よく、社会人になってから「あ~もっと勉強しておけばよかった!」という声を耳にしたり、実際に社会人として働きながら大学に通ったりする人もいるが、何でだろうということに改めて気づくことがあった。
じつは、いまあることの準備中なのだけども、ここに至るまではずっとその準備の為の“生徒”として教わってくる立場だった。
意思をもって教わってきたのだから、高校生のときのようにいやでも授業に出るというものではないはずだったけど、やっぱりどれだけ続けても“生徒”である限り越えられないものがある。
なぜ超えられないのかと言う部分と、冒頭の「勉強しとけばよかった」が実は通じている。
いま、準備中のあるものは、すべて自分たち仲間との手作り。だから周囲の協力してくれる人たちにはとてもありがたい気持ちで一杯。そういう気持ちで取り組んでいると、どんなことも「いいかげん」だったり「まあいいか」だったり出来なくなってっくる。
すべてにおいて妥協できないのだ。
生徒だったら、妥協したらそれはすべて自分にかかってくるだけ。しかし仲間と一緒にやっていてしかも協力してくれる人たちがいると、妥協したらその責任は自分だけに降りかかってくるわけじゃなく、周囲の期待してくれている人や仲間に申し訳ないと思うし、迷惑だってかけてしまう。
協力者がいてくれることや期待してくれる人、賛同してくれる人がいるというだけで、こんなにも自分に厳しくできるというのは生徒だけであるかぎり絶対に無理だったとおもう。
何かをやり始めることがこんなにも心構えから変えるものだとは夢にも思わなかった。
じつは、いまあることの準備中なのだけども、ここに至るまではずっとその準備の為の“生徒”として教わってくる立場だった。
意思をもって教わってきたのだから、高校生のときのようにいやでも授業に出るというものではないはずだったけど、やっぱりどれだけ続けても“生徒”である限り越えられないものがある。
なぜ超えられないのかと言う部分と、冒頭の「勉強しとけばよかった」が実は通じている。
いま、準備中のあるものは、すべて自分たち仲間との手作り。だから周囲の協力してくれる人たちにはとてもありがたい気持ちで一杯。そういう気持ちで取り組んでいると、どんなことも「いいかげん」だったり「まあいいか」だったり出来なくなってっくる。
すべてにおいて妥協できないのだ。
生徒だったら、妥協したらそれはすべて自分にかかってくるだけ。しかし仲間と一緒にやっていてしかも協力してくれる人たちがいると、妥協したらその責任は自分だけに降りかかってくるわけじゃなく、周囲の期待してくれている人や仲間に申し訳ないと思うし、迷惑だってかけてしまう。
協力者がいてくれることや期待してくれる人、賛同してくれる人がいるというだけで、こんなにも自分に厳しくできるというのは生徒だけであるかぎり絶対に無理だったとおもう。
何かをやり始めることがこんなにも心構えから変えるものだとは夢にも思わなかった。