最近街角で、めっきり見なくなった風物詩(?)の中に”紙芝居”がある。
夕方になると、どこからともなく自転車にのって”紙芝居”のおっちゃんがやってきて、それまでいろんな遊びに興じていた近所の子供達が集まってくる。手には5円玉や10円玉を握りしめて、せんべいや水あめを買うのである。兄弟がいるときなどは、”お兄ちゃん”がしっかり弟の分や弟の友達の分までめんどうを見ているという懐かしい光景が浮かんでくる。集まった子供たちにひととおりお菓子が行き渡ると、紙芝居の始まりである。ほんの10枚ほどの紙芝居をみんな真剣なまなざしで見ている。だれも途中でその場から離れる子供はいない。今となっては紙芝居のおっちゃんがどんな語り口で紙芝居をやっていたのかなどは記憶のどこにもないが、ただ、みんなが真剣に見入っている光景は焼きついている。
最近の子供の遊びといえば、殆どがテレビゲーム。派手な動きやアクションがないとどうもだめなようである。またインターネットもブロードバンドが進んで比較的手軽に動画を見ることができる。もちろん静止画よりも動画の方が説得力がある場合が殆どであるからそれそのものは否定はしない。しかし、どうもどこかゆっくりとイマジネーションを膨らませる時間が奪われている様に思える。高島礼子嬢による看板の話をしたが、この動かないからこそイマジネーションが沸き立つということを改めて大切なことだと感じる。
動画はたくさんの情報を提供することができるが、静止画はたくさんのイマジネーションを膨らましてくれる。
夕方になると、どこからともなく自転車にのって”紙芝居”のおっちゃんがやってきて、それまでいろんな遊びに興じていた近所の子供達が集まってくる。手には5円玉や10円玉を握りしめて、せんべいや水あめを買うのである。兄弟がいるときなどは、”お兄ちゃん”がしっかり弟の分や弟の友達の分までめんどうを見ているという懐かしい光景が浮かんでくる。集まった子供たちにひととおりお菓子が行き渡ると、紙芝居の始まりである。ほんの10枚ほどの紙芝居をみんな真剣なまなざしで見ている。だれも途中でその場から離れる子供はいない。今となっては紙芝居のおっちゃんがどんな語り口で紙芝居をやっていたのかなどは記憶のどこにもないが、ただ、みんなが真剣に見入っている光景は焼きついている。
最近の子供の遊びといえば、殆どがテレビゲーム。派手な動きやアクションがないとどうもだめなようである。またインターネットもブロードバンドが進んで比較的手軽に動画を見ることができる。もちろん静止画よりも動画の方が説得力がある場合が殆どであるからそれそのものは否定はしない。しかし、どうもどこかゆっくりとイマジネーションを膨らませる時間が奪われている様に思える。高島礼子嬢による看板の話をしたが、この動かないからこそイマジネーションが沸き立つということを改めて大切なことだと感じる。
動画はたくさんの情報を提供することができるが、静止画はたくさんのイマジネーションを膨らましてくれる。