん実行はしないけど)、自分が頼んで放置しといた眼鏡を届けてくれた人を殴っちゃあかんよなぁ。

……なんか、刑事事件で被害者がいるのに、ほのぼのとした書き口になってしまう。殺人とかでなければ「悲惨な事件」と捉えない感性になってしまっているのかな?
そうだとしたら、大きな問題だな~(最後の「~」も、緊張感が欠け過ぎ!

坂東真砂子「子猫殺し」へ。その3

2006年08月25日 02時22分22秒 | 学術・教育
ソース・資料はこちら→


その1で「生物の『生』の意義は、子孫を残すこと」と書きました。そして「それは自然(野生)の摂理であり、野生でない動物には当てはならない」と述べ、「すべての人間は『生きる』価値がある」と言いました。
この辺りを大幅にはしょった感じがするので、詳しく述べます。

「死」を考える動物は人間だけです。他の動物は、なにかの死体を見ても、それが死体だと認識はするかもしれませんが、さらに「自分も、いずれはあのように死に至る」とは考えないでしょう。
しかし、人間は「死」の意味を知ってしまった。祖父が死に、祖母が死に、父が死に、母が死ぬ……そういう姿を見ているうちに「いずれは自分も、あのように『生』が終わる」という事実を知ってしまいました。
そして「生」への執着が生まれた。
「子孫を残すという自然界での役割は果たしたから、もう死んでも構わない」とは思えなくなった。「少しでも、長く生きたい」と望むようになった。
そのため「生物の『生』とは、子孫を残すこと」という自然の摂理以外に、別の「生の価値観」を作り出さなければならなくなりました。
それが「自分自身の『生』を大切にすること」です。
自分自身の生を大切にしなければならないから、自殺してはいけないのです。他人の「生」を断つ「殺人」はいけないのです。
また過激な事をあえて書きますが、「子孫を残す『生』の意義」では、仲間を殺すのは悪いことではありません。むしろ理に適った行動です。発情期に牡が牝を奪い合って激しい争いを繰り広げるのは珍しいことではありません。中には殺し合いまで発展することもあります。あれは、より力が強い遺伝子を持った子孫を残すためです。勝ち残った力の強い牡の遺伝子を子孫に継承して、個体をより強力にしていくためです。

しかし、現在の人間社会では、他人を殺すことは認められません。つまり「子孫を残す」という自然界の摂理よりも「自分自身の生をまっとうする」という人間社会の倫理のほうが上回っているからです。

だから「すべての人間には生きる価値がある」のです。さらには、人間が関わった動物たちにも「自己が持つ『生』の価値を認めるべき」だと思うのです。

坂東氏の主張に「納得できる部分が感じられる」という人が多くいます。当たり前です。自然の真理を下敷きにして述べているのですから。
しかし、もうひとつの価値観である「人間社会における『生』の意義」を曖昧にしたまま、あのような論理展開をしているから、あんなおかしな主張になっている訳です。
同氏は、わざわざ「獣の牝は」と書いています。そう書かなければ、容易に人間に論理が転化されて、これまで筆者が述べてきたような様々な矛盾が噴出してしまうからです。

自然の摂理は真理です。しかし、実際に人間が「生」を支配、管理しはじめた現在においては、それだけが正しい価値観ではなくなっているのです。それが不満ならば、人間も含めて、すべての「自分自身が生きる価値」を否定するべきです。それができないならば、他の「生」を認めるしかありません。
筆者は自分自身の「生の価値」を否定されたくないので、他人の生の価値を奪いません。また、不必要に他の動物の生も奪いたくありません。



いつまでも長々と、この問題ばかり取り上げてても仕方ないので、筆者なりの結論を書きます。
自然の摂理は、突き詰めれば「弱肉強食」になると思います。弱い物が強い物に滅ぼされるのは仕方ないんですね。
でも、人間は「それはやめよう」と考えた。「弱い人間も、生きる権利は認めよう」と合意した。
だから殺人犯とか強姦犯とか、獣のような生き方をする人は裁かれる。

野生動物が自然の摂理で弱肉強食で生きるのは仕方がない。ライオンがシマウマを殺して食うのは止められません。
でも、ペットには、その価値観を与えるのは止めた。
セントバーナードを飼う人が、チワワを飼う人にけしかけて、噛み殺させたら犯罪になります。野生動物が野生動物を襲って殺すのは犯罪にならないが、ペットがペットを襲って殺せば犯罪になる。野生動物とペットは違うルールの世界で生きている。

元々、そういう相反するふたつの価値観が有る訳です。そもそも矛盾しているのです。坂東真砂子氏が、そういう価値観をペットに認めないならば、人間社会で生活するのは止めるべきです。文筆業で生計を立てるのもお辞めになれば良い。タヒチなんて場所で暮らさずに、人間がいない未開の地で、弱肉強食の原理で生きればいい。坂東氏より弱い動物をいくら殺しても自由です。しかし自分より強い動物に襲われて殺されても自己責任です。そうやって、本来の「生」を尊重してお生きあそばせ――と申し上げます。

※「弱い物にも生存権を認める」ことは、生物としての「人間」の種族力を弱める面は確かに有ると思います。しかし、人間は医学などの科学を発達させることによって、そのマイナス面をカバーして生きる道を選んでいると思います。ですから、この考え方は間違っていないと思っています。



【おことわり】
「なぜ動物を殺してはいけないのか?」という議論は、ディルレヴァンガー事件前から2ちゃんねるのムツ板あたりで延々と行われ、未だに続いております。結局、極論の応酬で水掛け論になるしかないんですよね。時間の浪費はしたくないので、当コメント欄で、その議論をするつもりはありません。違うお考えをお持ちの方は、このエントリーを無視してください。

ブリトニーのヌード掲載――東京メトロ

2006年08月25日 02時18分34秒 | 社会・経済
東京メトロ「降伏」 ブリトニーのヌードそのまま掲載

世の中には、いくら議論しても結論が出ない問題がいくつも有る訳で、猥褻と表現の自由も、そのひとつだろう。そもそも猥褻とは個人の尺度であって、人それぞれ違う。いっぽう表現の自由も個人の感性だから、アダルトビデオだって「表現物」である。
かといって野放図に野放しにしとけば、色々と問題が発生して当然で「青少年への悪影響」なんていうのは、むしろ後付けの理由で、要はそれを見て不快感を持つかどうかだろう。
もちろん「好む物を見る」自由があると同時に「不快な物を無理矢理見せられない自由」もある。そのバランスを取るのが非常に難しいって事だろう。

この件に関していえば、最初の東京メトロの、
「公共の場での掲載なので、原案のまま裸体で掲載すると、刺激が強いというお客様もいる。青少年保護の面でも問題がある」
という言い分は、全くおかしな部分はない。それは表現の自由云々の問題ではなく、東京メトロという会社の広告掲載基準である。
これに対して出版社の、
「雑誌の表紙はいわば当社にとって商品で、宣伝できなければ広告スペースを買った意味がないとして、別の体裁にはできないと主張した」
も不当ではない。広告料を払っているのだから宣伝効果が下がる修正を拒否して当然だ。
どちらも正しいのだから、問題解決法はひとつしかない。東京メトロが代金を返却して、広告掲載を止めれば良い。
ところが
「シールで写真の下腹部周辺を隠すことで決着した」
なんて事をするから、おかしな方向へ流れて行く。ソースで表紙を見れば解るが、下腹部の問題ではなく全体だろ?
さらにさらに、
「妊娠している姿がわいせつなのか?」
って……。妊娠してる姿じゃなくて、問題はヌードでしょ?
また「猥褻だから」ではなく「刺激が強すぎる」が最初の修正理由だったはず。

ここまで拗れたら、もう収拾が付かなくて当然だ。
2番目でボタンを掛け違えて、一番下まで締めちゃったんだから。
「新聞、電波で取り上げてもらった結果」によって「かえって雑誌の宣伝になったともいえる」出版社はウハウハだろうが、「降伏」なんて書かれてる東京メトロも、むしろマスコミのお墨付きを貰って広告料が入って来たんだからウハウハだろう。
「どうして、あんな広告を掲載しているのか」と抗議されても「ウチは嫌だったんですがね、マスコミが掲載するべきだってキャンペーンしたせいで押し切られちゃったんですよ」と言い訳できる。

なんか小手先ごまかしと偽善の応酬で、非常に不愉快な結末である。別にヌードは嫌いじゃないけど(自爆)