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時代のウェブログ

イマを見つめて
提言します

惑星の数が変わる?

2006年08月24日 18時54分00秒 | 学術・教育
チェコの首都プラハで開幕したIAU(国際天文学連合)の総会から、色々と面白い話題が伝わってくる。まずは15日のライブドア・ニュースから。

冥王星が惑星でなくなる?
天文学者が議論しているらしい。

世界で一番小さな大陸はオーストラリア大陸で、世界で一番大きな島はグリーンランドである。なぜか?
それは「オーストラリア大陸以上の面積を持つ陸地を、大陸と呼ぶ」と決められているからだ(笑)。いじわるクイズだな。

惑星の定義を調べてみると、「太陽を周り、ある程度の大きさを持ち、軌道を占有している天体(Wikipedia)」と書かれている。「ある程度の大きさ」って(笑)。
ゼナは冥王星よりでかいらしい。というか冥王星が当初、予測されていたよりも遥かに小さいらしい。小惑星帯には冥王星よりもでかい天体がたくさんあるが「軌道を占有している」という部分が引っ掛かり(”帯”なので占有していない)、かろうじて冥王星の立場は守られたそうだ。しかし冥王星も軌道を占有していないという学説もある。ちなみに小惑星帯の最初の1個が見つかった時は、一時的に「新惑星」と考えられたそうだ。のちにぼこぼこ発見されたので「小惑星帯」に変更された。
別に冥王星が惑星だろうがそれ以外の天体だろうが、どっちでも良い。天文学者以外で困るのは、SF作家と占星術師くらいだろう。



あらら、冥王星が外されて8個に減るの? と思っていたら、翌16日の毎日新聞は「3個ふえて12個になる案が浮上」という報道が。
増やすにしても、減らすにしても、結局匙加減ひとつなんですね。
でも名前はどうなんのかなぁ。火星や天王星という日本名と、カロン・セレスなんていう英語名の混在はしっくり来ないなあ。やっぱり○○星って付けて欲しいのだが。

なんて思っていたら、テレビのニュースによると「12個案が採用されると、新たに惑星に認定される可能性がある天体は合計24個になるかも」という報道が。
24個?
とても「水・金・地・火・木……」なんて簡単に暗記できる数じゃなくなるな……。
そのうち「水素・ヘリウム・リチウム・ベリリウム……」っていう規模になるかもしれない。
天文学者や占星術師だけでなく、全国の受験生に影響を与えることになりそうだ。

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坂東真砂子「子猫殺し」へ。その2

2006年08月24日 12時59分01秒 | 学術・教育
ソース・資料はこちら→

あれ? 軌道修正すんじゃなかった?
と言われそうですね。
でも、今回は猫の話ではないので、ご勘弁を。

筆者が中学時代、パーマは校則で禁止されていました。今でも中学はほとんど禁止なのかもしれませんが(良く解らん)。
ところが少し洒落っ気のあるやつは、パーマを掛けて、よく生徒指導部に呼び出されておりました。その時、決まって名前を挙げたのが「だって、○○○○だってパーマかけてるじゃん」という言い訳です。
○○○○の実名は出せません(完璧に年齢がバレるもん)。
今で例えれば、小泉純一郎とか安倍晋三あたりの人物だと思ってもらえばOKです。

もちろん、そんな屁理屈は認められないのですが、子供というのは「だって、○○○○も……」という言い訳が結構、得意なんですよね。

でもって、坂東眞砂子氏です。同氏は「もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」と、大層ご立派な考えを述べておられる。もちろん実際に熟慮に熟慮を重ねた結果に出した結論かもしれません。

しかし同氏ほどの熟慮を重ねず、単に面白半分に動物を虐殺した少年が、大人(あるいは警察なども含めて)から注意されて「だって直木賞作家だって、殺してんじゃん」と言われた時に、どう答えるおつもりなのか?

「直木賞なんてビギナーズ・ラックで取れる。大した賞じゃない」なんて言うのは、本当は欲しくて欲しくてたまらない流行作家で、実際には権威ある文学賞と見て構わないでしょう。それだけの肩書きを持つ人間は、やはり自分の言動には責任を持たなければならないと感じる訳です。
「権威なんか関係ない。自分は自分がやりたいように生きる」というのでしたら、即刻、直木賞なんかご返上なさいませ。
少なくとも坂東真砂子氏は、今後「総理の靖国参拝は影響が大きい」なんて言論はできないと感じております。
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旭山動物園に勝つ秘策

2006年08月24日 10時50分39秒 | 生活・娯楽
ひとつ前のエントリーで「野良猫は減らしていくべきだ」と書いた。
でもそうなると、猫を飼える猫好きさんは良いが、猫を飼えない猫好きさんは寂しい思いをすることになるだろう。
そこで秘策がある。
動物園で、猫を放し飼いにする。猫だって動物だ。動物園にいておかしい道理はない。
しかし動物園の入園料は1000円とか1500円とかする。そんな金を払って、猫を見に行く物好きは少ないだろう。そこで某大手遊園地のように「アフター5」とか「アフター6」という夕方からの入場券を作る。動物園なんて施設は昼間に親子連れで訪れる施設だ。夕方からは客が減る。さらに猫は基本的に夜行性なので、夕方からの方が、よく出て来る。料金は100円か200円でいい。
それじゃ儲からないって?
さにあらず。園内で猫缶を販売する。
地域猫に餌遣りをする人間が一番楽しいのは、猫がおいしそうに餌を食べてる光景を眺めることだ。絶対に買う。
猫に餌をやっていると、別の猫が寄ってくる。猫好きさんは、その度に売店へまっしぐらである。3缶・4缶と買ってもらえば、瞬く間に正規の入園料など回収できてしまう。さらに動物園としては猫の餌代が掛からない。一石二鳥だ。
これが実行されれば、旭山動物園を越える人気動物園になるかもしれない。


……って、なんだか『時代のウェブログ』じゃなくて『おネコのウェブログ』みたいになってきた(自爆)。
少し軌道修正の必要があるな――
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ミイラとmixiで患者中傷――岩手大生

2006年08月24日 03時02分00秒 | ネット・IT
岩手の大学生が、皮膚病患者を「ミイラ」と中傷・SNSに書き込む。(サンケイ・ウェブ)
イザ!
livedoor news

また、こんなことをしでかした馬鹿者が出たか――という感じ。類似のネット・トラブルとして、昨年8月にコミック・マーケットでアルバイトしていた女性が会場の写真をブログで公開し「オタクきもい」と書き込み、雇用先の企業が謝罪した一件や、12月に宮崎大学医学部生が解剖した兎の死体をブログに掲載して停学処分になった一件を思い出す。
その度に書いて来たことだが、どうして彼らはインターネットが不特定多数から閲覧されるメディアである自覚が無いのか不思議でならない。今回はSNSのmixi(ミクシィ)であるが、それとて誰にも見られないメディアとは言えない。

そもそもホームページやブログを作るからには、多少なりともインターネットを経験している筈で、ウェブにアップした物は他人に見られることを知っているはずだ。

大学生にもなって、どうして社会から非難されるような問題を起こすのか不思議だが、さらに恐れることがある。それは、彼らが、このような言動を「何も悪いことはしていない」と判断しているのではないか?と思える点だ。もしそうだとしたら、ネット問題以上の根本的な問題を孕んでいるように思えてくる。
これはあくまでも筆者の個人的な価値基準であるが、たとえば「オタクはキモイ」などというのは不特定多数が閲覧するネットに書くのは無神経だが、友人同士でマクドナルドあたりで雑談中に出る会話としては許容できる。しかし、今回の患者差別のような発言は、たとえ私的な仲間内の会話であっても品性を疑う内容で、書き込んだ本人だけでなく、周囲の人間たちにも大いに疑問を感じざるを得ない。

ネット上で発言するのはテレビで発言するのと同じくらい責任が問われるという心構えを持っておくべきだろう。

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坂東真砂子「子猫殺し」へ。その1

2006年08月24日 02時58分04秒 | 社会・経済
ソース・資料はこちら→

坂東さんのエッセイにあれこれ言う前に、まず自分自身のことから語るのが自然だと思うので、うちの猫の話を書きます。
うちには雌猫が1匹います。素性は2才まで野良猫(正式には「地域猫」)でした。地域猫というのは、餌遣りされている野良猫です。猫擁護ばかりになっては公平ではないので、まず地域猫(ある人たちにとっては、ただの野良猫)問題から入りたいと思います。
猫好きさん達にとっては、地域猫は可愛い存在です。猫が飼えない環境に住んでいる猫好きさんたちにとっては、野外で地域猫に餌遣りしてる時間が至福のひとときだったりします。しかし地域猫が被害を与えているのも事実です。庭への糞尿、花壇などを荒らす、猫同士の喧嘩、発情期の鳴き声、あるいは自宅敷地内で死なれるのさえも猫好きでない人たちにとっては迷惑な行為でしょう。さらに猫アレルギーなどの疾患を持つ人にとっては深刻な健康問題にもなります。
筆者個人の考えでは、地域猫は減らして行くべきだと思います。本来、愛玩動物である猫は、野生にはいなかった動物です。ツシマヤマネコやイリオモテヤマネコとは違います。地域猫といっても、元は野良猫で、ペットが捨てられたか、その後に繁殖した物です。これは減らして行くべきだと思います。実現不可能かもしれませんが、0を目指すべきだと思います。
しかし駆除・殺処分による根絶には反対です。「絶対に飼い主が捨てないこと」と「すでにいる野良猫に不妊処置をして繁殖させないこと」の2つを柱として減少させていくべきだと思います。因みに筆者の住む地域にいる餌遣りおばさんたちは、自費で雌猫に不妊手術をしています。筆者が雌猫を一匹拾って飼っているのも、微力ながら野良猫を減らすためです。もちろん不妊手術済みです。2匹以上は飼えないので、たった1匹だけですが、それでも猫の生涯出産数を考えれば、数十匹の野良猫を減らすことはできたと思っています。

さて、筆者宅で飼うことになった雌猫ですが、不妊手術をする時、実は坂東氏と同じような悩みを抱えました。「獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか」の部分ですね。いや、雌に限らず、すべての生物にとって、これは真理だろうと思います。

動物は、なんのために生きているか?
多分、子孫を残すためでしょう。生命に限りがあり、子孫を残すという形で「種を保存」する意味は、「遺伝子のスクランブル」だと考えています。「進化論」は、このようなシステムが有るから成り立っています。仮に種が単純再生産されていけば、環境変化などに対応できません。気温が下がれば低温に適したように進化する、上がれば高温に適したように進化する。そういう個体を作り出すために、動物は自分自身が生きながらえるのではなく、自分は死して子孫を残すという生命活動を繰り返していると思います。
それなのに生殖能力を奪ってしまうのは、「生」の意義を奪ってしまうのではないか?
ここまでは坂東氏と同じです。
しかし、その後、別の考えが浮かびました。この論理が当てはまるのは、純粋な野生動物だけだろうと考えました。これは「自然の摂理」です。「自然の摂理」が適用されるのは野生動物であって、野生でない動物には適用されないのではないか?と考えるようになりました。それは以下の理由によります。

最も野性的でない動物とは何か? それは人間です。
上記の「動物は子孫を残すために生きている」という論理を、人間に適用したらどうなるか?
子供を産めない女性は生きている価値がない――極論ではこうなります。もしも坂東さんが、そこまで考えているのでしたら、「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」として書いて頂きたい。
筆者は、この種の保存原理は、野生ではなくなった生物には当てはまらないと考えます。すべての人間は、生きる価値があります。
ですから、人間と関わるようになってしまった動物たちにも、これは当てはめられると思います。例えば家畜(牛・豚など)です。人間の都合によって大量繁殖させられて大量にされています。ここに野生の原理は当てはまりません。
ペットとして飼われる(依存させられる)犬や猫にも、もはや坂東氏の考える自然の摂理は当てはまらないと考えます。牛・豚・犬・猫は、自然の摂理の下で種の保存のために子孫を残してはいません。人間が「生産」という管理下において繁殖が行われているのです。坂東氏は妊娠・出産において管理者の葛藤に直面しているように書いていますが、すでに坂東さんが猫を飼った時点で、その猫は坂東氏の管理下の置かれています。ならば管理者(飼い主)として繁殖にも責任を持つのが当然です。それ以上、面倒を見切れないのであれば繁殖調整、つまり不妊処置を取るべきです。
もちろん、犬・猫は不妊手術を望んではいないでしょう。しかし子孫を殺されることも望んでいません。もしもムツゴロウさんのように広大な土地を所有して動物王国でも作る気ならば、自由に交尾させて繁殖させても構いません。しかし、そんな余裕が無い場合は、どちらかを選ぶしかありません。筆者は繁殖させない不妊手術を選びました。それは手術しないことによって誕生する数十の生命を無残にも殺す事態を回避するためです。子種を断つのも子猫も殺すのも同じと坂東氏は書いていますが、全く違います。不妊手術は「殺害」ではありません。
完全に野生であれば、「生」の意義であった「繁殖」を奪う代償として、筆者は雌猫に誓いました。「子を産む権利を奪う代わりに、お前の生命は最後まで見届ける。筆者の力でできる最大限の努力として、1日でもお前を長生きさせてやる」と。
おかげ様で、当家の雌猫は11才になりました。野良猫の平均寿命は、だいたい3~4年と聞きますから、もう3倍くらい長生きさせてやることができました。もちろん、だから「子を産む能力」を奪った代償を果たしたとは考えていません。これから高齢になっていくほど、さらに責任は重くなると思っています。

なんだか猫の話になると、いつもの調子が出ませんね。話も全然まとまっていない(汗)。
でも、こんなに書いても、まだ言いたい事の1割も言った気がしません(爆)。これについては、またどんどん書いて行きます。
興味が無い方は「坂東エントリー」は、全部無視でお願いします(笑)。

【おことわり】
「なぜ動物を殺してはいけないのか?」という議論は、ディルレヴァンガー事件前から2ちゃんねるのムツ板あたりで延々と行われ、未だに続いております。結局、極論の応酬で水掛け論になるしかないんですよね。時間の浪費はしたくないので、当コメント欄で、その議論をするつもりはありません。違うお考えをお持ちの方は、このエントリーを無視してください。
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「子猫殺し」  坂東眞砂子

2006年08月24日 02時07分48秒 | 社会・経済
日経新聞に載った坂東眞砂子エッセイ「子猫殺し」が議論されている。色々と書きたいのであるが、書きたいことが有り過ぎて、全然まとまらない。とりあえず、今後のエントリーのためのソースとして、問題のエッセイと、ALIVEの統計を掲載する。筆者の考えは追い追い述べることにする。

 「子猫殺し」  坂東眞砂子

 こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
 子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)





ALIVEの調査では、平成15年度の犬の殺処分数は164,200匹ですが、そのうち、子犬33%、成犬 67%となっています。

また猫の殺処分数は275,600匹で、そのうち子猫は81%、成猫は19%となっています。この子猫はまだ目も開かないような産まれたばかりのものが大多数と言われています。このことは、特に猫については、不妊去勢の周知徹底により、8割以上の殺処分をなくすることができることを意味します。

飼育できずに殺処分ということに至る前に、飼い主のモラルの向上が強く望まれます。

犬猫の処分数の減少に向けてalive-net



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